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7 承・家族

 紫織の仏前に現れ、忽然と消えてしまった謎の少女。

 彼女に紫織の傘のことを問いただすため、陸は斎場内を走り回った。 

 しかし、どれだけ探しても見つからない。あれだけ人目を惹きつける妖しい容姿だったのに、見かけた人さえだれもいなかった。


「……まさかオレだけに見える幽霊? 姉ちゃんでもないヤツの? まさか」


 陸は鼻で笑い飛ばそうとしたが、斎場独特の陰鬱な雰囲気が彼の常識を惑わした。


(――どうしてオレはあの女のことが、こんなにも気になるんだ? 姉ちゃんの傘を持っていたから? あの謎めいた言葉がひっかかったから? それとも……がむしゃらに行動することで、自分に罰を与えたいから?)


 おそらく、どれでもあって、どれでもない。ぴったりとあてはまる理由が思い浮かばない。説明が苦手な陸には、自分がなぜここまで必死なのかわからなかった。 

 よく理由のわからないまま、混沌とした衝動が陸の身体を突き動かした。


「――ああくそっ。わけわかんねぇよ」 


 もしかしたら自分は、紫織を失った哀しみでとっくに狂ってしまっていたのか。

 陸がどれだけ親戚に尋ねまわっても不審げに、もしくは気の毒げに見られるだけ。らちが明かないので、遺族の待合室に戻ってみることにした。 


 ……傘の少女は当然いない。 

 代わりに僧侶が到着し、喪主の愼一と通夜の段取りの最後の確認をしていた。琴音も親族をまとめあげて、黙々と動いている。

 自分だけなにをしているのだと、陸は思った。だれもがやるべきことを心得ている。みんな紫織の死を受けいれられなくても、悲愴のなかで、なすべきことを淡々とこなしている。それなのに――。


「あの、琴音おばさん。親戚にオレと同じか少し上ぐらいの子って、いませんか?」


 そんな言葉が自分の口から出ていたことに、陸は驚きを隠せなかった。

 それでも、女系家族である久遠院家で宗家のまとめ役の琴音なら、なにか知っていることがあるかもしれない。紫織の傘を持つ少女のことがわかれば、この胸のざわめきが治まり、そしてきっと……。――きっと、なんだというのだ?


「今日通夜に来るのは大人ばかりだけど、どうかしたの?」


 バカなことを聞いてしまったと、陸は後悔した。自分でもうまく言葉にできないこの想いを、琴音に説明できるはずがないのだ。


「……いや、ならいいんです。ちょっと話し相手がいないかなって思っただけですから」


 不審に思われないようとっさに言いつくろい、陸は口を噤んだ。これで話しかけづらいはずだ。

 窮地に陥ったり、苦手な人の前だったりすると、陸は普段以上に頭が回った。やんちゃな悪餓鬼らしく、昔から悪知恵だけは働いたのだ。


「そう? なら、私でよかったら陸くんの話、聞くわよ」

「あ……ええと」


 ……ただ、しょせん悪餓鬼の浅知恵であるため、働いてもさして効果がないこともあったが。拒絶の意志を示す陸に、琴音が歩み寄ってきた。


「おばさんじゃちょっと年が離れすぎてるけど……。でもだからこそ話せることもあるんじゃないかしら?」

 

 そばに控えていた分家の者に後の通夜の準備を任せると、琴音は陸の隣へ並んだ。

 琴音は自分に子供がいないためか、陸ら子どもたちには親身に接してくれていた。紫織もいい人だと言っていたのだ。陸もそう思いたい(紫織はほぼだれでもいい人と評したので、この点だけは信頼してなかった)。

 だが、愼一には眼も合わせない冷淡な態度や、あまり揺れない冷厳な眼差しが陸の態度を頑ななものにさせた。


「ひどい顔ね。泣いたの?」

「いいえ、泣きません。ずっと辛かったはずの姉ちゃんが泣いてないのに、男のオレが泣いていいはずありません」


 琴音は否定も肯定もなく、ただ陸を見つめた。胸の内まで見透かすような、深く鋭い眼差しだった。


(……本当に、おばさんよりも恐い感じがしたのに、どうしてあんな女のことで頭がいっぱいになったんだろう?)


 陸は冷静な琴音と向かい合うことで、妙な熱が冷めてくるのを感じた。 

 かわりに別の想いが炎のようにくすぶり、彼の胸を焦がした。  

 これまで胸の奥に押しとどめていた想いが、押さえきれずに吹き出した。 

 あれだけ苦手意識があったのに、陸は琴音に胸の内をとつとつと打ち明けていた。


“昨日まであんなに元気だったのに、誕生日を楽しみにしていたのに、オレのせいで姉ちゃんは二度と笑ってくれない。自分が許せない。自分が生きていることが許せない。ドウシテ、こんなことになってしまったのか。ドウシテ、オレはなにも覚えていないのか。ドウシテ、姉ちゃんは死なないといけなかったのか”


……ドウシテ……ドウシテ……ドウシテ……


 陸の慟哭は、壊れたラジオのように繰り返される。当然、琴音が陸の訴えの答えを出してくれるわけではない。でも彼女は黙って、静かに聞いてくれた。ただそばにいてくれた。 

 陸の声と身体は細かく震え、その頬に湯のように熱い涙が流れ落ちる。噛みしめた歯から、嗚咽が洩れてくる。抑えられない。次から次に紫織への想いがあふれてくる。これだけ外へ流しても、姉への想いは胸の内から尽きることがない。

 それは、紫織が死んでからはじめての、陸が零した涙だった。

  

「――今は泣いてもいいわ。陸くんが泣いている姿は私が隠していてあげるから。だから今はたくさん泣きなさい。けど陸くんが、紫織ちゃんを思うたびに悲しくなっていたら、あの娘も悲しくて安らかに眠れなくなるわ。だから今のうち、泣けるだけ泣きなさい」


 無地の黒いハンカチを取り出し、琴音は陸を両腕で抱き寄せた。 

 陸はさして抵抗せずにその抱擁を受けいれた。陸の身体を包みこむ前に見えた琴音の眦の白粉がうっすらと拭われていたからだ。


「――はい」


 くしゃくしゃになった顔をハンカチで隠し、陸は涙をぬぐった。

 琴音の言葉が本当ならずっと悲しい顔のままでいい。陸ははじめから湿っていた生地に顔を埋めて不謹慎にもそう思った。


「お通夜では悲しいかもしれないけど、久遠院の人間だと言うことを忘れないように。弔問客に対しては毅然とした態度で臨んで、紫織ちゃんの冥福を祈ってあげましょうね」

「……はい」


 琴音は未熟な男を叱責する厳格な眼差しで、それでも我が子を慰めるようにそっと陸の肩に手を置いた。手の重みと温もりに、陸はかすかに頷いていた。冷厳な琴音にこんな一面があったなんて、知らなかった。


 みんな家族なのだ。ここに集まった人は、紫織のことを大切に思う家族なんだ。

 哀しみを隠して淡々と行動するしかない。だれかに責任を押しつけずにいられない。片隅で力なく偲ぶしかない。そんな人前では泣くことすら許されない大人なだけで。

 

“みんなやさしくって、とってもいい人たちだよー”


 皮肉なことに、紫織がいなくって、はじめて陸にもそのことがわかったのだった。


◆◇◆


 真夏の灼ける日差しも、六時半を過ぎるとずいぶん和らいできた。

 それでも黄金色の輝きは世界を紅く染めあげ、蒸し暑かった。 

 そんな中、真っ黒な服を着た人たちが北石動斎場に集まりだす。


 バスに乗った団体の人たちもやってきて、斎場もいよいよ慌ただしくなる。 

 紫織が贔屓にしていた商店街の人たち。よくにこやかに話をしていた近所の人たち。

 でも今は逆光を浴び、黒い影法師のようだ。暗く無表情で、なにもわからない。 


 そんな中、ひとりだけ異質な存在がやって来た。悠也だ。

 白い眼帯つきの腫れぼったい顔の彼に周囲は眉を顰めたが、たしなめるだけの気力があるものは、だれもいなかった。

 

「……えっと。このたびはほんとに御愁傷さまでした」


 悠也は遠目に陸を見つけると、なにか言いたげに駈け寄ったが、出てきたのは定例の言葉だけだった。周りの凄愴な雰囲気に気圧され、力ない動きで祭壇の間に呑まれていく。 

 その後、学校指定の紺のセーラー服を喪服に、数十人の女子生徒がまとまってやってきた。明らかにクラスメイト以外の女子も何人も来ている。その後ろの引率役の教職員や男子生徒らも合わせれば、一クラスでは収まらないだろう。 

 陸と視線が合うと、静かに黙礼された。 


「……」

 

 ただ、紫織ととくに仲が良かった彼女の親友は、陸をじっと見つめ続けた。その視線は、睨んでいるともいえた。

 虚ろで、暗くて、冷たく、濁った瞳。紫織を死なせたことを無言で批難しているのだ。まるで生気が感じられないのに、暗い輝きが瞳に灯っている。

 周囲に気を配る余裕がない今の陸にもわかるほど、その瞳は悲しみに満ちていた。


 そんなの思いこみだと、陸は奥歯を噛みしめる。自分にはそんな視線を向けられる資格さえない。これまでの紫織のがんばりも、これからの紫織の未来も、すべて台無しにした最低の男なのだから。

 この命が紫織に救われたものでなかったのなら、真っ白になってしまいたい。彼女のために捧げられた、白い花のように。償いきれない思いを胸に、陸は通夜に臨む。


◆◇◆


 弔問客で祭壇の間の席が埋められていく。 

 紫織を偲ぶ者で、たくさんの席が埋められていく。 

 そうして僧侶が祭壇の前へ立ち、いよいよ通夜がはじまった。 

 死者の冥福を経が読まれる中、前から順番に焼香をあげる。


 時折声を押し殺すもの。

 無言で肩を震わせるもの。

 茫然と虚空を見つめるもの。


 同じ目的のために集まり、同じ人物を偲んでいるのに、本当にさまざまな人がいた。

 先ほどあれだけ泣いたからだろうか。陸はそんな周囲を見渡す余裕さえあった。 

 ……あの不思議な少女はやはりいない。 


(オレがそんな様じゃできることもできない? なにができるか考えろ?)


 心に染みこむ彼女の言葉が、陸の耳許によみがえる。

 紫織のためにいったいなにができるというのだ? 死とは絶対だ。どれだけ大変な思いをしても、母親は戻ってきてくれない。祖母も家に遊びに来てくれることはない。大好きな人を手の届かない遠くに無理矢理連れ去ってしまう。それが死という絶対のものだ。

 それなのにあの少女の声には、陸に淡い幻想を抱かせる不思議ななにかがあった。


 陸はうつむき気味の顔をあげる。そこには棺のなかで瞑目する紫織がいた。

 その顔は驚くほど穏やかだった。本当に、ただ眠っているだけのように。王子さまの口づけを待つ眠り姫のように。

 けれど普段は水蜜桃のように色づく頬は、悲しいまでに白々としている。目尻の下がった穏和な眼差しも、泣きたいまでに堅く閉ざされている。


 だれかが、近くで嗚咽を零した。自分がまた泣いていることに、陸は遅れて気づいた。

 陸の心にちょっとでも暗い影が差すと、本人よりはやく気づいて、おかしをたくさん作ってくれた紫織。母なし子と弟がいじめられると、決して許さずいっしょに立ち向かってくれた姉。やさしくて、けれど心に芯のある強さを秘めた彼女。

 

 胸がつまる。目頭が熱くなり、鼻水が垂れてくる。陸がこんな顔をすれば、真っ先にとんでくるはずの紫織の声は聞こえない。彼女は本当に死んでしまったのだ。

 死者へなにをしてあげられるというのだ。陸の膝に、涙が滴り落ちていた。無力さに打ちひしがれ、時間だけが無常に過ぎていく。


◆◇◆


「――本日はお暑い中、娘、紫織のためにご弔問においでいただき、まことにありがとうございます」


 一時間あまりの僧侶の読経後、喪主の愼一が通夜に訪れた者たちに挨拶をした。 

 愼一は、どうやら紫織が弟の陸を助けるために川で流されたらしいと、弔問客に包み隠さず話した。他人の悲しみを自分の悲しみのように感じることができる優しい娘で、弟思いな彼女らしい最期だったと誇らしげに語った。


 愼一は紫織を悼む言葉など言わなかった。こちらのことは心配いらないと、ただ娘に伝えようとしているだけだった。

 その低い声は、障子紙のように簡単に破けてしまいそうなはりつめたものだ。


 四方に、押し殺す声があふれ出す。

 今ごろは先立った妻と天国で再会し、案外のんびりと暮らしている気がする。

 もしかしたら、甲斐性ない男二人を心配して帰ってきてくれるような気さえする。

 そんな未練を、愼一は言葉をつまらせながら洩らした。

 すすり泣く声が、部屋中に拡がっていた。


「――お聞き苦しいことを申し上げて失礼しました。今日は紫織の供養のため、ささやかではございますが、隣の部屋にお食事を用意させていただきました。どうぞ、遠慮なくお召し上がりください。故人と最後のひとときをお過ごしいただければと存じます」 


 涙のにじんだ陰る眼差しを分厚いメガネで隠し、愼一は真人間らしい型どおりの言葉で締めくくった。 

 そうしてひとつの式が終わる。これでまたひとつ紫織の死がたしかなものとなった。


 それなのに、陸は通夜が終わっても紫織への未練を断ち切れなかった。 

 彼の気持ちを代弁するように、立ち上る焼香の残煙がなびいて物悲しそうに天へと繋がっていた。

  


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