32~走れジン~
「……っ!」
結局深い眠りにつけぬまま昇り始めた太陽の光を確認した矢先――七瀬の身体が文字通り跳ね起きた。何の前兆もなくにそんなことが起きれば、俺でなくとも驚くはずだ。反射的に背後に飛び退り身構えると、七瀬の表情を見て愕然とする。
普段は寝起きの悪い七瀬。昨日までの寝起きはとても悪く、寝癖でぼさぼさになった髪で表情を覆い、寝ぼけ眼で二度寝するのが常だった。しかし今日は目覚めたてにも関わらず、大きく開かれた瞼を小刻みに震わせながら、静かに涙を流していたのだ。
流石に只事でないと察し、俺は慌てて七瀬の足元に飛び乗る。小刻みに震えているのは瞼だけでなく、体全体で微細な振動を発生させていた。まるで、何か恐ろしいものに対峙したかのように。
「くぅ~?(七瀬、大丈夫か?)」
相変わらず通じない言語で七瀬に語り掛けると、不思議なことに言葉が通じているかのように反応があった。それは偶然なのか分からないが、七瀬は確かに首を横に振った。虚ろな目のまま、それでも否定の意を示したのだ。
この短時間で起きた出来事に驚かされた所為か、俺は何をすれば良いのか分からなかった。大丈夫じゃない、それだけは傍から見ても一目瞭然。けれど、俺は七瀬に何かを施すほどの力を持ってはいない。それどころか、意思疎通すら出来やしない。こんな俺に今出来ることがあるとするのなら……。
「みんな……どうして……」
うわ言のように呟く七瀬を見ていられなくなった俺は、すぐに行動を起こした。ドア目掛けて突進する勢いで駆け出すと、惰性で斜め上に大きく跳躍。そしてドアノブにしがみ付くと、以前よりも大分早い動作でドアを開いた。しかし大した嬉しさや感動を覚えることもなく、無心で一階へと駆け下りる。俺に唯一出来ること――それは、助けを求めることだけなのだ。
今回は転がり落ちることもなくスムーズに降り、勢いを落とすことなくリビングへと飛び込む。流石に朝が早いからか、リビングにいたのは朝食の準備をしている七瀬母だけだった。味噌汁から発せられる出汁の香りに一瞬だけ和みつつ、それでも俺は俺に出来る役目を果たす。
「きゃんっ! きゃんきゃんっ!(頼む来てくれ! 七瀬の様子が!)」
「もう、朝から騒々しいわね……またナナちゃんに何かあったの?」
俺の行動に慣れてきたのか、面倒くさそうな表情をしつつも俺の顔を見つめる。こちらとしては話が早くて助かるので、ただ黙って小さく頷いた。そして二階へ向かうと、昨日と同じように七瀬母もついてくる。
一足先に七瀬の部屋に入ると、先ほどと一切変わらない風景が広がっていた。震えながらも体勢を全く変えていない七瀬は、まるで彫像と化したかのように固まったまま、焦点の合わない虚ろな目で正面を見ている。
悲惨ともいえるその光景に胸が締め付けられる中、七瀬母も部屋に入ってくる。同じように七瀬を見た七瀬母は、一瞬固まったかと思うと体を震わせ、次の瞬間には七瀬の下へと駆け寄っていた。
「ちょっとナナちゃん、一体何があったの?」
「や、だ……やめてよ……」
正面に母の顔が現れて尚、うわ言を呟き続ける七瀬。尋常ならざる七瀬の様子を確認した七瀬母はうろたえる一方で、冷静さを完全に失っていた。
「とりあえず寝てなさい! あぁ、どうしたら……」
「マ、マ……」
やっと七瀬も母を認識したのか、相変わらずのうわ言だが確かに『ママ』と発した。しかし、直後に体の力が抜けてしまったのか、ばたりとベッドに倒れこんでしまう。未だ動揺を隠せない七瀬母は心配そうな表情で七瀬の顔を見つめ、ふと額に手を当てる。
「……すごい熱」
昨日まではあれだけ笑顔を見せていたのに……一体、この一晩で何があったんだ。昨日は千凪と別れた後、風呂から戻った七瀬はすぐにベッドに潜り込んだ。別に湯冷めするような行為もしていないし、体調が悪くなるような前兆もなかった。
「……!」
そんな思考の後、俺は思わず息を呑んだ。あまりにシンプルで、何故すぐに思い浮かばなかったのかと自分を罵倒したくなるような理由。
――昨日の夕方の出来事。あれが俺に与えたダメージは相当なものだった。それを目の前で見て、聞いて、感じていた七瀬への重圧は計り知れない。俺の前では平静を装っていたけれど、内心ではおそらく強度のストレスとして刻み付けられたのだろう。そりゃあ、友達が怒り、悲しむ様を見せ付けられれ、しかもその原因が友達であり自身の恋人であるのだから。
「……くふっ」
自嘲気味に笑うイメージ、それを行動に移すと犬の体でも自然と小さく声が漏れた。人間と違うところといえば、あまり口角が上がらないことか。茫然自失としていた俺はそんな他愛も無いことしか考えられなかった。ある意味で現実逃避していたのかもしれない。
情けなさ過ぎる。あれだけ励ましてもらいながら、精神的に辛さを抱えている七瀬を励ますことが出来ないなんて。このままじっとしていたら、俺がこの世に戻ってきたことがまるで無駄に終わってしまう。そんなの、絶対にイヤだ。
「はぁ……さっき学校に電話してきたわ。今日はゆっくり休みなさいって」
「……うぅ」
小脇に氷嚢と体温計、スポーツドリンクなどの看病セットを持ってきた七瀬母が戻ってくると、手早く七瀬の看病の準備を始める。相変わらず準備が良いのは、流石七瀬の母といった感じではある。昔からこのトラブルへの対応の早さには何度もお世話になった。
俺も人間の身体があれば……と悔しさで歯噛みするものの、無いものねだりをしても仕方がない。だったら、俺は現状の俺に出来ることをしなければならないはずだ。
『男なら背中で語れ、行動で示せ』
以前からはっきりと脳裏に浮かぶ仲島の言葉、それが俺を突き動かす。現状、俺が出来ることは七瀬の傍にいてやること。だけど、それだけじゃ根本的な解決にはならない。もっと七瀬の深層心理にある、精神的なストレスの原因を突き止めなければケアのし様がない。
「……!(……そうか!)」
唐突に脳を駆け巡る閃光のようなものが、俺の思考を現状の最適解へと導く。七瀬の傍に居ても看病すら出来ないのだとしたら……俺が大きく行動を起こしても問題ない。だったら、俺の言葉が唯一通じる人物――仲島に話を聞けば良いじゃないか! 普段なら七瀬の傍に居ることを優先して絶対に思いつかないような妙案に、俺の身体が小さく震えだす。それは恐怖でもなんでもなく、きっと武者震いのようなものなのだろう。俺がやっと俺自身の力で、七瀬の為に行動できるのだから。
「これでよし……それじゃジン、ナナちゃんが起きちゃうから部屋から出てなさい」
「わんっ!」
そしてタイミングよく告げられる七瀬母の言葉に、俺は思わず元気に返事をしてしまう。少しばかり不謹慎だったかもしれないが、これはまさしく好都合。七瀬ならともかく七瀬母は俺がいなくなったところで気付くこともなかろう。もし長引いたとしても、仲島に合流すれば連絡だって取ってもらえる。故に心配をかけることもない……我ながら秀逸な算段だ。
「くぅ……(すまない、後は任せた)」
小声で漏らしつつ静かに部屋を出ると、階段をゆっくり降りる。そして一階の床を踏んだ時点で――一目散に外へ向けて駆け出した。玄関の扉は流石に開けられないが、初夏で網戸開きになっているベランダの窓からなら脱出できるだろう。幸い首輪もつけていないことだし、たとえ単独行動をしても誰かに捕まる可能性は限りなく低い。
果たして、網戸をそっと開きベランダからの脱出に成功した俺は、見慣れた通学路を駆けていく。俺がこの体になって初めて、七瀬の為に行動するべく。




