23~揺れる心~
私と流花ちゃん、そしてジンの二人と一匹で軽くジョギングを終え、帰宅すると時刻は七時前。一時間近くは走っていたことになるけれど、これくらいなら余裕だ。
その後朝食を食べ、軽くシャワーを交代で浴び、制服に着替える。それだけで時間はあっという間に過ぎ、登校するのに丁度いい時間になった。
「「いってきまーす!!」」
二人で重なる声に、ママも笑顔のまま手を振って見送ってくれる。
そういえば、昔は私の家に泊まると流花ちゃんも仁君も、決まって言う言葉は「いってきます」だったなぁ。子供が増えたみたい、とママは喜んでいたけれど。
昔のことを思い出して微笑を浮かべながら、軽やかな足取りで家を後にする。今日は朝から走ったおかげか、いつもよりも歩くスピードが早い。
それは流花ちゃんも同じらしく、まるで競歩でもしているかのようにスタスタと歩いている。この調子ならいつもより二割増で早く学校に到着しそうだ。
「……あれ、そういえば流花ちゃん朝練は?」
「あー、今日は無いよ。そもそも朝練あったらナナの家に泊まらないし」
「そっか」
妙に納得しながら、尚もペースの落ちない歩幅で歩き続ける。とはいえ、流石はバドミントン部所属の流花ちゃん。私が少し疲労を覚え始める頃になっても、けろっとした顔で歩いていく。
いつもならば二十分は掛かる通学路だけれど、十分足らずで学校前の上り坂に差し掛かった。ちらほらと同じ制服の生徒が見えてくるけれど、私たちは一向にペースを落とさない。周囲の人間も私たちを見て不思議そうな表情をするけれど、出来るだけ意識しないようにした。
すたすた(効果音としてズカズカの方が正しいかもしれない)と歩いていくと、数メートル先に見覚えのある背中が見えた。あれはきっと……河波君だろう。
「おっ、珍しく達弘の方が早いじゃん。おっ……すー!」
しかし、私よりも早く気付いたらしい流花ちゃんは、ニヤリと微笑みながら小走りで近づくと――あろうことか、確認もせず挨拶もせず、大きな背中に平手打ちを叩き込んだのだ。
朝の登校風景にはあまりにも似つかわしくない、乾いた大きな音が上り坂に響き渡る。
「っでぇ!?」
喰らった当人も悲鳴か何か分からない、異質な声を吐き出しながら盛大に咽る。胸の内で人違いでなかったことを喜んでしまったのは、河波君に申し訳ないから内緒だけれど。
対して、流花ちゃんは申し訳なさの欠片も無い表情で蹲る河波君を見下しながら、たった一言。
「ファイトー!」
「いっぱーつ! ……って、そういうのは手を差し伸べて言え!
あと不意打ちは男にあるまじき最低な行為でだな……」
「ほぅ……お前の脳内辞書に『デリカシー』という言葉を叩き込む必要があるようだなぁ。肉体言語で構わないか?」
「ちょっと待て、HTMLすら分からない俺にそんな言語を使うのはお勧めしないぞ? 日本人なら日本語使え」
「ふーん、私の言葉は日本語に聞こえないってか。だったら言葉は要らないよなぁ……?」
「タンマ! 悪かったから落ち着いてくれ! ほら、かわもっさんも何か言ってくれ!」
ぼんやりといつものように繰り広げられる夫婦漫才を見ていた所為か、私は河波君に名指しされたことに全く気付かなかった。
二人の会話が止み、同時に視線を向けられて初めて我に返る。
「えっ、ど、どうしたの? 顔に何か付いてる?」
「いや……名前呼んでも気付かれなかったからさぁ。ちょっとショックだったり」
「ま、ナナにとって達弘なぞその程度の存在ってことだ。諦めて私の那由多烈ビンタを喰らえぇ!」
「流花もナユタなんて言葉知ってんのなー……って、分かった謝るからその軽い手首のスナップを止めろって!」
叫びながら、河波君は死に物狂いの表情で私の背後に隠れる。鬼の形相で河波君を追いかけていた流花ちゃんは、視線の先に私が映った途端にその動きをピタリと止めた。
「くっそー、愛しのナナを後ろ盾にするとは卑怯だぞ! このサイテー男がっ!」
「スマン、かわもっさん。しばらくの間お前の背中に守られたい」
「は、はいっ!」
肩に手を置かれた瞬間、私は無意識に素っ頓狂な声を上げてしまう。何故だろう、これくらいのボディタッチは私たちの間では日常茶飯事だったはずなのに……やけにドキドキする。
そんな反応に驚いたのか、流花ちゃんは大きく目を瞬き、河波君も置いた手を咄嗟に引っ込めた。
「ナナ、どうした? パーカーにセクハラでもされたか?」
「人聞きの悪いこと言うなよ! ……つっても、いきなり触れちまったからなぁ。ゴメン」
「う、ううん! 河波君は悪くないからっ!」
自分でも『きっと頬が紅潮しているんだろうな』、と想像が付くくらいには顔が火照って熱い。それによく分からないけれど、河波君の顔を直視出来なくなっている。
きっと、あの夢の所為だ……夢は夢なんだから、気にしたらダメだ。そう言い聞かせるものの、結局その行為が夢を思い出すきっかけとなり、より強くあの風景が瞳に焼き付いていく。
やけに思考がぼんやりしてきて、今では二人の声もハッキリ聞こえない。何やら言い争っているのは分かるのだけれど。
河波君は、私のこと……。
キーン、コーン、カーン、コーン。
「って、またこのパターンかよ! かわもっさん、早く行くぞ!」
「ひゃっ!」
通学路に響き渡るチャイムの音、そして私の左手に発生した温もりによって、意識は一気に現実へと引き戻される。
突然の出来事に思わず小さな悲鳴を上げてしまうけれど、河波君の行為は不思議と嫌じゃなかった。寧ろ、安心感を与えてくれるような優しい温もりに、高鳴っていた鼓動が徐々に落ち着いていくる。
それが私の表情にも顕著に表れていたのだろう。河波君は私の顔を覗き見るなり、安堵の表情を浮かべながら走り出す。私も置いていかれまいと、握る手に力を込めながら後を追うように足を動かした。
「……私、置いていかれた?」
ポツンと佇む流花ちゃんの呟きが風に乗って聞こえたけれど、今だけは聞かなかったことにしよう。
この胸に生まれた小さくて暖かい『何か』が、そうしろって言ったから。




