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1 起・夏蝉 

 この願いが胸の中だけで終わりませんように。

 この夢がうたかたの幻と消えませんように。

 この祈りがあなたの心まで届きますように。


 そう人びとは救いを求めて、希い続けてきた。

 だからわたしは少年へ囁きかける。


「あなたの願い、かなえてあげてもいいわよ」


 天使の慈悲のように優しく、悪魔の誘惑のように甘く、手を差しのべる。

 それがわたしの役目。残されたきっと最後の務め。

 だからどうか――


「願わくば、あなたの進む道がつらいものになりませんように」


◆◇◆


 蒸し暑いある夏の日だった。

 いったいなにが楽しいのか、太陽だけが生き生きと輝いていた。

 そんな陽気な太陽に元気を奪われたように、グラウンドに集められた石動(いするぎ)中学校の生徒たちは、静まりかえっている。 

 ゆだるような暑さの中、わざわざグラウンドで全校集会を開く忠実な校長にだれもが辟易していた。 


 一年生の久遠院陸 (くおんいん・りく)も、口を真一文字にして顎を引いていた。

 校長の大事な話も、今の陸にはろくに耳に入らない。 

 彼の学業の成績があまり思わしくないから、という理由だけではないだろう。


 ただ、セミが鳴いていた。 

 セミだけが泣いていた。 

 悲しくもないくせに。


「――……えー、みなさん。くれぐれも水の事故には気をつけてください」


 話の締めくくりに、校長が夏恒例の訓辞を全校生徒へ伝える。

 なにがあってもプログラム化された常套句が言える校長は、いつもどおりだ。

 その言葉を受ける生徒たちも、その大半が普段どおりだ。 

 けだるげに顔を俯かせていたが、これから夏休みを迎えることになり寛容な態度となる。


「ったく。やっと太陽とハゲ頭の二重光線地獄が終わったぜ」


 陸と別のクラスの男子が、伸びとともに皮肉を呟いた。

 陸たちは背が高く列も後ろのため、実際の被害は微々たるものだったが、そんな冗談にちらほらと軽い笑いが洩れる。


 周囲はなにも変わらない。そのことが陸にはよく理解できなかった。 

 本来なら行動範囲の増えた中学初の夏休みに自分も浮かれていたはずだが、今はとてもそんな気分になれなかった。


 周囲を拒絶するように、陸は両肩を尖らせる。 

 まるで自分だけが冷凍庫に閉じこめられたような気分だった。 

 暗く狭い世界に隔絶され、氷のように心が凍てついていた。 

 だから周囲の気の毒そうな視線も、遠慮がちな同情の眼差しも、腫れ物を扱うような態度も、陸はまったく気にならなかった。 


(――どうしてオレなんかが生きてるんだろう?)


 そんな考えが、陸の胸の内を支配していた。  

 沈んだ心にヘドロがへばりつくように淀んだ感情がたまり、胸が張り裂けそうになる。その想いはやがて毒までもち、彼の心をじわじわと浸食した。


 空っぽの胸が苦しかった。どんな怪我よりも痛むうずきを、陸はじっとこらえる。 

 自分を生かす空気をすべて捨てるように長く息を吐いた後、陸は首を上に向けた。だれの顔も見ないですむ空を見あげた。 


 それなのに、どうしてもひとりの顔が、“かげおくり”の遊びをしたときのように、陸の網膜から離れなかった。柔和な笑顔ではなく、冷え切った顔しか思い出せないのだった。


「……ばっかじゃねぇの?」


 陸の喉の奥から、重い声がもれた。

 口に出た暴言に対象はいない。ただありとあらゆるものに、罵詈雑言の言葉を浴びせて八つ当たりがしたかった。


 今の陸には、また世界のすべてが色あせたものに感じられた。

 自分の姉が唐突にいなくなってしまい、彼はなにもかもがどうでもよくなっていた。

 緊急の全校集会を開くまでもなく、そんなこと、わかりきったことだったはずなのに……。 


(オレは大好きな姉ちゃんを殺したんだ)


◆◇◆


 陸の物心がついたころには、すでに彼の母親はいなかった。 

 陸を生んでから三年後、病気で亡くなったらしく、そのため彼は母親のことをおぼろげにしか覚えていない。  


 また、いわゆる仕事人間の父親とは、あまり折り合いがよくなかった。朝早く仕事に出かけ、夜遅くに帰るため、居合わせる機会自体少なかった。 

 休日などで顔を合わせたときにふたりが交わす言葉といえば、はじめたばかりの英語の教科書に出てくるような、ぎこちない挨拶が二、三言ぐらいだった。


 そんな陸が捻くれずに中学まで進めたのは、ひとえに彼の姉、久遠院紫織(くおんいん・しおり)のおかげであった。


 のんびりしているが、毎日欠かさず温かいご飯を用意してくれた。

 勉強が嫌いでバカなことばかりしているのに、“男の子はこのぐらい元気じゃないとー”と大らかにほめてくれた。 

 そのかわり、本当にいけないことをしたときには、きちんと叱ってくれた。

 隠しているようだったが、自分のことよりもつねに弟のことを優先してくれていた。


 そんな紫織は、陸にとって自慢の姉であり、大切な心の支えだった。 

 “石動中学一のバカップル”、と周囲から揶揄されるぐらいの仲のよさだった。 

 そんなからかいの言葉を聞いても、なにも気にならないほどの固い絆で結ばれていた。


 そんな陸の姉の紫織は、中学校生活最後の夏休みを迎えることができなくなった。七月二十三日で彼女の時は止まってしまったのだ。 

 奇しくも紫織の誕生日に、近所の川で流されて、帰らぬ人となったのである。 

 それはあまりにも唐突で、あまりにも理不尽すぎる出来事だった。 


 つい先日のことなのに、陸はそのときのことをほとんど覚えていない。……今回ばかりは、己のバカさ加減に自分自身もほどほど愛想がつきた。

 ぼんやりと陸が覚えているのは、川岸に横たわる紫織の青ざめた顔。そして、先に川で溺れた自分を助けるために彼女は死んだのだ、ということだけだった。


 今まで陸は姉へ悪態をついたことさえなかったが、今回ばかりは紫織を思いつく限りの言葉で罵倒したかった。


(どじ。のろま。泳げないくせに川に飛びこむなんて、ほんと、ばっかじゃねぇの)


 しかしそんな拙い思いを伝えることさえ、永遠に叶わない。

 言葉を伝えるべき彼女は、もうこの世にはいないのだから。





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