22~ジンの魂~
「わんっ、わんっ!」
「く……うっ」
激しい頭痛と共に、私の一日は始まりを告げた。額に浮かぶ冷や汗を拭いながらむくりと体を起こすと、真っ先に聞こえた鳴き声の主――ジンがうるうるとした眼で私を覗き込む。
尻尾も垂れ下がって元気がないみたいだし……もしや、私は夢でうなされていたのかもしれない。
「……おはよっ、ジン」
「くぅ……」
努めて笑顔になろうと口角を上げて微笑むものの、それすらもジンにはお見通しみたいだ。私の顔を上目遣いで見上げるその様は、本当に心配してくれているのだろう。
そう思うと、何故だか急に私の体が、心が温もりを欲していた。それはきっと、夢の中で幼い仁君に出逢ってしまったから。河波君の心を知ってしまったから。
本来ならあの夢が現実の過去かどうかを疑うのだろうけど、私の中の何かがそれを許さなかった。
「おいで……」
今でも鮮明に思い出せる、二人の会話と交わる拳。そんなことがあったのかと思うと、急に切なくなって……いつしか、私はジンを力強く抱きしめていた。
腕と胸から伝わるジンの微かな温もり、小さな鼓動。人間よりも小さな命だけれど、しっかり人間と同じように生きているんだなぁ。ジンを抱きしめる度、何故かそう思う。
そうしてジンに胸中の切なさを癒してもらうと、『私だって心臓が動いている。生きているんだ』と実感し、生きるための活力に満たされる。今日も元気に頑張ろうと思える。
今日で仁君が亡くなって一週間経った。未だに消えない悲しみだけれど、それでも私にだって分かることはある。
あの日、この小さな命を助けて逝ってしまった仁君のために、今日もこうして生きていく希望を与えてくれる小さな命のために、私は笑顔で前に進まなきゃいけないんだ。
「ありがとね、ジン。ちょっと苦しかった?」
「くぅ~」
私の言葉に満更でもなさそうなジンは、お返しとばかりに私の顔をペロペロと舐めてきた。そういえば、ジンがここまで積極的にスキンシップをとるのは珍しい気がする。
今までを振り返ってもそうだ。平均的な犬と比べても、ジンは私との接触に少し迷いを感じている節があるし、こうして舐められたのもまだ数回しかない。着替えるときだって、何故か私の方を見ない。
それはまるで、ジンが私との接触に羞恥心を抱いているみたいで……。
「……くぅ?」
ジンはまたしても上目遣いで私を見上げる。ただし、先ほどのような心配そうな目ではない。寧ろ、何か訝しんでいるような目だった。
犬のような動物には第六感が備わっていると聞くけれど、あながち間違っているわけでもなさそうだ。
私の胸の内で渦巻いているのは、昨日の流花ちゃんが発した謎の言葉。
『……ジン、だっけ? お前、仁なの?』
確かに、流花ちゃんは昔から犬とふれあう際に会話をすることはあった。普通なら会話が成立することなどありえないけれど、傍目から見ても意思疎通が出来ているように見えるから不思議だったけれど。
そしてそれも、私の中ではごく普通の風景として捉えていたつもり。けれど、ジンに投げかけたあの質問だけはどうしても理解できなかった。
私の解釈が間違っていなければ、あの時流花ちゃんはジンに対して『ジンの意思が仁君』であることを確認していたように聞こえた。
あの時は動揺して頭が回らなかったけれど、こうして冷静に考えると色々な疑問点が浮かぶ。
第一に、何故流花ちゃんはジンを仁君だと思ったのだろうか?
私が着替えている最中に流花ちゃんに襲われた時、ジンはまるで威嚇するかのように吼えていた。それすらも言葉として理解できるのならば、流花ちゃんはその時にジンが仁君であるという根拠を見出したのだろう。
だとすれば、あの時のジンは私の身を案じてくれたということになる。もしも本当に仁君だったとしたら、着替えを見られていたのは恥ずかしいけれど……それでも、嬉しい。
その仮説が真実だとしたら、次に浮かぶ疑問――何故、流花ちゃんは真実を告げなかったのだろうか?
流花ちゃんの気まぐれならいいんだけれど……疑う気はないけれど、何か裏があるかと考えると少し怖い。
「……ううん、深く考えてもダメ。ジンはジンだもん、ねー?」
「わぅっ!」
そう、結局のところジンはジンなのだ。仁君が助けて、私を支えてくれる小さくて大きな存在。それで十分じゃない。
たとえその魂が仁君そのものだったとしても、私を影から見守ってくれる大切な存在には変わりない。
だったら……深く考える必要は無い。私はありのままの真心で、ジンを愛せば良いんだ。生前の仁君と同じように。
「……ねぇ、ジン。もしもあなたが仁君だったら……キスしたら、人間に戻るのかな?」
「くぅ?」
まだ寝起きだからだろうか、とんでもないことを口走っている気がする。
そりゃあ、白雪姫や蛙の王様みたいに呪いが掛かっているのならば、キスで魔法が解けるのかもしれない。けれど、ここはおとぎ話の世界ではないし、そもそも仁君の死を目の当たりにしているのだ。
あり得ないってことは重々承知。でも、私は少しでも奇跡を信じてみたかった。
ちゅっ。
「きゃうっ!?」
突然の出来事にびっくりしたのか、ジンはジタバタともがいた後に逃げ出してしまう。
ほんの一瞬触れた唇は、ジンの温もりに包まれていた。少しだけ抜けた体毛がくすぐったいけれど、思いのほか不快ではない。
残念ながらジンが仁君になることは無かったけれど……それでもいい。少し遠かったジンと私の心の距離が、縮まった気がしたから。
「んー、いくら寂しいからって犬に発情するとは、七瀬も変わったねぇ?」
「ひゃっ! る、るか、流花ちゃん起きてたの!?」
背後から聞こえる呆れ声に体が震え、私の出せる限界のスピードで振り返る。そこには、寝ぼけ眼のまま寝癖のついた髪で至極眠そうに、けれどはっきりとした意識の流花ちゃんがジト目で佇んでいた。
そうだ、今日は流花ちゃんお泊りだったんだ……完全に失念していたけれど、ベッドから落ちてる流花ちゃんも悪いと思うんだ。相変わらずの寝相の悪さに、私は思わず苦笑してしまう。
「ん、何笑ってんの? そんなにいいキスしてたの?」
「ち、違うよ!」
いけない、これは大きな誤解を生んでしまいそうだ。首をブンブン振りながら否定すると、流花ちゃんは大袈裟な溜息交じりに口を開く。
「はぁ~……別に私はナナの性癖に文句言わないけどさ。
それより、結構早起きしちゃったけどどうする? 外でも走る?」
まだ誤解は解けていなさそうだけれど、話題転換した以上むやみに掘り返す必要もないだろう。そう思った私は、今更のように現在の時刻を確認する。
アナログ式の壁掛け時計は短針が五と六の間……って、ものすごく早起きしてる! 朝が苦手なだけに、あまりの早起きに少しだけ驚く。
確かに、こうしてベッドに座っていつの間にか二度寝……なんてパターンになるよりも、折角早起きしたのだから体を動かすのも悪くないかもしれない。
「そうだね、少しだけ走ろっか?」
「よしきた! そうと決まればさっさと着替えようか……ぐへへ」
最後の年寄りじみた卑猥な笑みが気になったものの、私は言われたとおり着替えることにする。とはいえ、今着ているパジャマの下にはシャツを着ているから、ジャージを履くだけで準備は完了なのだけれど。
パジャマのボタンを外し、そして脱ぎ……その光景をじっと見ていた流花ちゃんは、シャツが見えた瞬間にあからさまにがっかりしていた。
けれど、その眼の輝きは失われていない。忌々しそうな視線を浴びせられた後、両手を広げながら叫ぶ。
「くっ……えぇい、布越しでもそこまで大きいのかこのEカップめぇ!」
「きゃあぁぁぁっ!」
早起きして分かったこと……どうやら、セクハラに着衣も裸も関係ないらしい。




