30~嘘と本音と~
「……くぅ?」
気付くと、辺りは真っ暗になっていた。ついさっきまではまだ明るかった気がするのに……俺ははっきりしない意識で記憶を探り、何があったのかを思い出す。七瀬が俺の家から帰ってきて、抱きしめられて、キスして――その後、俺は何をしていた?
最後に思い出せたのは七瀬の笑顔のみ。それ以降の記憶が無いことから、きっと疲れて寝てしまったのだろう。身体はともかく、精神的にはかなり消耗していたから。
半ば無理矢理に自身を納得させたところで、俺は時計を見上げた。最近は千凪の件もあって、夜になると時計を見る習慣が確立されている気がする。本来は犬なのだから、人間よりも体内時計は鋭敏かつ正確なはずだが……まだ人間としての意志が強いのか、犬の機能を存分に発揮出来ていないのだろう。まぁ、俺の魂を犬に売り渡す気は更々ないのだが。
時刻は午後十一時を回ったところ。七瀬が帰ってきたのが六時ごろだとすると……。
(げ、五時間も寝てたのか)
いかん、絶対に寝すぎだ。七瀬と一緒に居られる時間が限られていることを再認識したばかりのはずなのに、五時間もいきなり無駄にするとは……仁、一生の不覚。
軽く落ち込みつつベッドを見ると、七瀬はまだ寝ていなかった。この時間に部屋に居ないということは、おそらく入浴中だろう。一瞬だけシャワーを浴びる七瀬を想像した後に、慌てて脳内のあられもない姿の七瀬を消去すると、火照りを誤魔化すかのようにベッドに頭を埋める。掛け布団からふんわりと香る七瀬の香りが愛おしく、冷ますはずだった火照りはさらに熱を帯びた。しっかしこの匂い、癖になりそうだ――。
「……変態仁、何をしておる?」
「きゃぅっ!?」
鼻腔いっぱいに香りを取り込もうとした矢先、背後から幼い少女の声――しかしトーンを下げた蔑むようなハスキーヴォイス――が聞こえた。今までに無い反応で背後に振り向くと、そこには見慣れた小さな妖精らしき存在……女神こと千凪が佇んでいた。
おかしい、今日はなんでこんなにタイミングが悪いんだ? そもそもまだ日付が変わっていないはずなのに……。
「だーれが十二時ぴったりにしか現れないと言った? まったく、油断しておるから……」
(め、面目ない……)
「はぁ……もうよい。それより、本日は話があってだな……」
(あぁ、昨日の発言についてだろ? いきなり女神を辞めるだなんて……何があったんだ?)
そう、あれからずっと疑問に思っていた、最後に言い残した言葉。
『では、簡潔に言おう――わらわは、女神を辞めることにした』
別れ際だったので追及することは叶わなかったが、今日はまだ時間があるはず。無理に問いただすつもりは無いけれど、今回は千凪自身の意思。ならば聞こうじゃないか。
俺は黙って千凪の言葉を待っていると、彼女は吹っ切れたような笑顔を見せた。そして、今までに無い明るい声で揚々と話し始める。
「何があったって……そりゃ、わらわはバカだからな! 今までに何度もミスをしておったし、そろそろ潮時だと思ってな……うん。上の神も喜んでわらわを解任したさ!」
(……嘘つくの下手っぴだな、千凪って)
「う、嘘じゃないぞ! わらわは、わらわは……」
(無理するな、って昨日も言っただろ? 嘘つきは嫌われるぞ?)
明らかに動揺して目が泳いでいる千凪を小さな前脚でポンと叩くと、何故か千凪は背後へと後ずさった。まるで、俺に何かを知られるのを恐れているかのように。そんな挙動が少し気になって、俺はもう一歩前に歩み寄る。すると、千凪はもう一度背後に退いた。
おかしい。今日の千凪は一体どうしたんだ?
「……済まぬ。わらわはやはり、誰かに本心を告げるのを恐れているのかもしれない。大好きな仁であっても――いや、大好きだからこそ怖いのだ」
(千凪……)
彼女の気持ちは、男である俺でも少し分かる気がした。人間だれしも疚しいことの一つや二つはあるだろうし、それを人に話すのはとても勇気の要ることだ。それが身近な人間なら尚更。
ここで俺がかけてやれる言葉は……いや、何も言うまい。堂々としているだけでいいだろう。
何も言わず、ただ目を見据えていると、千凪の表情が少しだけ緩んだ。最初は不安げな雰囲気だったが、やっと覚悟を決めたのか大きく息を吸うと、いつもの声で小さく言葉を発する。
「ふぅ……済まないな。これはわらわが言い出したことだし、話さないと逆に失礼である。
では話そうか。わらわが女神を辞める理由を」
千凪の言葉に俺は黙って頷くと、少しも聞き漏らすまいと聴覚に意識を傾けた。まだ戸惑いを滲ませて入るものの、それでもゆっくりと言葉を紡いでいく。
「わらわが死んだ、十三年前の話だ。当時十歳のわらわは、海沿いの町で漁師の親の元に生まれたこともあって、船に乗る機会が多かった。……まぁ、ここまで話せばわらわの死因くらいは、察しのいい仁ならば分かるだろう?」
(……海に、落ちたのか?)
「あぁ……父と漁に出ていたとき、波に煽られてな。周囲の人間も気付いていたらしいが、わらわはその頃既に意識が無かった。死体が回収されたかどうかも定かではない」
(…………)
俺よりもよっぽど辛い死に様に、思わず眼を伏せたくなった。俺は自分の意思を伴ってトラックに轢かれて死亡、千凪は偶然の出来事で海に落ちて死亡……比べるまでも無い。千凪だって、相当に辛い思いをしている。
だが、それでも分からない。俺が千凪の死因を知ったところで、彼女自身が女神を辞める理由には直結しない。ならば、まだ千凪は話すことがあるはずだ。
「結論を急がない、か。学んだな……そう、本題はわらわの死因ではない。わらわが今際の際に見た映像、その記憶だ」
(映像? 記憶?)
「そうだ……夏とはいえ冷たい海の中、泳げなかったわらわはただ空気を吐き出しながら沈むしかなかった。薄れ行く意識の中、わらわが最後に見たのは――最愛の兄、汐にぃの顔だったんだ」
(汐にぃ……お前、兄貴がいたのか)
「うむ……わらわは汐にぃが大好きだった。落ちたときも一緒に乗ってはいたが、わらわを探しに来たかと思うとな、すごく嬉しかったんだ。その所為かもしれないな……わらわは未練を残すことなく、この天界へと召された。わらわが仁を好きになったのも、どこか汐にぃに似ているからかもしれないな」
(そう、だったのか)
驚く部分が多かったが、それよりも何故か嬉しさの方が勝っていた。こんなにも自分のことを話してくれたこと、それは俺が千凪に信じてもらえているということ……そう思うと、不思議と嬉しかった。話の内容が内容なだけに、喜ぶのは流石に不謹慎だが。
間違いなく俺の心を読んでいるであろう千凪は、呆れと照れを足して割ったような表情で俺を見ると、小さく息を吐きながら続ける。
「はぁ、まったく……まだ話は終わってないぞ?」
(あぁ……とはいえ、俺もそれなりに話は読めてきた)
「ほぅ? ならばわらわの考えを当ててみるがよい。ただし……後悔するなよ?」
(分かった。千凪はきっと、自身が安否不明ということも考えて最後に見た景色が見間違いじゃないとして……兄貴の安否も心配なんだ。もし遺体が無事に回収されたならまだしも、そのまま漂流していたとしたら――兄貴を巻き込んだ可能性が高い。だからこそ、千凪はきっと女神になったんだ。いつ兄が天に召されても、すぐに会えるように)
「……恋愛には鈍いくせに、本当に鋭すぎる。わらわはそんな仁が嫌いで……でも好きだ」
(どっちだよ! ……まぁいい。ともかく、今回千凪が女神を辞めようと思ったのは……兄貴に会えたのか、もしくは――)
そこまで考え、俺は思考として形にするのを止めた。たとえどんな結末であれ、千凪にとって辛いことであるのは変わりない。わざわざ傷口をえぐるような野暮なことをしたって、彼女を余計に悲しませるだけだ。
そんな配慮すらも見抜いてしまう女神様は、うっすらと涙を浮かべながら、しかし元気であることをアピールするかのようにはにかんだ。それが作ったものであることは、言うまでも無い。
「ま、そういうことだ! だからわらわは女神を辞める。辞めて、少しでも自由になろうと思う。そうしたら……わらわも、仁と同じように再会できるかもしれないからな!」
(……そうか。それなら止めないし、寧ろ辞めて良かったじゃないか。十三年間、お疲れ様)
「うむ、ありがとう。仁に打ち明けて本当に良かった……っと、そろそろ時間である。わらわはこれで去るが……いや、なんでもない」
(分かった、俺も何も言わん。それじゃ……兄貴によろしくな、『元』女神様)
俺の言葉を聞き取った千凪は、今度こそ満面の笑みを浮かべると、上空にふわりと舞い上がる。そして、光子に包まれたかと思うと一瞬で消えた。
残されたのは、暗闇にポツンと佇む小型犬一匹のみ。
(千凪……見つかると良いな、お前の最愛の兄貴)
感慨深げに思いつつ、俺は主の帰りを待ちながらベッドに伏せる。とはいえ、さっきまで寝ていただけに眠気は一切感じない。そうだ、今夜は七瀬の寝顔でも観察するか。
そんな他愛も無いことを考えながら、千凪にはバレなかった一筋の涙を前脚で拭った。




