2〜ちわわ!〜
(……ここは?)
いつ頃だろうか……俺は龍から振り落とされて、意識を失った。あれから何時間経ったかも定かではない。
目を覚ますと、目の前に広がるのはモノクロと化した誰かの部屋。
随分と視線が低いことから、どうやら俺は人間に転生したわけではないらしい。
時計を見上げると、ちょうど深夜の十二時。日付が変わったばかりだ。
無感動にその事実を頭に入れ、体を起こそうとすると感覚的に四本足で立ち上がった。
不思議な違和感に驚きつつも、俺は歩き出して目の前にあった窓を見る。
薄暗がりで反射する自分の姿は――犬だった。
(なっ……これ、あの時のチワワ?)
思わず飛び退ってしまうと、あまりの身体の軽さに意識が追いつかず、着地できずに後ろへごろんと転りこんでしまう。
幸い床が柔らかいカーペットだったため、そこまでの痛みを感じることは無かった。
すぐに立ち上がると、もう一度自分の姿をじっくりと見る。
あの時は確か茶色の毛並みを見た気がするけど、今は色彩を感じ取ることが出来ない。
そういえば、犬の目は全色盲に近いって聞いたことがある。なんか、昔の映画みたいだ。
そして、さっきから気になっている息苦しいほどの感覚――嗅覚と聴覚。
まだ慣れぬこの二つの感覚は、人間とあまりにも違いすぎて脳が追いつかない。
ただ一つ、意識的に感じ取れることはあった。
(この甘酸っぱい香り……七瀬の使ってた香水だ)
前回のデートで、お互いに合う香水を選び合ったときに俺が選んだ柑橘系の香り。
けれど、あの時のような愛おしい香りではない。むしろ、鼻腔を刺激して離れない嫌な香りと化している。
犬に柑橘系は合わないのだろうか……この感覚の変化がとても恨めしい。
その嫌な香りを頼りに、俺はベッドの上へと大きく跳躍する。
流石は犬というべきか、軽く地面を蹴っただけで容易に飛び乗ることが出来た。
(……なんか、恥ずかしいな)
よく考えれば、俺がこの部屋に来るのは小学生のとき以来だ。
ましてやベッドに上がるなんて、遠い未来のことだと思っていたのに……いや、決して変な意味ではなく。
出来るだけ足音を立てぬように近づくと、タオルケットに顔を半分埋めた七瀬が見えた。
……まさか、もう一度この顔が見られるなんて。
「……くぅ~ん」
七瀬、ともう一度名前を呼びたかった。
けれど発声器から出てくる音は、人間にとって意味を成さないただの鳴き声。
この身体は、どこまでも不便だ。これじゃあ、伝えたいことも伝えられないじゃないか。
「ふふっ、無事に転生できたみたいだな」
突然聞こえる声に、俺は辺りをきょろきょろと見渡す。
その声の正体は、案外簡単に見つかってしまった。
薄く光る後光とともに、あの女神が宙に浮いていたからだ。
……ただし、大きさは妖精もかくやという超ミニサイズ。
「とはいえ、既にある命に魂を上書きしてしまったのは想定外だったが。
まぁ、約束通り愛しき者の傍におることが出来るだろう?」
「……くぅ(そりゃ、その通りだけどさ……)」
相変わらずの鳴き声だが、一応女神には伝わっているらしい。
腑に落ちないような態度の俺に、彼女は訝しげな表情を浮かべた。
「なんだ、この姿では不満か?」
「きゅぅ……(いや、感謝はしてるし不満はない)」
そう、生まれ変われたことだけでも感謝しなければならない。
ここで文句を言おうものならば、俺は本当に最低な男になってしまう。
不便な身体に対する不満を抑えて微笑むと、女神は疑いの眼差しをむけつつも、最後は溜息をついた。
「……はぁ、まぁよい。
とりあえず、わらわが下界に降りられる時間は限られておる。今日はこれくらいで帰るが、また明日も来るからな?」
「……くぅ?(……なんで?)」
平然と聞いてしまってから、少し前のやり取りを思い出す。
そういえばこの女神、結構寂しがりやなんだっけ。可愛いトコあるじゃないか。
しかし、この時点で俺は肝心なことを忘れていた。
「ば、バッカじゃないのかこのアホー!」
突然顔を赤らめたかと思うと、よく分からない罵り言葉をぶつけてきた。
とりあえず、バカなのかアホなのかはっきりしような?
「お前なんかバカでアホだボケー!」
ボケまで増えやがった。
そしてこの期に及んでやっと、自分が一切言葉を発していないことに気がつく。
……そうだ、こいつは俺の心が読めるんだ!
今更になって、彼女がやたらと顔を赤らめている理由に気づく。可愛いって言われるだけで、そんなに照れるかなぁ……。
内心で苦笑いしていると、散々罵り続けた女神は最後にあっかんべーと舌を出し、そのまますぅっと消え去った。
(……全く、可愛いなぁ)
何処か微笑ましい彼女の反応に思い出し笑いしつつ、改めて七瀬の顔を見た。
整った顔立ち、柑橘系の香り、静かな寝息。全てが情報として、頭の中に入ってくる。
けれど、それは人間だったときの俺とは違う。全てが愛おしいとは言えず、なんだか以前にも増して距離が出来てしまった。
そんな寂しさを払拭するためにもう少し近づいてみよう、そう思った俺はゆっくりと七瀬の寝顔に近づく。
「んっ、うぅ……」
「きゃんっ!?」
しかし、あまりにもタイミングが悪かった。
寝返りを打った七瀬はこちらへと身体を向け、一瞬の早業で俺の華奢な身体を抱きしめた。
同時に、タオルケットが捲れて七瀬の首下があらわになる。
第一、第二ボタンが外れていて、更に真っ白な肌に包まれた鎖骨と胸元がはだけていて、なんとも言えぬ妖艶な色気が……。
って、そんなこと考えている場合じゃない! 妙にふっくらとした胸とベッドが俺の身体を挟み込み、急にパニック状態に陥る。
ジタバタ足掻いてやろうかとも思ったけど、七瀬の安眠を邪魔するわけには行かない。
「……くぅん(……やれやれ)」
せっかく犬になったのだし、コレくらいの事には慣れておかないと今後のコミュニケーションで身が持たなくなる。
そう線引きをした俺は、仕方なしと七瀬の柔らかい身体に身を委ねて目を閉じる。どうせ朝になれば開放されるだろう。
はぁ……どうせなら、人間であったときにこうしてほしかったな。
深い溜息を残し、俺は七瀬の寝息と呼吸を合わせ、静かに眠りについた。