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40~優しいケーキ~

「――ん! おき――て……ジンっ!」

「きゃうっ!」


 突如として響く甲高い声に、人間の数千倍の聴力を有する俺の耳は耐え切れず、反射的に体を跳ね起こす。同時に体中に走る激痛に唸り、もう一度体を横たえた。

 辛うじて動かせる首だけを声のした方に向けると、そこには見覚えのある人間が二人いた。

 一人は長く艶やかな黒髪に、長身かつスタイルのいい体、更に端正な顔立ちや太い眉も相まって大和撫子という雰囲気を漂わせる、大人っぽい女性。この人は確か、俺が野良犬に三匹掛りで襲われた際、仲裁してくれた人だった。どちらかと言えば、あの時間あの場に居合わせたことが甚だ疑問なのだが。

 そしてもう一人は、小さな体で黒いツインテールを揺らす、強気そうな顔立ちの女性。昔と変わらぬスタイルが子供っぽさを際立たせる、やんちゃな俺の幼馴染の一人である――。


「ぅきゃぅ!(いででででっ! 何しやがるこのヤロー!」

「あー、何か急につねりたくなった。失礼なこと言わなかったか?」


 ――仲島流花は、まるで俺の考えを読んだかのように、こめかみをピクピクさせながら、悪鬼の形相で俺の首根っこを割と強めにつねった。包帯越しに伝わる痛覚はまだ癒えていないであろう傷をも同時に刺激し、通常より遥かに痛覚を倍増させている。

 割と真剣に涙目になりながらも、恨めしそうな表情で仲島の顔を見上げる。そして、俺は思わず息を呑んだ。あろうことか、仲島が俺を見下ろしながら、さっきの言葉が嘘のように円らな瞳に涙を滲ませているではないか。あれだけ強くつねりながら、自身が涙するとは何事だ。

 訳が分からなくなった俺は、じっと仲島から何かしらの反応があるまでじっと待つ。眼を逸らさないように、ひたすらじっと仲島の目を見据える。


「……馬鹿野郎」

「くぅ?」

「馬鹿野郎って言ってんだよバカっ! アンタ、ナナの前で勝手に死にながら、こっち戻って来たと思いきやまた死にそうになりやがって……どれだけ心配したか分かってんの?」

「うぅ……」

「菊恵さんが見つけてくれたから良かったものの、下手したらアンタ……また死んでんだぞ。いくらジンという犬が仁の意思だって知らなくても、またナナを悲しませ――」

「はい、そこまで。あんま熱くなったらあきまへんで?」


 グサグサと幾千幾万の矢となって突き刺さる言葉は、菊恵さんと呼ばれた大和撫子の言葉で遮られる。まだまだ言い足りないと、憤懣やるかたない雰囲気の仲島だったが、菊恵さんの言葉を聞いた途端に口をつぐむ。そして涙を拭いながら数回深く呼吸を繰り返し、最後に自身の頬をペシッと軽く叩くことで落ち着きを取り戻した。

 そんな様子を見ていた菊恵さんは、淑やかな笑みを浮かべると俺の目を見据え、気絶する前に見た白磁のような美しい手で俺の顔を挟みこむ。美人の顔が急に迫り、犬ながらも否応泣く鼓動が高鳴る中、澄んだ声で囁きかけるように口を開いた。


「事情は一応流花ちゃんから聞いとる。せやから言うけども……命は粗末にしたらあかん。周囲をみてみなはれ。じぶんには、大切な家族や友達、恋人もおったんやろ?」

「くぅ~」

「誰かを守ることが悪い、とはよぅ言わん。けどな、自身を大切にすることもまた、誰かを守ることになる……理解出来たかえ?」


 仲島の時とはまた違う、重く圧し掛かる言葉。それは俺や仲島よりも圧倒的に洗練された、人生経験を基にしたからこその説得力のある言葉。たった数分の会話で、半ば本能的に悟ってしまう――この人、間違いなく俺よりも場数を踏んでいる、と。

 感心が七割、畏怖が三割の心境の中、先ほどまでの空気を一変させた菊枝さんは柔らかい笑みを浮かべると、拍手を打った後に仲島へと話しかける。


「……さて、積もる話も色々あるやろけど、一休みしましょ。ここで会うたのも何かの縁、せっかくやしケーキでも食べていきなはれ」

「え、良いんですか?」

「別に構へんよ。うちが試作しとるケーキなら、売り物やないで問題ないどす」

「しかも非売品だなんて……ありがとうございます、菊恵さん!」


 上の空で話を聞いていたからか、俺は遅まきながら二人の話題に気がつく。ケーキ、試作、売り物じゃない……それらのキーワードを反芻しながら、俺は今更だが仲島に問いかける。


「くぅ~ん?(仲島、ちなみにここって何処なんだ?)」

「え、何処って……仁も知ってるでしょ。巷で噂の人気ケーキ店、シュプラン」

「……ふぁ?(……は?)」

「言葉の通りだって。ここはシュプランの従業員控え室」


 あまりに唐突な仲島の発言に、俺は思わず耳を疑う。とはいえ、先ほどからやたらと室内に充満しているほの甘い香りに、周囲に広がる簡素なロッカーの行列、そして菊恵さんの服装もテレビで見覚えのあるシュプランの制服であることから、最早疑いようがない。

 思いがけぬ状況ではあるものの、一度は行ってみたいと思っていたシュプランに来店できたことは、俺としては興奮を隠せない。ズキズキと身体が痛む中でも反射的に尻尾をゆさゆさと振っている辺り、自分が思っている以上に嬉しい偶然なのだろう。


「ほな、試作品もってくるさかい。ちょいと待ちなはれ」


 そんな俺の反応を見た菊恵さんは、微笑みながらそう告げると控え室を出て行く。この流れだと、もしかしたら俺の口にもケーキが――。


「……もちろん、ジンは食わせないからな。今日はウチに泊まるってナナに伝えたのに、体壊したジンを返したら私が怒られる」

「ぐるる……!(そんな殺生な……せめて一口!)」

「はぁ……菊恵さんの作ったケーキが犬にも優しい薄味無添加のスポンジケーキであることを祈るんだな。生クリームやチョコレート、果物の類を食するのは認めん」


 断固として普通のケーキを食べさせる気はなさそうなので、俺はがっくりと肩を落とす。少しくらいなら食べても問題なさそうだけどなぁ……。

 そんな俺を見て溜息をついた仲島を眺めつつ、俺は先ほどまでの会話を思い出す。そして、さらっと『ウチに泊まると伝えた』と言っていたことに気がつき、俺も思わず苦笑する。元よりその予定だったとはいえ、流石は仲島、俺の考えることを分かっているじゃないか。


「お待ちどう。これがうちの作る、試作品やさかい」


 そんな思考を遮るように、控え室のドアが開いたかと思うと菊恵さんがケーキを両手に現れた。そして、それらを俺の寝ていたソファの目前にある机に置く。

 片方は、オレンジ色に照明の光を反射している、光沢の美しいみかんをふんだんに使ったタルトだった。七瀬の使っていた香水を髣髴とさせる柑橘類独特の甘酸っぱい香りは、鼻腔をくすぐると思いきややはり犬である俺には少し厳しいものがあった。

 もう片方は、そんなタルトよりも一回り小さい可愛らしいケーキだった。ただし、生地は全面がビターブラウンに染まっていて、香りもチョコレートの甘いものである。星をかたどって粉砂糖でデコレーションしたそのケーキも、美味しそうではあるがおそらく俺は食べられない。

 そんなケーキのチョイスに少しがっかりしていると、菊恵さんはおもむろにチョコレートのケーキを持ち上げると、何の迷いもなく俺の目前に差し出す。


「流花ちゃんはこっち、ジンはこっちな。ささ、召し上がれ」

「くぅ……?(これ、食っても大丈夫なのか……?」


 多少不安になった俺は、通じないと分かっていながらも思わず問いかけてしまう。もちろん反応はないが、一部始終を見ていた仲島も心配になったのか、俺の代わりに訊ねる。


「菊恵さん、それ犬が食べても大丈夫なんですか? チョコっぽいんですけど……」

「あぁ、そないなことか。このケーキに使われとる茶色の正体は、キャロブって言うチョコレートに似た色と甘味の、全く別物なんどす。せやから、アレルギー持ちの子供やペットも安心して食べられる、優しいケーキなんよ」

「へぇ……よかったねぇ、ジン」

「くぅ~、わんっ!(ホントだぜ。んじゃ遠慮なく頂きます!)」


 初めて聞く材料ではあったが、ケーキ屋に勤めている人間が言うのだから犬にも無害なのだろう。ならば躊躇う必要はない、と俺は差し出されたケーキに目を輝かせつつ、大口を開けて星型の一角に齧りつく。


「…………!」


 ……言葉も出ないくらい、感動した。キャロブとやらの風味は確かにチョコレートと遜色のない芳しさで、濃い色と裏腹に優しい甘味のスポンジケーキに俺は本気でほっぺたが落ちそうになる。これほど美味しくて思いやりのあるケーキは、生前でも食べたことがない。

 あまりの美味しさに虜になったのか、俺は夢中になってケーキを食べ続けた。その様子を見ていた仲島は俺の様子をじっと見ながら、菊恵さんに対して質問。


「これ、人間が食べても大丈夫なんですよね?」

「勿論。もともとペット専門のケーキやないし、さっきも言ぅたけどアレルギーのある子供でも食べられることが大前提さかい。問題なんてありゃせんよ」

「そーなんだ……どれどれ」


 さりげなく俺のケーキに手を伸ばした仲島は、端っこを軽く千切ると口に放り込む。じっくりと味わうように数秒間咀嚼すると、表情を輝かせながら一言。


「……んめぇ~」

「ふふっ、流花ちゃんが言ぅなら間違いないどすえ」


 仲島の表情に満足したのか、菊恵さんも満面の笑みを浮かべる。和気藹々とした空気の中ケーキを食べ進め、俺と仲島はあっという間に平らげてしまった。

 ほっと一息つくと、不思議と俺の体も大分楽になった。数時間前まで野良犬と争っていたのが嘘のように、妙に身体が軽い。勿論完治などしていないが、おそらく気分的な問題なのだろう。どちらにせよ、菊恵さんの美味しいケーキに感謝せねば。


「ごちそうさまでした……それと、ジンを助けてくれてありがとうございました」

「気にしなくてもえぇんよ? うちが公園でのんびり読書しとったら、偶然見つけただけ。せやから、流花ちゃんもジンも、気にしなくてえぇ」

「わんっ……くぅ?(それでも、ありがとうございました……って、何で仲島は俺がここに居るって分かったんだ?)」

「……ホント偶然だよ。ジンがいなくなったから少し探したんだけど、結局見つからなくて、もう帰ろうって思ったんだ。けど、無性にケーキ食べたくなってシュプラン寄ったら、菊恵さんがチワワを拾ったって言って、嫌な予感しながら見てみたらこの状況。全く、菊恵さんには全力で感謝しろってーの」


 全く以って、仲島の言うとおりだ。必死に探してくれた仲島にはもちろん、助けてくれた挙句ここまで運んでもらって、しかもケーキをご馳走してくれた菊恵さんには感謝してもしきれない。

 俺は言葉が通じない代わりに、深く頭を垂れる。これならたとえ口にせずとも、感謝の意はきちんと伝わるはずだ。果たして、菊恵さんはそんな俺を見て苦笑しながら、『別にえぇのに……』と恥ずかしそうにしていた。


「……っと、そろそろバイトが始まる時間や。ほな、うちはこれにて……気をつけて帰りなはれや?」

「はいっ! それじゃあ、またジン連れてきますねー!」

「わんっ! わんっ!(ケーキ美味しかった! ありがとうございました!)」


 壁に掛かっている時計は六時を差していた。制服姿の菊恵さんは踵を返すと、小さく手を振りながら控え室を出て行く。残された俺と仲島はお互いを見合い、双方笑顔のまま頷きあう。


「それじゃ」

「わぅ!(帰るか!)」

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