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8 承・月鏡 

 静かな夜空に、だれかの微笑みに似た三日月が浮かんでいた。

 自動車。街灯。建物。タクシーに揺られて、陸の眼に映す夜景は移ろっていく。けれど、月だけは変わらず寄り添ってくれた。彼を慰めるように、ずっとそばにいてくれた。

 そんな勘違いをしてしまうほど、今夜の月明かりは優しかった。優しすぎた。 


「着きましたよ」


 タクシーの運転手の遠慮がちな声に、陸は夜空から視線を落とす。愼一から渡されたお金を渡し、無言でタクシーから降りた。先に北石動斎場から帰らせてもらったのだ。 


 なにも言わずに側にいてくれる友人の不器用な優しさ。

 普段以上に寡黙に身体を動かしている父親の様子。

 雑談しながらも、ここではない遠くへ揺れる伯母や祖父ら親戚の眼差し。 


 そのひとつの静かな糾弾とて、今の陸には堪えがたかった。

 紫織を中心に花咲いていたみんなの笑顔は、枯れ果ててしまった。

 そんな色あせた場所で、通夜の晩餐をするなど、陸にできるはずがなかった。


「ただいま」

 

 だれも待つものなどいないのに、陸はいつもどおりに家に入っていた。玄関の明かりに、反射的に声を出していたのだ。

 陸の声だけが反響し、家の中の暗闇に飲まれていく。返事のない静かな家屋は、夏ながらひんやりうそ寒い。


 ……これがこれからの当たり前の光景なのだ。紫織を失った久遠院家の光景となるのだ。父の帰りが遅い以上、陸はこのようにだれもいない家へ帰らないといけない。それはとても心寒いものに思えた。


「ぬ?」


 玄関で靴を脱いでいるとき、ふと陸は動きを止める。指に棘が刺さったような、小さいが無視できない違和感がつきまとったのだ。


「……疲れてるみてぇだな」 


 今は寝よう。なにもかも忘れ、泥のように眠ってしまいたい。陸はそう思って、電気もつけずに家にあがる。


「――え?」

 

 二階の自室に向かおうとした陸の足が、床に貼りついた。一瞬視界を掠めた光景に、陸の額に浮かんでいた汗まで、ぴたりと止まる。


(――だれだ?)


 襖を閉め忘れた座敷に、ぼんやりと人影が立っていたのだ。

 どくんと、夜の静寂を突き破るほど、陸の心音が鳴り響く。

 物取りか? それにしては、じっと動きがない。

 けれど間違いなく生きたナニカだ。


 原住民に混じって狩猟生活をすればいいさと、保険医にあきれられた逸話があるほど、陸は眼がよかった。

 だから暗闇とはいえ、ほんの数メートル先の人影を彼が見誤るはずがない。ただ、その影には人の温かみがまるでなかったのだ。精巧な彫像としか思えないほどに。


 座敷から洩れる夜気は、異様に冷たい。

 半歩。陸は後ずさりそうになった足を強引に前へ出す。

 黒い傘。長い、とても長い黒銀の髪が露わになる。


「あ――」


 暗がりのなかにいたのは、あの白い少女だった。  

 事故のあった川に現れ、紫織の亡骸の前に姿を見せ、そして今陸の前に佇んでいた。

 幻影のように。泡沫のように。蜃気楼のように。されどたしかな姿を持って。 

 座敷のすみ。半紙で隠された神棚の前に立ち、少女は無言で手を合わせていた。  

 長いまつ毛と筋の通った鼻梁が、絶えず灯されていた仏壇の燭台と重なり、影を落とす。


(なんで仏だんじゃなくて、神だなに手をあわせてるんだ?)


 陸の疑問は声にならない。舌が乾いて口内に張りついているのだ。

 窓は閉められているのに、冷ややかな風が部屋に渦巻いている。

 その中心に、髪をそよがせる彼女がいる。集まっている。冷風とともに眼に見えないナニカを取りこんでいるかのように。

 物取りなどよりよほど出遭ってはならないモノと遭遇しているのだと、痺れる頭が警鐘を鳴らしている。


 なのに、陸は動けなかった。動きたくなかった。

 それほど祈りを捧げる彼女は、神秘的で侵しがたかったのだ。その麗姿を額縁の中に納めて、魂を宿した名画として永遠に保存したいと思うほどに。

 陸は息をするのも忘れ、白い少女の横顔を食い入るように見つめ続けた。


 ゆっくりと、白い少女が陸へ向き直る。

 清廉な鈴の音。黒銀の長髪が幽玄に流れて、不思議な光沢を放つ。

 暗がりに、紅い瞳が紅玉のように冷たく輝いた。 


「おかえりなさい。ちょっとはましなかおになったわ、ね」


 橙色の燭台にも白く映える頬をゆるめ、少女は朗々と陸に語りかけた。


◆◇◆


「あ、ああ。ただいま――じゃなくて、オマエどうやってここに?」 


 今の少女に、斎場のときのような威圧的な気配も、先ほどまでの神秘的な雰囲気もない。ただとろりと深遠な眼差しを陸に向けている。 

 そのため、陸は部屋の明かりを点けて、なんとか彼女に問いかけることができた。


玄関(げんかん)から。カギ、あいてたわ、よ」 

「マジでか。ドロボーはいってくるじゃねぇか」 

()をつけなさい。葬儀(そーぎ)どろぼーって、おおいんだから」

「おう、オヤジに言っとく……じゃなくってドロボーはオマエだろっ!!」  


 親切な忠告に頷きそうになった陸は、慌てて首を振る。無断で人様の家にあがっている彼女が言うことではなかった。


「ぬれ(ぎぬ)、ね。()しくなるよーなもの、なにもなかったもの。ここほんとーにあの久遠院家(くおんいんけ)、なの?」

「オレん家だよ! だれもいない間に勝手に探すって。オマエ、ほんとにドロボーするつもりだったのか」

歴史(れきし)()たもの、なんにもないの、ね。どれもこれも、(おも)いいれが(つよ)いだけのがらくたで、小腹(こばら)ぐらいしか()たせない、わ」

「がらくたって……」


 ゆらゆらと、腕に抱えた黒い傘を揺らして、白い少女は部屋を見渡している。気ままなその様子は、陸の抗議を聞いているようには思えなかった。そして、金目のものを物色しているようにも見えない。身なりも挙措も上品なのだ。


仏壇(ぶつだん)はまーまーだけど、抹香(まっこう)くさいんじゃ、ね……」

「“不正潜入”したやつが人ん家にケチつけるじゃねぇよ」

「“不法侵入(ふほーしんにゅー)”って(ことば)もしらないぱーが、(いえ)内情(ないじょー)知悉(ちしつ)するはずもない、か」 

「ど、どっちでもいいだろ。オマエみたいやつに常識を言われたくねぇよ」


「……。…………」

「……え? こ、ここで急にダンマリ?」 

「いわれたくないんじゃない、の? めんどいやつ、ね」

「へ、あり? お、オレが悪いのか?」 


 白い少女の蝶の羽ばたきのようなかすかなため息に、陸は当惑する。

 悪いのは間違いなく彼女のはずなのに、もっともらしく言われるとうまく反論できない。鈴の音と彼女のとろりと清らかな声が、不思議なまでに陸の胸に染みこんでくるのだ。


「そもそもオマエ、なんでオレの家にいるんだ」

(そと)、あつかったから。これ、なかなか快適(かいてき)、ね」 

 

 あどけなさを残す涼しげな眦を下げて、少女は黒銀の長髪を冷風にそよがせている。

 見ると、エアコンが全開に使われていた。いつもの設定温度から十度も下げられている。

 玄関で抱いた違和感も、部屋で感じた寒気も、全部彼女の気まぐれな行動のせいだったようだ。先ほどまでの幻想的な風景も神秘的な様子も、色々と台無しだった。


「だぁもう。だからそうじゃなくって……」

「あ。吝嗇(けち)なことしないで、よ」 


 身体に悪そうな冷房を切って、陸はもどかしげに頭を掻きむしる。どこかずれている。会話ができているようで、できていない。

 ここまで自由気ままな従姉妹がいる話など、陸は聞いたこともなかった。本当に、この女はなんなんだろう? きょとんと、小首をかしげ、エアコンのリモコンを物珍しそうに振っている。これではまるで初めてリモコンに触れたようではないか。


 ふと、どうしようもない不安が陸を襲った。目の前にいる少女が同じ人間とは思えなかったのだ。決められた言 語を話す近未来のロボットだと言われたほうがまだ納得できる。それほど彼女の姿は完璧すぎるほど美しいのに、言動がひどく拙かった。

 それでも陸が変に警戒したり、警察に連絡したりしなかったのは、少女が紫織の傘を大切そうに腕に抱えていたからだ。


◆◇◆


「オマエさ。その傘……。姉ちゃんの友達なのか?」 


 陸の問いかけに白い少女は紅玉の瞳を揺らし、自由奔放な雰囲気が崩れた。

 哀切や、悲愴といった負の感情が入り混ざった儚げな表情で、頭部の髪の毛をそっといじる。


「……いいえ、それほどの(えにし)はない、わ。ただこの(かさ)、かしてもらっただけ」 

 

 エアコンのリモコンを畳に置いて、ちらりと、白い少女が陸を見る。

 顔をあげたときに見えた表情は、氷の彫刻のように清冽なものに戻っていた。


「えにし? よくわかんねえけど、姉ちゃんからその傘貸してもらうような仲なんだろ。 ならもう友達じゃねぇか」  

「……。……あの(あね)にしてこの(おとーと)あり、かしら。その図々(ずーずー)しさにも()善意(ぜんい)のおしつけは、(にく)きもの、ね」 


 古風な言葉づかいで気にいらないと、白い少女は小さく嘆息した。どうやらそこまで仲が良かったというわけでもないらしい。


「オマエさ。そんなこと本人の前で言うもんじゃねぇぞ」


 そう言ったものの、陸は不思議と腹が立たなかった。

 基本的に彼の神経が図太いのもあったが、陸と白い少女を結びつける紫織という共通点。 それにはじめて会話らしい会話が成立したから。


(かがみ)

「へ?」


 ぽつんと、白い少女は適当な言葉の羅列のように呟いた。


「わたしの名前(なまえ)。しょーねんにオマエよばわりされるほど、零落(れーらく)した(おぼ)えはないわ」 

 

 少女――鑑の瞳が冷たく輝く。静かな声音ながらも、有無を言わせない眼差しだった。

 それに陸は気圧されて、小さくうなずく。それから自然と笑みを零した。

 自己紹介は仲良くなるための第一歩だ。素直にうれしいと、陸は思った。紫織が大切にしていた傘を貸し与えられるほどの人物ならなおさら。


「わかったよ、鑑。オレは陸――久遠院陸だ」

「よい()、ね。できるだけ、(わす)れないよー善処(ぜんしょ)する、わ」

「ぬ。ただ名前覚えるだけだろ。さっきからどうしてそんなえらそうなわけ?」

「えらいから、よ。軽佻浮薄(けいちょーふはく)名前(なまえ)()んではいけないほどに、ね」 

「おい。じゃあオレはオマエのことなんて呼べばいいんだよ。君とでも言えってか」

(かがみ)でいいわ、よ。(おな)じこと、二度(にど)()わせないで」


 意味がわからなかった。軽佻浮薄という言葉も陸にはわからなかった。なんとなく軽々しくというような意味だとは思ったが、鑑の言葉遣いは難しい。まるで本家の婆さまを相手にしているようだと、陸は眉を寄せる。


「ぬぅ。鑑、でいいんだな。で。鑑はオレの家になにしに来たんだ? なんか用があるんじゃないのか?」 

 

 ちらりと、鑑の華奢な腕に抱えられた黒い傘に視線を落として、陸は尋ねる。

 理由はだいたい予想できたが、それはできれば本人の口から聞きたかった。


「あら。しょーねんにしたらいい質問(しつもん)ね。けど、めんどいから回答(かいとー)はやめとく、わ」 


 鑑は相当勝手次第な性格らしい。陸のことは自己紹介があっても“しょーねん”で通すようだ。 


「めんどいって……。そこで面倒がるなよっっ?! 三十字以内で簡単に答えろ」

「“かりたもの かえさぬことは わがしゅぎに はんするゆえに ここへおとなふ” あら、残念(ざんねん)。これだと三十一文字(みそひともじ)、ね」 

 

 精巧な細工のような細指を降りながら、鑑は台詞を棒読みにするように答える。しつこいだけの男に絡まれたように物憂げだが、答えてくれるだけ、案外律儀なのかもしれない。


「わざとだろ! 短歌っぽい難しいことができるのに、わざとだろ?! しかも二文字も多いぞ」

「“しゅ”は一文字ひともじにかぞえられる、のよ。これでもわかりやすくしたつもりなんだけど、あなたってずいぶんさく、なのね」

「ぬけ……? うぬぅ。さっきから難しい言葉ばっか使いやがって」   

与太郎(よたろー)、とんちき、ぼんくら、あんぽんたん……よーするに、ぱーってこと」

「おい、ぱーってなんだよ。会ったばっかなのに、よく人のことを知りもしないでバカにすんじゃねぇよ!」


 英語ができる悠也みたいに、難しい言葉を知ってるのをじまんしたいのか? 陸もバカにされるのに慣れっこなほどバカなことは認めていたが、ここまでけなされるとさすがに腹が煮え立ってきた。

 陸の怒気を含んだ声に、鑑は一瞬、桜の花びらのような薄い口唇をきつく結んだ。

 

「……。かしましいわ、ね。これでも(みみ)は、いいんだから、ちゃんと()こえるわ」 

「怒らせるようなこと言う鑑が悪いんだろっ。ちゃんと謝りやがれ」

煩雑(はんざつ)餓鬼(ねね)、ね。めんどいし、やっぱり(ころ)そう、かな」

「――え?」


 スナック菓子でも口にするように何気なく口にした鑑の言葉は、ひどく冷たかった。陸の全身の肌がひりつく。若者(じぶんたち)がふざけて言う言葉と重みがまるで違う。道場で師範(そふ)と真剣で立ち合ったときのような、本物の殺意を感じた。


「――冗談(じょーだん)、よ。あなたみたいなぱーをいま(ころ)しても、えぐみが(つよ)いだけで、なんにもならない、もの」


 どこまで本心なのか、しれっと鑑は口許だけの冷笑を浮かべる。

 後ずさっていた陸を見つめる眼は、あめ玉のようにとろりとした哀しみを宿しているように彼は感じた。それはぞっとするほど美しく、同時におそろしい。


「ごめんなさい。しょーねんを莫迦(ばか)にするつもりはなかったの、よ。どんな反応(はんのー)するか、()てみたかっただけで」

「なお悪いだろ、おい」


 自己中で傲岸不遜で笑えない冗談を口にするが、悪いやつでもないと、陸は思った。

 夜間に家に勝手にあがりこんでくるあたり、これっぽちもまともじゃないが、それでも鑑は陸と話をしようとこの場に来ているのだ。紫織の傘を大事そうに持って。ならば大事な客人だろう。

 

◆◇◆


「――わざわざありがとな、鑑。姉ちゃん……きっと喜ぶよ。その傘、昔からほんとに大切にしてたから、置いてきたって聞いたときは、びっくりしたんだ。古本屋に行ったときはもうなかったし」


 少しだけ、ほんの少しだけ、陸は紫織がもういないことを忘れていた。

 鑑とのやりとりは、学校で友人とバカをやっているときのような心地よさがあった。

 大きな声を出す。ただそれだけで胸に溜まっていたものが軽くなった気がした。


「しょーねんから()りてない、わ。わたしは本人(ほんにん)(かえ)しにきた、の」


 くるくるり。陸がさし出した手をぼんやりと見つめ、鑑は閉じられた傘を廻した。さらりと、なんでもないことのように言う彼女の態度に、陸の心が荒立つ。自分の悪口を言われたときよりもはるかに。


「なっ。なに言ってやがるんだ。鑑だって知ってるだろ。いくら冗談でも言っていいことと悪いことがあるぞ!」


 本人に返しに来た。死んでもういない紫織本人に。 

 そのあんまりな物言いに、陸はきつく拳を握り、鑑を睨みつけた。 


「……けどそれもむり、かな。しょーねんは(なげ)(かな)しむことはできても、あの()がたくした(のぞ)みは、なにも(かな)えてあげてない。()ちどまるどころか、()げてるんだもの。嬰児(みどりご)のまま安佚(あんいつ)、むさぼった稚児(ねね)には、(ゆる)される希望(きぼー)すら()にいれる資格(しかく)はないわ、ね」


 陸の剣幕にもまるで頓着しない様子で、鑑は自分の世界で言葉を完結させる。 

 花開いた黒い花弁(カサ)に寄り添う白い百合のような少女は、静かに窓辺へと視線を流し、何事にも無関心な様子で夜空の月をうっそりと眺めた。


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