3 起・邂逅
「――久遠院も大変なんだ。こういう時こそ、友達の五十嵐は支えてやらねばならん」
「すいやせんした」
「……」
「二人とも、もうくだらん喧嘩などするなよ。くれぐれも気をつけて帰るように」
ひとり分だけの反省文を片手に、男性教員は大またで生徒指導室を後にした。
陸と悠也が教室で殴り合っていたのを彼らの担任に発見され、正午過ぎまで説教されたのだ。
鉄板が溶けるような暑さの中、セミだけが元気に鳴いている。冷房のない密室で長時間指導されたふたりの額からは、じっとりと汗が浮かんでいた。まるで泣くかわりに汗をかいているようだった。
「ったく、ゴリゾーのヤツぐちぐちとしつけーんだよ。先に俺を保健室に連れてくもんじゃんか、ノーマルに考えて」
担任がいなくなった直後、悠也は右眼に作った大きな青あざをさすって毒づいた。
切れた口唇の血と汗が混ざって生乾きになり、すでに消毒液が塗られたような痛々しい顔のわりには、旺盛に陰口をたたいていた。
「……」
対して陸は、終始無言で外界に無反応だった。担任に喧嘩をとめられた際、まぐれで悠也から一発貰った右頬の腫れを隠すように肩肘をつき、空をぼけっと見あげていた。
(そういえば、昔はこんな風によく殴りあったっけ)
小学校の授業参観のときに、陸の親が来ていないことを悠也にからかわれたのが、ふたりのなれそめだった。その後もふたりは喧嘩に喧嘩を重ね、互いの悪いところも良いところも認め合い、いつしかつるむようになっていた。男の子の特権というやつだろう。
しかし今回の喧嘩は、あのときと違ってそれぞれの哀しさが巻き起こしたもので、運動したあとのような爽快感もなく、いっそう胸が苦しくなっただけだった。
密閉され、むっと蒸し暑い空気が、陸たちのいる室内にわだかまる。
安っぽい光沢の黒皮のソファー。青すぎる大きな観葉植物。なにも置かれていないガラス張りの机。
物はあっても無個性な空間の中、陸はさらに空虚だった。
大切な姉を失った陸には、悠也とのなれそめの思い出も、いっしょに遊んだ何気ない日々の出来事も、すべてがらくたのように思えた。
抜け殻のような陸に、悠也もどう接すればいいかわかりかねている様子だった。
陸を横目で窺う悠也は、悩ましげに口を開け閉めして、
「――さぁて。腹も減ったし帰るかねぇ」
結局、もごもごと独り言を洩らすように呟いて、威勢だけよく立ちあがった。
「……悠也、さっきはいきなり殴ったりして悪かった」
逃げるようにこの場を後にしようとする悠也に、陸は窓の外を見たまま素っ気なく声をかけた。それは彼が数時間ぶりに友人へ向けたまともな言葉だった。
「――うんにゃ。俺もさすがに少し言いすぎたった。だから今回はドローだ」
陸の謝罪に、悠也は眼を丸くする。まるで“-×-=+”の数式を鮮やかに証明したチンパンジーでも見るかのような顔つきだ。
そんな失礼な顔がすぐにうれしそうに破顔したのが、陸の見る窓ガラスに映っていた。
「……あのさ。明日学校でまとまって告別式に行くことになってっけど、俺も今日通夜に出ていいか?」
「……おう。その顔見せて、姉ちゃんを笑わせてやってくれ」
窓の外から視線を戻し、陸は悠也の顔をまっすぐ見た。まっすぐ向き合わないといけないと思った。悠也のくしゃくしゃな顔があった。汗と血と――涙でごちゃ混ぜに濡れたひどい顔。それでも――
「おいこら、陸。このイケメンフェイスを台無しにしたの、ちゃんと反省してんのか? マジで痛ぇんだぞ」
それでも悠也は鼻をすすり、努めて明るい声で陸をたしなめる。腫れた顔は痛々しかったが、ぎこちないものではなかった。
悠也はおどけるように右目を大げさにさすり、陸のために道化を演じる。だれよりも辛い友人のために涙を誤魔化す。顔に似合わず優しい友人に、陸も塞ぎこんでいた気持ちが晴れ、皮肉が出てくる。
「そうか? オレは今のほうがパンダみたいで、かわいいと思うけどな」
「なっ、お前、まさか! 笑いをこらえるために、ずっと外を見てたのか?」
「さぁな」
つめ寄る悠也の顔を見て、陸は笑う。思えばそれが、陸が紫織を失ってからはじめて浮かべた笑みだった。
――それがたとえ、悠也のために浮かべた “ニセモノ”の笑みでも。“いつも元気いっぱいな陸くんが好きだ”と紫織から言われたから、いつまでも落ちこんでいるわけには、いかないのだ。
◆◇◆
とうに下校時刻を過ぎた校舎には、生徒の影はまったく残っていない。
熱気で粘つくリノリウムの廊下の窓際には、置き忘れられた傘や内履き袋が所在なくぶさ下がっている。
グラウンドで部活動に勤しむ運動部の掛け声や、吹奏楽部の演奏の音が、開け放たれた窓枠から生ぬるい風とともに過ぎていく。
「――っ!」
そんな明るくもどこか物悲しさを漂わせる風景は、ほんのつい昨日までの楽しかった日々を陸に思い起こさせる。
無理だった。悠也の手前ではなんとか笑えたが、ムリだった。
陸は野暮用があるらしい悠也と別れた後、悲痛な面持ちでうつむいた。
干からびかけたカタツムリのように鈍い動作でなんとか帰り支度を済ませ、学校を出る。歩きたての赤子よりもおぼつかない足取り。
これから夏休みだと言うのに、陸はこれっぽっちも心が踊らなかった。なにもする気になれなかったし、またなにをすればいいのかもわからなかった。
当然だ。陸の隣にはつねに紫織がいて、彼女を中心に彼の世界は廻っていたのだから。
その軸を失ったいまの彼は、中身のない張りぼて。与えられた役割を虚勢でこなそうとする、カラッポのガラクタにすぎない。
深緑の濃い匂いをふくんだ夏風が、そっと陸の頬をなでる。抱くように包みこむ暖かい風に、陸はやさしい姉の姿を幻視し、物思いにふける。
夏の風に身を委ねていると、まるで胸の中のぽっかりと空いた場所に、暖かな風が満たされていくような気がした。
じっとしているとそれは心地よいものにも思えたが、たまった風はどんどん熱くなり、肺腑を灼き焦がす。
息をはいて熱を逃がそうとするが、空気がなくなって余計に胸が苦しくなる。
溺れたような感じになって、心がざわめいて、もがいて、さらに風が吹きこみ、もっとグチャグチャになって、なにもわからなくなってしまう。
心が荒れ狂い、削られて、痛くて、辛くて、苦しくて、なにもかもがイヤになってしまう。
「――っ! ここは……」
夢遊病者のように漠然と歩いていた陸は、足をすくませた。
この道だけは通りたくなかったのに、身体がいつもの帰り道を勝手に選んでいたのだ。
とうとうと移ろう河川にかかる八宝橋の中ほどに、陸はいた。
ここは、昨日も紫織といっしょに歩んだはずの場所だった。最期に姉と言葉を交わしたはずの場所だった。
(――だけどオレはなにも覚えてない。……いや、覚えている)
(――だれかを助けたかった。どうして?)
(――だれかに助けられた。ドウして?)
(――だれかを助けられなかった。ドウシテ?)
「うっ」
ぐらりと眩暈がして、陸はうずくまった。
腹を鈍器で殴られたような吐き気に堪えるために、口を押さえる。
グリーンのペンキがはげ落ちた橋の鉄柵に頭から寄りかかり、浅い呼吸を繰り返す。
胃が痙攣し、激しい嘔吐感が治まらない。吐くものがないから、かわりに胃液がこみあげてきた。
はげた鉛色の鉄筋に映る陸の顔は蒼白だった。冷たいイヤな汗がとまらない。そんな陸のそばを、車が素知らぬ顔ですいすいと通り過ぎていく。
五分、十分、――それ以上経っただろうか。
陸は口の中の酸っぱいものをありったけぶちまけて、なんとか呼吸だけは落ち着かせた。だが額からあふれる脂汗がとまらず、ひどく気分が優れなかった。
「――え?」
少し風に当たろうと、陸は橋の下を眺めたとき、川原にだれかいることに気づいた。
一本だけぽつんと立ち枯れた木の側。いくつもの花が供えられている場所で、ひとりの人影が川面を見つめていた。
紫織が死んだ場所で、影法師が蜃気楼のようにぼんやりと立っている。
橋からは少々遠いうえに、チェックの黒い傘を日傘代わりに差していたため、陸からはその顔が見えない。
しかし線の細い華奢な体躯に、黒のワンピースという服装から、陸と同い年ぐらいの女の子だと推察できた。
照りつける陽光の中、傘の影から覗く肌は、身も心も魂までも凍りついてしまいそうなほど美しかった。まさか死んでいるのではと思うほど、鮮烈なまでに白い肌だった。
「あ――」
思わず目が奪われた。呼吸を忘れ、体調も忘却し、陸はその少女に目が釘付けになった。
夏なのに暑苦しく黒一色の服装をしていて不審に思ったためだとか。そこだけ別世界に切り離されたように幻想的な彼女の雰囲気に呑まれたためだとか。そんな下らない理由ではなくて……その者が持っている傘に、陸は見覚えがあったのだ。
「陸」
錆びついたような低い声とともに、軽いクラクションが鳴る。
ユメから醒めたように陸がはっと振り返ると、車道に黒のセダンが停車していた。その車窓から陸の父親―――久遠院愼一が顔を覗かせている。
帰りの遅い陸を探しに来たようだ。愼一は皺ひとつない真新しい黒の喪服に、折り目正しく黒いネクタイをしめたままの姿だった。
四十代になったばかりだが、黒縁の眼鏡が唯一の個性といえる無表情な面貌には落ち着きがあり、年齢よりはるかに老けて見える。
「家に帰る。車、乗っていくか?」
嘔吐を繰り返していた息子にかけるには、あまりに配慮がなく淡白な言葉が、愼一がまだ若く父親としても未熟なことを示していた。
だが真人間の愼一にとって、これが精一杯の言葉だった。愼一の不器用なやさしさを陸もわかっているのか、促されるまま車の後部座席に乗った。
「なんで、姉ちゃんの傘が……」
後ろ髪を引かれる思いで、陸は車窓から顔を出してもう一度川辺を振り返ったが、あの影は幽霊のように忽然と消えていた。
ただ、車が停車していた路肩の上に、マフラーから落ちた水滴によって大きな水たまりができていた。それはまるで不器用な父親が零した涙のかわりのように、静かにアスファルトを湿らせていた。