5〜はじめてのおさんぽ〜
春真っ只中の陽気はぽかぽかと暖かく、日光を浴びているだけでなんだか気持ちいい。
そんな昼下がり、七瀬と俺は歩調を合わせながらゆっくりと歩いていた。
この町はお世辞にも都会と呼べるものではなく、かといって田園風景が広がるような田舎でもない。
ただ人口が少なめで平均年齢が高めの、少し過疎化した地域とでも言えばいいのだろうか。
とにかく長閑。その一言に尽きる。
(はぁ……相変わらずこの町は変わらないな)
歩き続けてもずっと変わらぬ住宅の群を眺めながら、俺は心の中で一人ごちた。
俺の通っている(通っていた、か)高校がある周辺地域はもっと活気があるのだが、俺たちの住む地域はどうにも活気がなくて困る。
別に住民同士の交友がないわけではない。町内会のイベントだって健在だし、寄り合いもある。
けれど、俺くらいの年になるとやはり都会の喧騒に憧れるものだ。だから七瀬とのデートは、大概人の多い都会へと脚を運んでいた。
まぁ都会といっても、最寄の駅から電車で十分と掛からないところにあるのだが。
そうしていつもの通りデートへ向かい、帰り道でトラックに轢かれ死んだのはまだ記憶に新しい。
「っ!」
「……ん? どうしたの、ジン?」
いきなり悪寒に襲われ、俺は華奢な体をぶるっと身震いさせる。その様子を見ていた七瀬も、少し心配そうに尋ねてきた。
……よく考えたら恐ろしいことだよな。死んだときの記憶が鮮明に残っているなんて。
あの時は衝動に駆られたように走り出し、チワワを抱えると咄嗟の判断でオーバースロー。少し遅れて重い塊に体を叩きつけられ、そのまま浮遊したかと思うと頭から落下。
結果、走馬灯など見る暇もなくあの凄惨な事故現場を作り出すこととなったのだ。
けれど、そんな死体となっても一つだけ確かに焼きついている映像と音声がある。
片目だけになり平坦になった世界に映し出される七瀬の悲痛な表情、そして『しっかりして』と必死な様子で発せられる七瀬の声。
あんな状況でも、七瀬は最期まで俺の傍にいてくれた。その事実がどれほど嬉しかったことか、筆舌に尽くしがたい。
妙な安心感を覚えると、先ほどの悪寒も徐々に引いていった。七瀬の存在に感謝しつつ、俺はもう一度足を動かす。
その時、俺は突如としてあの生理的欲求に襲われた。
(……これって、まさか)
どの生物にも当たり前に存在し、特に犬にとっては大切な欲求――すなわち尿意だ。
さっきの悪寒に誘発されたのだろうか……この姿になって初めての欲求に俺は大いに戸惑う。
普通の犬なら当たり前の行為、故に躊躇う必要など全くない。だが、俺はつい昨日人間から転生してきたばかりで、犬としての経験はゼロ。
寧ろ人間だった頃の感覚のほうが強く、屋外で用を足すという行為は小学生で卒業済み。どうにも羞恥心が勝ってしまうのだ。
しかし……ここで用を足さずに漏らす方が恥ずかしいに決まっている。そう腹を括った俺は、意を決して近くの電柱に向けて歩き出す。
確か、犬は自分の縄張りを誇示するために尿を出来るだけ高い位置にするんだとか。だが今の俺に縄張りとか、ぶっちゃけた話どうでもいい。
見様見真似で左足を上げると、バランスを崩さないように電柱に向けて用を足す。
(くぅ……ダメだ、恥ずかしい!)
苦悶の表情を浮かべながらも、ものの数秒で用を済ませるとすぐに七瀬の下へと向かう。
犬としては当たり前のハズなのにな……七瀬が見ていたこともあって、やはり羞恥心を拭えない。
軽く泣きそうになりながらも、微笑む七瀬と共に再度歩き出す。何だろう……すごくやるせないな。
いきなり立ちはだかった壁――人間だった頃とのギャップに不安を覚えながら、俺たちはゆっくりと歩き続けた。
しばらく歩くと、俺たちの町には貴重なコンビニが目に付いた。
俺の腹はもう限界を迎えているし、七瀬も歩き続けた所為か少し疲労の色が見え始めている。休憩するには丁度いいだろう。
七瀬もその結論に至ったのか、進行方向をコンビニの方向へと変えた。俺は嬉々として尻尾をブンブン振りながら、七瀬と共にコンビニへと向かう。
そしてコンビニの入り口へ着くと、七瀬は俺に向けて一言。
「すぐ戻るから、大人しく待っててね?」
「わんっ!」
そうだ、今の俺は犬だからコンビニに入れないんだ。盲導犬とかだったら別かもしれないが。
俺は言われたとおり入り口付近の日陰に座ると、彼女の帰りをじっと待ち続けた。
流石は平日の昼間だな……見かける人は平日休みの大人かトラックの運ちゃんくらいだ。
疎らな人の流れをぼーっと見ていると、背後の自動ドアが開く音が聞こえた。
「お待たせ~!
それじゃ、少し休憩しよっか?」
「うぅ~、わんっ!」
七瀬の柔らかな笑顔に癒されながら、俺は思い切り尻尾を振る。
そして彼女は外にあるベンチに腰掛けると、手にしていたビニル袋からごそごそと何かを取り出した。
まずは紙コップ。それを俺の目前に置くと、次にペットボトルのミネラルウォーターを取り出し、紙コップへとゆっくり注ぐ。
「水分補給は大事だよね~。
……お手!」
すると、七瀬は満面の笑みで小さな右手を差し出してきた。あぁ、やっぱりこういう事やりたいんだな。
いつもは見れないお茶目な七瀬に思わず笑みをこぼしつつ、俺は期待通りに右前脚をポンと彼女の右手に置いた。
幼い子供のように目を輝かせた七瀬は、右手を引っ込めると次は左手を差し出して一言。
「……おかわり!」
「わぅっ!」
そう来るだろうとは予想がついていたので、俺はすかさず左前脚を彼女の左手に乗せる。
どうやら満足したらしい七瀬は、笑顔のまま俺に水を勧める。俺は俺とて、またしても見様見真似で舌先を使い水を少しずつ飲む。
うーん……やっぱり慣れるまで時間が掛かりそうだ。人間の頃にこんな飲み方したら、きっと気道に入って咽るだろうな。
ゆっくりと時間を掛けて水を飲んでいると、七瀬はビニル袋から続いておにぎりを取り出した。
水分補給もさることながら、空腹のほうが勝っていた俺にとってそのおにぎりは実に美味そうに見える……いかん、涎垂れてきた。
俺の物欲しげな視線に気づいたのか、七瀬はおにぎりにかぶり付こうとしていた手を止め、もう一度ビニル袋をまさぐる。
「やっぱりお腹空いたよね~……ジンのはこっち!」
取り出したのは、今時コンビニでも普通に売られている犬用のジャーキーだった。
犬用のは初めて食べるものの、きっと普通のカルパスと変わらないだろう。空腹には嬉しい食べ物だ。
七瀬は片手で器用に包みを開くと、その中の一本を俺に差し出した。
「はい、どーぞっ」
「わんっ!」
俺は軽く返事をすると、すぐさま細いジャーキーを咥え咀嚼する。
やはり人間とは歯の構造も違うため、どうしても『犬食い』になってしまうが、この際気にしたら負けだ。
口の中に広がる獣じみた旨みに夢中になりながら、俺はあっという間に一本食してしまった。
七瀬もおにぎりをもぐもぐと食べながら、片手でジャーキーを俺の前に差し出す、それの繰り返し。
双方同時に腹が満たされたらしく、ごちそうさまと手を合わせた七瀬はベンチに深く腰掛ける。
俺も七瀬の休憩が終わるまで座っていよう、そう思っていた矢先、七瀬の口から欠伸が漏れた。
「ふわぁ……ちょっと眠くなってきた。
少しだけ寝るから見張ってて、仁く……ん」
「っ!?」
色々な意味で衝撃を受けていると、七瀬はあっという間にすーすーと静かな寝息を立て始めた。
(……嘘だろ)
七瀬の幼馴染としていつも一緒にいた俺には、彼女について他人が知らないことも少し知っている。
その中で最も代表的なのが、『どんな場所でもすぐに寝られる』ことだ。
昔から遊び疲れたときや満腹になると、たとえ床の上だろうが車の中だろうが屋外のベンチだろうが、お構い無しにすぐ眠ってしまうのだ。
その時にいつも言われるのが、『少し寝るから見張ってて』という言葉だ。
起こせば機嫌が悪くなるし、かといって見捨てるのも可哀想だからと、彼女が自然に目を覚ますまでじっと待たされたものだ。
最近はそんなこと無かったのに……まだこの癖は残っていたのか。
それに、今さっき七瀬は俺のことを『仁君』と呼んだ。もし、七瀬がジンとしての俺に『乾仁』を投影しているとしたら――。
いや、考えるだけ野暮だ。俺はいつも通りに七瀬と接していればいい。
俺はその場にじっと座り、七瀬が目覚めるときを待ち続けた。