35~鳴き声~
やれやれ、どうしたものか。ミーティングがあるということは、バドミントン部も本日の活動はないと見える。それでも学校が終わるのがあと二時間少々……じっと待っているには流石に長い。朝から今まで待ち続けていた所為か、はたまた腹が満たされた所為か、今は待つよりも少し動きたい気分である。
(……散歩でもしてみるか)
犬の体になって初めての単独行動、実は少しワクワクしているのだ。七瀬の傍にいることで活動範囲が狭まっていたが、元よりふらっと歩いて散策するのが好きな性分だったこともあり、少しばかりの自由な時間を満喫したい衝動に駆られていた。
どうせ二時間も座って待っているくらいなら、時間は有効に使わねば。タイムイズマネーという言葉が脳に浮かんだ頃には、俺の体は自然と動き出していた。学校とは違う方向へ、目的地も定めず徒然なるままに。七瀬と一緒にいるときとは違う、欲求を満たされている感覚。それがあまりに嬉しくて、無意識のまま尻尾をゆさゆさと振る。
学校の周囲は歩き尽くしているし、身体が変わったとはいえ面白みがない。どうせだから、まだ歩いたことのない地を散策するのも悪くないだろう。時間になったらこの場所に戻れば良いし、たとえ時間を過ぎたとしても仲島の家に直行すれば良いだけの話だ。
俺は学校の坂でもなく、家に向かう道でもなく、北部――都市部に向けて歩き出す。ここ西山市は縦に長い地形で、北部には大型ビルや国鉄の通る駅などが存在する都市部になっていて、南下すればするほどにその風景は長閑なものとなっていく。俺や七瀬の住む西山地区は南部に位置するため、仲島や達弘が住む北部の夢見ヶ丘地区と比べてしまうと田舎と言わざるを得ない。まぁ、俺はそんな田舎も嫌いではないのだが。
閑散とした道をひたすら北に向かって歩き続けること数分、耳に入る音が妙に賑やかさを増してきた。目視するだけでは然程変わらぬ風景なのだが、犬となってから発達した聴覚のことだ。目視出来ない場所の喧騒もきちんと察知するのだろう……便利だな、本当に。
更に数分歩き続けた結果、目で見て分かるほどに人の行き交う量が増えてきた。西山地区と夢見ヶ丘地区の境目である、通称『ドリーム商店街』。地区の境目に沿って並ぶ全長五十メートル程の小さな商店街だが、その実は戦前から変わらず存在する老舗ばかり。故に来客する人間も多く、昨今の商店街過疎化を全く気にしない盛況ぶりなのだ。
とはいえ、この道も流石に通い慣れている。金のない俺にとってドリーム商店街は誘惑の塊でしかないため、あえてそれを避けて更に北へと進んだ。商店街のはずれということもあって人の往来は目立つが、商店街のそれとは比べ物にならない。我が物顔で道の中央を歩きながら、時折俺を見て近づこうとする子供を避けつつ、まだ見ぬ地へと向かう。
キャンッ……。
商店街の喧騒から抜け出し、本格的に夢見ヶ丘地区の土地へと足を踏み入れた時――俺の耳が異様な音を捉えた。それは日常で聞き慣れないような、悲鳴にも似た甲高い『鳴き声』。
(……あっちか)
不快な音の原因を探るべく、俺は歩むスピードを若干上げる。敏感になった聴覚の扱いには慣れてきたものの、その音がする地点への距離感は未だに掴めない。予想では周囲百メートル以内だと思うのだが……微かに残る鳴き声の残響を頼りに、俺は唯一正確な情報である方角――西へ向かった。
しばらく歩き続け、うっすらと見覚えのある通りへと出た瞬間、もう一度件の鳴き声が聞こえてきた。今度はより鮮明に、そしてかなり大きく聞こえる。距離感にして――三十メートル以内なのはほぼ間違いない。
今度こそ見つけ出す、そう息巻いて足を更に早く動かす。先ほどの音で確信したが、この不快な鳴き声の正体は間違いなく俺と同じ『犬』から発せられるものだった。同じ動物だから言葉の意味も理解できるかと思ったが、意味を成さない声だったからかさっぱり理解不能。それでも分かるのは、鳴き声の主が危機的状況に陥っているということ。
駆け足で十五メートル程進んだとき、先ほど感じた見覚えの正体を知る。俺の目の前に広がるのは、子供向けに作られた小さな公園。遊具は少ないが、西山地区と夢見ヶ丘地区の境目に存在することで多くの子供が集まる、通称『出会いと別れの公園』。
「く、ぅ……(あかね、公園……)」
思わず小さく漏らし、看板と共に公園を見る。幼い日の記憶が鮮明に蘇り、夕焼けに輝く茜色の風景とまだ小さかった頃の俺や七瀬たちの残像が見えるようで――。
キャンッ! キャンッ!
「っ!」
思い出に思いを馳せていると、明らかに公園の中から響く鳴き声によって現実へと引き戻される。間違いない、声の主はここにいる!
俺は駆け足で公園の階段を昇ると、すぐに周囲を見渡す。昼時だが子供の姿は見られず、ただ一人の女子高生がブランコに座って読書をしているのみ。激しくツッコミを入れたい状況ではあるが、目下の目的は女子高生ではない。
(……いた!)
遊具が並ぶ箇所と、緑が生い茂り花壇が広がる箇所が存在するあかね公園。声の主は後者に存在した。しかし、その状況はあまりにも予想外の形だった。
声の主はおそらく円形花壇の中央にいる小型犬――俺と同じチワワだろう。しかしそのチワワはどうしたことか、全身に傷を負っていた。クリーム色の毛並みは所々が赤い血で染まっていて、震えながら立っている状態からしてもかなり衰弱しているように見える。
そして、そのチワワを手負いにしたのはおそらく、周囲を取り囲む三匹の犬であろう。パグ、パピヨン、そして柴犬――そのどれもが例外なく、首輪なしの野良犬だった。
まだ俺の存在に気付いていないのか、はたまた一匹の獲物を狩るのに集中しているのか、三匹はゆっくりとチワワの周囲を廻りながら襲い掛かる機会を伺っている。
そんな光景を見ていた俺は――思わず歯軋りをする。狩られるチワワに対してでも、襲いかかろうとする三匹の犬でもなく、こいつらを捨てた人間の身勝手さに。もしも責任感のある飼い主に出会っていたら、今頃こいつらは喧嘩をすることもなく、平穏な生活を遅れていたはずなんだ。多少の喧嘩はあっても、あそこまで本格的に襲うことはなかっただろう。
言い得ぬ怒りで胸が満たされるが、それでも俺は行動しなければならない。『弱肉強食』という言葉が脳裏に浮かんだが、それでもあのままではチワワが死んでしまう。無辜の命を死なせたくなかったし、思い出の地であり憩いの場であるあかね公園で血を流して欲しくなかった。
俺は意を決して走り出すと、出来るだけ威嚇出来るように声を張り上げた。
「わうっ! わうっ!(お前ら! そいつから離れろっ!)」




