4〜病は気から〜
(はぁ……暇だ)
すやすやと眠る七瀬の寝息を聞きながら、俺はげんなりした気分でベッドに伏せる。
確かに、彼女の傍にいられるのは嬉しいし幸せだ。けれど、それは人間の姿だったときの話。
犬となった今では、七瀬の部屋にいてもとにかく手持ち無沙汰なのだ。
彼女の部屋を漁るなど論外だし、かといって体調を崩して寝ている彼女とスキンシップをとるのもどうかと思う。
結局、やることの無い俺はだらだらと寝ているしかないのだ。
(犬って、楽かもしれないがつまらんなぁ。
そもそも、こういうときに犬って何をしているんだ?)
考えながら、生前見ていた犬の行動を思い浮かべる。
朝起きて、主人と散歩に行って、飯を食って、部屋をうろついて、飯を食って、寝て、遊んで、食って、寝て――。
(……まるでニートだな)
あまりに充実していない生活、それが続くと思うと殊更げんなりする。
思えば、人間だった頃は自由だった。親や規律には縛られるものの、体一つあれば何でも出来たものだ。
それに比べて、犬という生き物はあまりにも不自由。走ったりボールを咥えるくらいは出来るが、その他の器用な動きはままならない。
何だろうなぁ……人間だった頃との違いが多すぎて、軽くショックを覚える。
こんな体になってしまった俺が、七瀬に対して出来ることって何があるのだろうか。
「んっ、うぅ……」
「くぅ?(七瀬?)」
風邪薬を飲んでから三時間と少し、どうやら目を覚ましてしまったみたいだ。
少し唸った後、相変わらず気だるそうにむくりと体を起こす。
俺は反射的に彼女の傍へ寄ると、無意識に尻尾を振りながら彼女の顔を見上げた。
まだ熱は残っているみたいだが、表情は先ほどよりも優れている。風邪薬が効いてきたのかな?
「ふふ……おはよう、ジン」
「わんっ!」
七瀬の挨拶に対し、俺は軽く吼えることで返す。それを見た七瀬は微笑むと、おもむろに俺の小さな頭を撫でくり回す。
こうして見ると、七瀬の手は大きいなぁ。人間だった頃は、俺の方が大きかったのに。
しばらく七瀬に撫でられていると、彼女は唐突に手を止めて腕を広げた。
このポーズって……いわゆる抱擁? 俺に対して飛び込んで来いってこと?
少し躊躇いながらも、俺は軽い足取りで飛び跳ねると彼女の胸に文字通り飛び込んだ。
「あはっ、よしよし。
やっぱりジンはいい子だねぇ~」
七瀬のふくよかな胸に包まれて、俺はまたしても窒息しそうになる。
相変わらず抱きしめる力加減は下手っぴだし、犬の鼻には彼女が発する柑橘系の香りはきつい。
けれど、不思議と嫌ではなかった。七瀬の温もり、鼓動……それらを感じていると、今までの憂鬱な気分は何処かへ吹き飛んでいた。
七瀬に対して出来ること……やっと分かった。
そう、俺はこうして七瀬の傍にいるだけでいい。彼女を肌で感じ、俺も精一杯の愛情で応える、ただそれだけ。
これは人間のときだったら、きっと自主的に出来ないことだった。そういう点では、犬になれたのは幸いなのかもしれないな。
そんな感慨に浸りながら抱かれていると、突然ある生理現象に襲われた。
人間だった頃も存在した身近な感覚……そう、空腹感だ。
「……くぅ~」
「んっ、どうしたの?」
思わず声が漏れてしまい、七瀬が俺の眼を見て尋ねてくる。
この状況で声が出るくらいならあまり気にしないはずだが……七瀬は何かを感じ取ったのだろう。鋭いなあ。
俺は空腹感をアピールするべく、努めて上目遣いで七瀬を見上げた。
うーん……何か恥ずかしいな。きっと俺の目は今頃、気持ち悪いくらいウルウルしていることだろう。
俺の表情を見た七瀬は目を瞑って考え、そして閃いたのか両手を打ち合わせる。
「そっか、散歩に行きたいんだね?」
「くぅ~(違ぁう)」
惜しい、方向的にはあっているのだが内容が違う。俺は減っているのだよ、七瀬君。
しかしこればかりは目で訴えても届かず、すっくと立ち上がった七瀬は元気な声で一言。
「今なら授業中だから学校の子とは会わないよね……よし!
着替えるからちょっと待っててね?」
全く、病み上がりなんだから無茶をしちゃいけな、い、ぞ……って。
「っ!?」
先ほどの七瀬の言葉を思い出し、俺は大いに狼狽する。今、着替えるって……?
そんな俺のことなど露知らず、七瀬は着用していたピンクのパジャマのボタンを外していく。
徐々に露になっていく七瀬の素肌に危機感を覚えた俺は、咄嗟に顔を伏せて目を閉じた。
鋭くなった聴覚が捉える衣擦れの音にドキドキしつつ、ただじっと着替えが終わるのを待ち続ける。
「……よし、行こっか?」
七瀬の声に反応し恐る恐る目を開くと、そこにいたのは私服姿の七瀬だった。
淡いピンク色のシャツにジーンズ、そして白のキャスケット帽。春らしい服装はよく似合っている。
人間だった頃はもっと視点が高かったけど、今の俺は見上げる形になっている。これはこれで新鮮だけど、手を繋げないのは寂しいな。
そんなことを考えながら、俺と七瀬は玄関へと向かった。
幸い親は出掛けているらしく、病み上がりの七瀬を止める人間はいない。
本来なら俺が止めるべきなんだろうけどな……言葉が通じない上に、外出理由は俺の散歩。
きっと訴えても無駄だろうな、うん。
嬉しさと不安を半分ずつ抱えたまま、リードも無しに俺と七瀬は玄関の扉を開いた。