6 承・通夜
今話より承のパートです。
いち、にい、さん。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
それよりおおいものは、たくさん。
幼いころは、それだけで世界は十分だった。
たくさんのかいだんをのぼって。
たくさんの木々のあいだを通りぬけて。
今日もそこで、ぱんぱんと、手をあわせた。
たくさんほこらしくて、たくさん楽しくて、たくさんうれしかった。
あれからたくさん“ぱんぱん”した。
幼い自分は母さんのためにそうした。
そいつはすごいやつだって、教えてもらったから。
だから手をあわせたあと、しずかに“おねがい”したのだ。
けれど、そんな幼い期待は、あっけなく打ち砕かれることになる。
――ひとつたりない――
ずっとみっつだと思っていたものは、自分も含めてよっつだったのだ。
幼いオレは今よりずっとバカで、そんなことさえ、失うまで気づけなかった。
だから大切なひとつが――母さんが死んでしまったとき、オレはどうすればいいかわからなかった。
そんなとき、姉ちゃんが教えてくれた。母さんのかわりにたくさんの大切なことを。
でも、だから――今はもうなにもわからない。
◆◇◆
街路樹の日陰で涼めるほどには、影が伸びてきた。
陸は顔を伏せ、愼一の運転する車にゆられる。
“可愛そうに、どうして彼女が……”
“全部、君のせいだ”
話す人などいない。ただ、エンジン音やセミの声などの雑音が呪詛のように聞こえ、陸を責め立てるのだ。姿なき糾弾の声に、多感で柔らかな彼の心は抉られる。このまま壊れて消えてしまいたくなる。
強い自責の念。通夜の会場――北石動斎場に車が到着したころには、陸の眼に映す世界はモノクロに色あせたものになっていた。
斎場は悄然としていた。空気そのものが澱のように重く停滞している。
石作りの硬い建物は、なんの温かみも感じられない。その周囲を囲む命なきスタンド花は、虚しいまでに毒々しい。
洪水のような蝉時雨を浴びながら、ふと陸は思う。通夜とはなんなのだろう。学生服が中学生の正装だなんて、自分の悪戯よりタチが悪い。生と死が。日常的な格好と非日常な儀式が、ない交ぜになるここは異界だ。眼をそらされ、ぽっかりと隔離された異界。こんな場所で、紫織とさよならしないといけないなんて、イヤだ。
七時にはじまる通夜には、まだ二時間あまり時間があった。その時間が辛い。
待合室では、すでに陸の母方の親戚らしき人たちが、黒々とした山々のシルエットを作っていた。気持ち悪い。祖母の葬儀には来てくれなかったのに、どうして?
「この度は大変お気の毒でございました」
お悔やみの言葉が粛々と交わされる。感情の色も揺らぎもない、録音されたような声。大人たちの会話に、陸は表情を固くして押し黙る。
子どもの陸には、難しい話はよくわからない。けれど悪いのは自分なのはたしかだ。なのになぜ愼一が、久遠院家の婿養子として失格だったとなじられねばならないのだ。
陸が小さく震えていると、ぽんと愼一に肩を叩かれた。あっちへ行ってろと、顎をしゃくられる。陸の一歩前へ立つ姿は泰然としていて、愼一は自分の父親なのだと、今さらながら陸に気づかせる。
「――何なんですの、このこぢんまりした斎場は?」
「長姉たる紫織さんの通夜を何だと心得ているのかしら?」
「訊きました? 最初は仏教式じゃなくて神道式でお通夜が行おうとしたんですって」
柱にかかる古びた時計の長針が動くにつれ、黒い影絵は大きく蠢きだす。
遺族の待合室の中央を占めるのは、ほとんどが母方の親戚だ。黒い塊はひとつの生物のように密集し、布地を裂くような言い方で通夜のあり方を批難していた。
父方の親戚は、不要な面倒ごとを避けるために、待合室の隅や外へ散っている。陸は待合室の壁際で腕組みする祖父の側で、柱に背をあずけ車座になっていた。
小さくなった。祖父の背中を見て、陸はぼんやりとそう思った。
祖父は弱かった自分に剣を教えてくれた。だから祖父は陸にとって子どものころからのヒーローで、今でも戦隊ヒーローやスーパーマンより強いと思っている。
だからこうやってじっと後ろ姿を見ないかぎり、祖父が小さくなったなどとは思いもしなかっただろう。
穏やかながらも茫洋とした眼を見ると、それだけで血が沸き立つような圧倒的なものを感じる。杖もつかず、腰ひとつ曲がっておらず、老いてなお矍鑠としている。
けれどどこか小さくなった。それは自分が大きくなったのか、それとも――
陸は首を振って柱時計を見つめた。
祖父にまで死の足音が迫っていると考えたくなかったのだ。
五時を過ぎたころ、ざわめく待合室が水を打ったように静まりかえる。伯母の久遠院琴音が、やって来たのだ。
黒い喪服が似合う、妙齢の美女だった。
皺やシミがなく、とても四十代とは思えないほど若々しく瑞々しい肌をしている。
女性として理想的な口許や、整った鼻筋などは写真で見た陸の母親と似ていた。
しかし陸の抱く印象は、まったくの正反対だった。
切れ長の冷たい眼も、血色の通わない白い頬も、鋭く伸びた柳眉も、結晶化した無機物のように端整だった。
だがそれは、泣いたことも、笑ったことも、怒ったこともないのではないか、と思わせる冷艶な美しさなのだ。
およそ人間らしい温かみがないそれは蝋人形のようだと、陸は思っていた。昔は琴音を見ただけで、泣き出して家族の後ろへ隠れてしまうことがあったほどで、今でも陸は伯母を苦手としていた。
他の久遠院の親族にも、冷たく近寄りがたい印象があって、好きになれなかった。古い家柄の厳粛な空気が、どうしても若い陸にはなじめない。
琴音は愼一に黙礼したあと、ゆっくりと待合室を見渡す。挙措に隙がなく、ひとつひとつの動きが優美だった。陸と視線が合う。畳の縁を避けて、静かに歩み寄ってくる。
意識したものでなく、ごく自然な所作でそうしていると、陸には感じられた。
「ほら、しっかりなさい、陸くん。弟の君がそんな顔していたら、紫織ちゃんも心配で安らかにいられないでしょう?」
なにを言われるかと固く身構えていたら、そんな言葉が陸の耳へ届いていた。諭すような声は、広い湖面のように落ち着いていて、部屋の隅々によく響いた。
「――はい」
静かに姿勢を正し、言葉少なく一礼する陸の内心は、穏やかでなかった。
(ウソだ。死人はだれかを心配したりなんてしない。もし心配してくれるなら、安らかじゃなくていい。バカなことをしたオレをしかってほしい)
あれだけ紫織をかわいがっていたのに。琴音に空々しい慰めの言葉を言える余裕があるのが、陸には信じられなかった。
琴音の顔をじっと見あげると、頸筋や目じりなどに小さなしわがあった。そこには隠しきれないやるせなさが、哀しみとともに滲んでいることに陸は気づいた。
(……姉ちゃんが大好きだった母さんのお姉さんなのだ。きっと悪い人じゃない)
けれど陸は琴音とは根本的に反りが合わず、恐怖さえしていた。その腹の底まで見透かすような鋭い眼差しで見られると、ヘビに睨まれたように動けなくなってしまう。
母が亡くなったころ。子供のいない琴音へ自分と紫織が養子に出される話があったなど、陸は考えただけで怖気がした。
「お手洗い、行ってきます」
これ以上なにか言葉をかけられる前に、陸は逃げるように待合室を後にした。
斎場の廊下はたくさんの供花であふれていて、まるでお花屋さんのようだった。
(この花の数だけ姉ちゃんは好かれていたんだ。この花の数だけオレは悲しみを与えたんだ)
いっそ狂ってしまえば気が楽なのに、陸の身体はそれを許さない。
この心に刻まれる痛みこそが、紫織が存在した証なのだから。
◆◇◆
遺族の待合室に戻る気になれず、陸は斎場内をうろつく。
「――ん。ここは……」
線香の独特のにおいと部屋の明るさに、陸は眼を細めた。斎場の中央――祭壇の間に迷いこんでいたのだ。
整然と並べられた座席。中央で柔らかく微笑む遺影。たくさんの花や供物。
中学生の制服を着た紫織が、額縁の中でやさしく微笑んでいる。
母や祖母の写真のように、手の届かない四角い世界のなかで久遠にずっと。
「――っ!」
わき起こった吐き気に、陸は手で口を押さえた。今回は戻さなかった。
少しずつ紫織の死を認め、受けいれはじめている。
それがいいことなのか悪いことなのか、まだわからない。
だが、紫織のそばにいるのが苦痛だとさえ思う今の自分は、まったく別のナニカに変わってしまったようで、陸はおぞましかった。
紫織の死に顔を見ることなく、また逃げるように祭壇の間から出ようとする。
――そこに。しゃらんと、涼やかな鈴の音が祭壇の間へ染み渡る。
「――あなたも、なの。“モータル”って、どうしてこうなの、かしら? 叶わない望み、たくすために、赦される希望、すててしまう。命への恬淡さは、たしかに清いのかもしれない。でも、小娘が従容とした死に顔、うかべるなんて、きれいでもなんでもない、のに」
不思議と陸の心を惹きつける女性の声。粛然と世界の真理のみを告げるような清らかな声音は、とろりと甘美で蠱惑的だった。
「え――?」
通夜までまだ時間があった。当然、だれかがそこにいるはずがない。
―――いや、いた。
祭壇の間の奥に、棺が安置されている。
姉の骸が横たわれている。
その前に、人影が忽然と立っていた。
陸の肌に粟が生じる。
白すぎる照明を浴びる黒い影法師。どこから現れたというのだ?
先ほどまで、祭壇の間には陸以外だれもいなかった。そして今陸がいる通路を通らないかぎり、この場所へはいる方法などないはずなのに。
後ずさる。肥大化した心臓が全身を転げ回るような感覚に、また一歩。
それを止めたのは、影法師が貴婦人のように黒い傘を差していたからだ。
古いチェックの黒傘。間違いない。年季のはいったそれは、物持ちのいい紫織ぐらいしか使わない。
それに、陸の灰色だった世界の色が戻る。
川で見たあの人影は、幻などではなかったのだ。
「おい、オマエだれだ? どこの親戚の子だ? なんでその傘を持ってる?」
それが紫織の幽霊だとは、陸はユメにも思わなかった。
淡い望みをたくすには、まとう気配が違いすぎたからだ。
中空の月のような清らかな気配は、けれど鳥肌が立つほど冷たい。
後ろ姿。傘を差した女性。星空を写し取ったような精美な漆黒のドレスを着ている。いや、陸が一瞬、黒いドレスだと思ったそれは、白銀の長髪だった。
光の当たり具合によって墨色から純白に流れる髪は、見たこともない。足首まで舞い降りるそれは、ただ純粋に長すぎる。
はたして人が、生まれてからずっと伸ばし続けてもここまで長くなるものなのか?
くるくるり。億劫そうに傘を廻しながら、陸へと振り向く。
ゆっくりと――彼女の双眸が傘の影から露わとなる。
紅い瞳。傘の暗がりの中で輝くそれは、ぞっとするほど美しい。血が結晶化したような紅玉の瞳は、あらゆる存在を粛々と睥睨していた。
琴音の眼が獰猛なは虫類なら、この眼は玲瓏な剱。同じ生物ですらない。
危うさを美しさで惑わす妖姫に魅いられたように、陸の身体は固着する。影が縫われたように、一歩も動けない。
「……仏前にめんじて、このぐらいで宥恕するわ。けど、これ以上ふぬけてたら、あとはないわ、よ」
「――ぅ、はぁ」
不意に、威圧感が薄れた。いつのまにか止まっていた呼吸を、陸は再開させる。
とろんと眠たげにゆるんだ彼女の眼は、ここではない遠くを映すように深遠としている。そのため、陸は少女を見る余裕ができた。
それはこの世のものとは思えない、幻のようにきれいな女の子だった。いや、女の子と呼ぶにはあまりに妖しすぎた。
楚々とした黒いワンピースから、骨と見紛うほど白く透ける肌が対照的に映えている。
たおやかな曲線を描く肩やすっと伸びる手足は華奢だが、腰や胸などは豊かなまろみを秘めている。十代半ばの少女の無垢さと女性の妖艶さが絶妙に合わさったような体つきだ。
柳眉も、睫毛も、眦も、鼻梁も、口許も、頬も、今までの美しいという言葉を霞ませてしまうほど、細部まで端整である。
気が遠くなるほど美しい顔立ちをさらに際立たせる、お伽噺の中にしか存在しないような紅玉の瞳の美しさに、陸は魂が吸いこまれそうになる。
彼女から香る、思わず立ちくらみそうになる甘い薫りが、彼を妖しくいざなう。
“――ならきみにとって世界はもうきれいじゃないの?――”
冷たく泣いている風。悲しく泣いている空。
いや、なにもできず泣いていたのは……
「――オマ、エ……?」
ふと、だれかの声と遠い景色が、陸の脳の中をかき乱す。
「無様なもの、ね。通夜とはもともと、愛しい人の蘇生、願ってひらかれたもの、なのに……。しょーねんがそんな様じゃ、できることもできない、じゃない」
「できる……こと?」
不思議な声だった。
粛々とした古風な言葉遣いなのに、性別がまだはっきりとしない幼子のように舌足らずな口調は、彼女の年齢を怪しく妖しく惑わす。
ゆるやかな小川の水のようなとろりと静かな声音は、聞く者の心に直接沁みるようで。だからなのだろうか? こんなにも素直に陸の耳の中へはいり、心を奇妙に荒立てる。
「肉親の助命、こうどころか、泣くことさえしない。いまの魯鈍なあなたは、つまらないわ。なにを望み、なにができるか、いまいちど考えなさい」
少女は黒い傘を閉じて、陸に興味を失ったように歩き出す。とことこと、陸のいる唯一の通路とは正反対の壁際へ。
「ちょ、待てよ。その傘どこで……」
さらさらり。黒銀の長髪が大気を従えて炎のように柔軟に揺らぎ、髪留めから鈴の音が鳴る。
同時に、陸の右ポケットが震えて音楽が鳴った。場違いに爽やかな音楽は、陸のお気に入りの剣客アニメのオープニングソングだ。
悠也からのメールだった。
“―――通夜ってどんな服装?―――”
そのまま電源を切るついでに、陸は無神経な友人との縁も切りたくなった。
手を伸ばした先には、もうだれもいない。
不思議な少女は、陸がケータイに気を取られたすきに、またしても幻のように消え失せていた。
「ああもう。なんなんだよ、あいつ? わけわかんねぇこと言いやがって」
苛立たしげな陸の声だけが、祭壇の間に反響していつまでも残っていた。