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4 起・父親

 生命力あふれる深緑が流れていく。おぼろに色あせて、流れていく。

 夏の情景が拡がる外と、冷房の効いた車内は、別世界だった。

 冷たさがまとわりつく静かな車内に、陸はふと小学四年生の冬のことを思い出す。父方の祖母の急逝の知らせに、降りしきる雪の中、車を走らせていた。

 小さなころからよく面倒を見に来てくれた温厚な祖母は、駆けつけた陸が“ばっちゃん”と揺さぶっても眠ったままで、雪よりも冷たかった。 


 冬のあの日。無個性の、民間タクシーと呼んでも差し支えない清潔な車内で、口を訊くものはだれもいなかった。でも今は、そのときより居心地が悪かった。 

 やめたはずのタバコの吸い殻が携帯灰皿からあふれ、車内はヤニ臭い。甲斐甲斐しい紫織がいないだけで、男ふたりの間に流れる沈黙はやけに重く、息苦しい。

 ハンドルを握る愼一の腕は、寝たきりの病人のように弱々しく陸の眼に映った。

 

(……オヤジの体ってこんなに頼りなかったっけ?)


 陸はぼんやりと昔の父親の体格を思い出そうとして、今の顔さえロクに思い浮かばないことにひどく衝撃を受けた。こんな風に姉の顔まで忘れてしまうのかと身震いした。

 そっとルームミラー越しに愼一の顔を窺おうとして、まず白髪が増えたことに怯えに似た感情を抱いた。

 左折のために愼一が後方を確認したとき、陸と偶然視線があう。


 一秒、三秒、――それともほんの一瞬か。愼一は静かに陸から眼をそらすと、ハンドルを切ってアクセルをふかした。 

 クマの隠しきれない虚ろな眼。分厚い眼鏡の奥から垣間見えたその眼は、無言で陸を批難しているようだった。 


「なんだよっ。言いたいことがあるなら、はっきり言えよ! オレみたいな最低なやつ、生まれて来なければよかったって!!」


 陸の悲痛な心の叫びに、ブレーキが悲鳴をあげた。身体が投げ出されそうになり、陸は前の座席に頭をぶつける。


「陸っ! 二度とそんなコト言うんじゃないっ!!」


 それ以上に、愼一のはり手が痛かった。悠也に殴られた拳より力強く陸には感じられた。


「たのむから、……たのむ、から。お前まで、居なくなったりしないでくれ。私を一人にしないでくれ」 


 愼一が絞り出した声は、泣いているように弱々しかった。いや、祖母が死んだときでさえ子どもの前で涙を見せなかった父が、嗚咽をこらえて泣いていた。

 バカだ、辛いのはなにも自分だけじゃないのにと、陸は自分の発言を後悔する。


「……だったら安全運転しろよ。危うく外にふっとばされるとこだった」


 もっと他に言うべきことはたくさんあるのに。父親との距離がつかめず、うまく謝れない自分が陸はイヤになる。

 なにか言い直す前に、後ろの車からのクラクションが陸の意見を勝手に援護した。


「シートベルト、しておけ」


 先ほどの激情を押しこめた平坦な愼一の言葉に、陸は心の中でありがとうと言った。でもそういう父親らしいことは、もっと早く言ってくれとも思った。 


(そうすれば、もっとみんなで笑いあうことができたかもしれないのに……)


 ついに仲のよい三人家族にはなれなかった。もう男だけだ。もっと仲良くしてよーと、膨れながらも間を取り持ってくれた紫織は、もういない。


◆◇◆


 車に揺られながら、陸はここではない遠くを眺める。

 色鮮やかな紫織との日々は、交わした言葉まで子細に思い出せるが、昨日の放課後のことだけがどうしても思い出せない。

 七月二十三日。十五歳の姉の誕生日であって、最低最悪の日になってしまったあの日。


(いったいなにがあったんだ? オレは姉ちゃんとなにを話したんだ?)


 去年と同じなら、いつものように校門の前で待っていた紫織に、陸は喜んで駆け寄ったことだろう(小、中学校と学校が違っても、紫織は必ず陸より先に待ち合わせの場所にいた)。  

 彼女の誕生日なのにどんなケーキが食べたいかと逆に尋ねられ、お祝いのための買い物に出かけたことだろう。

 そして、こっそりと小遣いを貯めて用意したプレゼントを姉に喜んでもらえるか、どきどきしていたに違いない。 

 そんな些細な、でも大切なことを陸は覚えていない。なにもかも忘れてしまっている。

 すべてが終わったあとの、水に濡れた蒼白な彼女の顔しか記憶に残っていない。


(そもそも、オレはどうして川の中なんかに入ったんだ?)


 いくら考えても、難しく物事を考えるのが苦手な陸にはわからない。

 それでも、いくら暑いからといって川に飛びこむほどバカではないつもりだった。 

 おっとりとしている姉を護るために鍛えてはいたが、けっして命知らずではない。 

 ましてや、あの日は期末試験明けごろから続いていた長雨がやんだばかりで、川は増水しきっていたはずだ。


 ……一瞬、不吉な赤い色が彼の脳裡をかすめたが、記憶の糸は繫がる前に途切れてしまった。それがなんだったのか、どうしても思い出せない。


 どちらにせよ。死ぬほどのバカが生き残り、死ぬほどのお人よしが死んでしまったことだけはたしかだった。 

 自分は神さまなんて昔から――あの日から――信じていないが、そいつはきっとろくでもないやつだと、陸はきつく歯をすり合わせた。 


「陸。着いたぞ」


 低く短い声。愼一の呼びかけで、過去へ揺らいでいた陸の意識が引き戻される。

 車から降りるよう促す愼一に、陸は命令に従順なロボットのように従う。

 ドアを開けたとたん、むっと押し寄せる熱気と、うるさいセミの鳴き声が広がる。


 車通りの少ない閑静な住宅街に建つ陸の家は、昼間なのにお化け屋敷のようにひっそりとしていた。 

 玄関の前に黒い幕がかかった今は、なおさらそう見えた。 

 だがそこでは、遊園地のように楽しげな悲鳴なんて聞こえるはずがない。 

 あるのはセミの鳴き声よりかすかな、悲しさを押し殺した声だけだ。


 普段はスペースのあまる広いガレージは、親戚の車で満杯になっている。

 その片隅に、セミの死骸が掃き忘れたほこりのように転がっていた。

 あんなに元気だったのに。脆い、儚い、あっけない命。


(わかんねぇよ。せっかく生まれたのに、どうして死なないといけないんだ?)


◆◇◆


「ただいま」

 

 その当たり前の言葉を言えたかさえ、陸は覚えていなかった。

 父方の親戚のものが何人か葬儀の応援に家に駆けつけてくれていて、彼らに促されるままに動いただけだ。


 紫織がいたころと違い、6LDKの広い家の中は狭苦しく――息苦しかった。

 別に散らかって汚れているのではない。元々紫織はきれい好きだったし、陸も姉の負担を少しでも減らしてあげたくて、日ごろから率先して彼女を手伝っていた。だから普段から家はだれを通しても恥ずかしくないほどきれいだった。今の家はキレイすぎたのだ。


 必要以上にキレイに掃除されて清められた部屋は、日々の生活の名残が消え、紫織がいた痕跡まで消されてしまったように陸には感じられた。

 紫織がいなくても、陸がなにもしなくても、どんどんモデルハウスのように空っぽになっていく我が家を見ているのは、彼にとって苦痛でしかなかった。

 だから無理を言って学校の終業式へ出たのだ。それは失敗だったかもしれない。 


 紫織の聖域であった台所は、さらにヒドイ有様だった。 

 彼女が使いやすいようにきちんと並べていた調理器具が、――フライパンの置く場所も、まな板を立てかける場所も、お玉を片づける場所も――すべてがメチャメチャに散乱している。葬儀の慌ただしさに、小さな虫が湧くことさえ許してしまっている。

 散らかった台所を茫然と見つめ、陸は以前と変わらぬ場所を探そうとする。まだある。そのひとつひとつに大切な思い出がつまっている。


(はじめて皿洗いを手伝うって言ったときは、“だいじょうぶー?”って心配そうに後ろから見守られて、結局ぜんぜん手伝いにならなかったっけ)


(夕飯のカラアゲをつまみ食いをすると、“めーだよー”って困ったように怒られたけど、次の日からはおやつをいっぱい作ってくれるようになったっけ)


(珍しく早く帰ってきたオヤジと顔を会わせるのがいやで部屋にこもっていると、“みんなでごはんだよー”ってお玉を振りかざしてオレの部屋に乗りこんできたこともあったっけ)


 否が応でも紫織との楽しい日々が思い出され、陸はこれ以上台所を正視できなかった。笑いのあふれる場所だったのに、そんな安らぎはもう二度と得られない。新たな思い出ができることもない。 

 全部自分のせいだと、陸はまた自暴自棄になりそうなった。先ほど愼一に叱られてなければ、きっとそうしていた。 


 このままではいけないことは、陸にもわかっていた。 

 けれど、どうすればいいかわからなかった。

 世界の色は失われたまま。いっそこのまま全部真っ白になってしまえばいい。

 それはなんて楽で、なんて……


「……情けねぇな」


 こんなときでさえ空腹を訴える自分の腹の虫に、陸は口唇を噛んだ。

 こんな時でも貪欲に生きようとする自分の身体が、情けなくも頼もしく感じられだ。

 親族のおばちゃんが握っておいてくれた丸いおにぎりを、陸はそのままかじりついた。 

 うまくもマズくもない。特になんの味もしなかった。 


「ぬ――塩、振ってないのか?」


 少し握っただけで勝手に崩れるおにぎりを見つめ、陸はほろ苦い笑みを浮かべた。

 葬儀の段取りがロクにわからない父子の代わりに、彼女らは率先して動いてくれて頼りになったが、料理は自分のほうがうまいと、陸は思った。 


◆◇◆


「――ん」


 陸がふと気づくと、庭にあるカキの木の影が家の中へ差しこんでいた。 

 いつのまにか、紫織が眠っていた座敷までキレイになっている。

 納棺の儀もなにもかも、今日家ですることは終わっていたようだ。


「陸。そろそろ斎場に行くぞ」


 腕時計を見た愼一が、ぼんやりと窓の外を眺めていた陸へ声をかけた。 


「……ちょっと待って。台所、片づけてから」 


 これじゃあ姉ちゃんに怒られると、陸は空気漏れのような声を洩らして立ちあがった。

 言い逃れ。陸は紫織の死に顔を見るのが怖かった。自分が殺したようなものなのに、どの面下げて物言わぬ彼女に接すればいいかわからなかった。


「駄目だ。そんなのは全部済んでからでいい。陸は紫織の弟なんだから、他のどの親族よりあいつのそばにいてやらないといかない」

 

 陸は愼一に手を引っぱられ、半ば強引に車へ乗せられた。 

 本当に。実直で融通の利かない性格の愼一から、どうすれば紫織のような穏和でやさしい姉が産まれたのだろう? どうすれば、自分のようなクズが産まれたのだろう? 

 本当に同じ母親から産まれてきたのだろうか?


「――そういえば、琴音おばさんとかも来るのか?」 

「……。……ああ」

「そっか」


 陸の問いかけに、アクセルを噴かしてガレージを出てから、愼一は短く返答した。その様子に陸は、素っ気なく応じて黙りこんだ。 


 亡くなった母の姉で伯母にあたる、久遠院琴音(くおんいん・ことね)のことが陸は苦手だった。その見かけによらず、愼一は駆け落ち同然に母と結婚したらしく、そのため母方の親戚とは折り合いが悪かった。

 手の届かない遠くへ行かれるぐらいなら愼一が婿養子にはいる、ということでひとまずその騒動は帰趨したらしい。だが、三年前の愼一の母の葬儀には最低限の人しか来なかったことからも、両家の関係は未だにぎすぎずしていた。

 できれば、陸は伯母を含めた久遠院家の人と会いたくなかった。 


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