54~夢を見たあとで~
「……え、あれ?」
体を起こすと、不思議なことに枕元が盛大に濡れていた。ピンクの花柄の枕カバーが湿り、妙に明度を下げた色に変わっている。どうやら、ついさっきまで泣いていたらしい。
どうしてだろう……私は、何か大切な夢を見ていたはず。けれど、ここ数日見た不思議な夢とは違い、記憶がやけに曖昧だ。元より夢とは記憶に残らないもの、その点を踏まえると寧ろ昨日まで見ていた夢の方が、異常なのかもしれない。
胸に残る妙な切なさを払拭するように、私は顔を洗うべく洗面所へと向かう。我が家は便利なもので、一階にも二階にも洗面所がある。おかげで、いちいち階段を降りる必要がない。
徒歩数秒で着く洗面所に入った私は、鏡に映る自分と対面する。いつも通りの首筋まで伸びたショートヘアに、少しだけ細められた寝ぼけ眼、そしていい加減見慣れた涙黒子。毎日見るような風景なのに……心のどこかに違和感を覚える。ついさっきまで、私は……。
「えぇい、気にしない! 今日は学校なんだから!」
やはり心の中でモヤモヤが残るものの、また考えすぎて体調を崩したらいい加減クラスメートからサボりと思われてもおかしくない。今は深く考えず、週末の授業をきちんと受けることに専念しよう。
朝の新鮮な空気をたっぷりと吸い込み、無理矢理心を落ち着かせた私は赤くなった目に目薬を差す。目も気分もすっきりしたところで、自室に戻るとすぐに制服に着替えた。この一週間で半分も着ていなかった制服は、何故か懐かしさを感じさせる。
ほんの少しの違和感に戸惑いながらも、鞄に学習用具一式を詰め込んだ後、静かに一階へと向かう。まだ時間的にパパもママもリビングに居るはず。一昨日のような光景がきっと広がっていることだろう……ジンが居ないことを除けば。
「ジン、今頃何してるかな……?」
流花ちゃんの家に一泊とは聞いていたけれど、急にどうしたのだろうか。昨日の時点では達弘君と一緒に居たからあまり気にならなかったけれど、よくよく考えてみればジンが勝手に家を出て行ったことに今更驚かされる。行動力もさることながら、自身の意思で外に出てわざわざ流花ちゃんの家にきちんと向かえたとは、正直なところ予想外。元が野良犬だったからなのだろうか、すごく逞しい。
「……私、嫌われちゃったかな?」
ふと過ぎる思考。飼い主として、最近は病気がちだったこともありあまりジンに構って上げられなかった。それに嫌気が差したのだろうか……だとしたら、家を勝手に抜け出すのもおかしくはないはず。
少しだけ落ち込んだものの、それでも今日はまたジンに会える。そうだ、週末だし流花ちゃんも達弘君も交えながら、今日はうちで集まって雑談でもしよう。テストも気にしなくて良いし、迫る夏休みや私の誕生日に向けていろいろ計画も立てなきゃ。
簡潔に寄り道した思考を纏めると、私はリビングの扉を開く。いつも通りの風景……と思いきや、今日はパパの姿が見当たらない。
「あっ、おはようナナちゃん。もう大丈夫なの?」
「おはよっ、ママ。私はもう大丈夫! ……それより、パパは?」
「あぁ……今日は早出らしいの。パパも七瀬のこと随分心配してたわ」
「そっか。じゃあ帰ってきたら何かサービスしてあげなきゃ! 私が晩御飯作ろうか?」
「…………え、いいわよ私がやるから」
「んー……なら、いいけど」
微妙な間が気になったものの、引き攣ったママの顔を見るとあまり深く追求できない。仕方がないので、私は食卓に着くと朝食であるトーストとハムエッグ、そしてレタスのサラダを食べ始める。久しく食べる朝食に、私のお腹は栄養と不思議な充足感で満たされていった。
「ごちそうさまでした! それじゃ、行ってくるね!」
「え、もう行くの? 早いわねぇ」
「うんっ、何か学校行くのすごく楽しみで!」
「そっかそっか……それはいいことね。それじゃ、行ってらっしゃい!」
時刻は七時ジャスト。確かにいつもより三十分近く早いけれど、それでも今日みたいな清々しい朝は早めに出てもいいだろう。早起きは三文の徳、とはよく言うけれど、今日の私にも少しくらいの得はあっていいはず。
食器を片付けた私は二階に上がり、身支度を整える。鞄よし、財布良し、携帯電話も良し。忘れ物がないか確認した後、私はもう一度鏡を見る。いつも通りの制服姿に、いつも通りの顔、そしていつも通りの髪型。
「…………」
どうしてだろう、いつも通りのはずなのに……何処か欲求不満にも似たものを感じる。朝の不思議な感覚とは似て非なる、現状を維持している自身への不満。何か物足りない。
思い当たる節があるとすれば、それはきっとつい最近芽生えた新たな道への可能性。簡潔にいえば、達弘君への淡い恋心。
「……よし!」
少しだけ考えた末、私は化粧台から普段は使わないシュシュを取り出すと、後頭部の高い位置で後ろの髪を結う。ポニーテールと呼ぶには少し貧相だけれど、印象はかなり変わった。以前は大人しめに見えていたけれど、今は心なしか快活そうに見える。
「うん、中々いいじゃん」
軽く自画自賛した後、鞄を持ち上げると一階へと向かう。階段を降りるたびに揺れる小さな尻尾は、心も同時に弾ませる。気分転換をすると、これほどまでに変わるのか……我ながら吃驚してしまった。
玄関に着くと、ママもリビングから出てくる。そして私の顔を見るなり、ポカンとした表情で頭の後ろに生えた小さな尻尾を見つめた。
「どう、似合ってる?」
「え、えぇ……とっても」
心底驚いているのか、もしくは感心しているのか……どちらにせよ、ママの反応も好評。自信もついたところで、私はママのほっぺに軽くキスをすると一言。
「行ってきます、ママ」
「うん、行ってらっしゃい! またケーキ、買っておくからね?」
私の行動は筒抜けなのだろうか、それとも気まぐれなのだろうか……どちらにせよ、友達を呼ぶ際にお茶菓子があるのはとても嬉しい。みんなケーキ好きなハズだし、きっと喜んでくれるに違いない。
最後に笑顔を見せて踵を返すと、私は靴をはいて玄関のドアを開ける。そういえば、昨日はずっと寝てばかりで家を一歩も出ていなかったっけ。そんなことを考えつつ、私は玄関を後にした――刹那。
「……えっ? どうしてここにいるの?」
「いやぁ、チト具合が心配になってな……おはよう、七瀬」
予想外の人物が、門の前に立っていた。今まさにインターフォンを押そうとしていた彼は、バツの悪そうな笑みを浮かべつつ口を開く。




