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10〜七瀬の朝〜

 ピピピッ、ピピピッ。



(んっ……もう朝か)


 七瀬の携帯が奏でる電子音のメロディーから、俺の一日は始まった。

 まだ少し眠気の残る頭を数回振り、大きく欠伸をするとその場に立ち上がる。カーテンから薄く差す日光が妙に心地よい。

 昨日の夜、女神――千凪と会話を終えた俺は、いつの間にか眠っていたみたいだ。七瀬の用意してくれた寝床があったのに、床で寝てしまったのは少しもったいない気がするなぁ。

 固い床で寝て凝った筋肉をほぐすべく、体のありとあらゆる箇所を屈伸させる。人間ほど伸びないものの、多少は凝りも取れた。

 そうしているうちに、一度自然に止まったアラームが再び鳴り出す。最初のアラームをスヌーズで止めていたらしく、同じメロディーが軽やかに響いた。


「ん、うぅ……」


 すると、ベッドの掛け布団から七瀬の腕が伸び、枕元に置いてある携帯を手探りで握る。画面も見ずに操作し、アラームが止まると同時に七瀬の腕はもう一度布団の中に引っ込んだ。

 時刻は……六時半。二度寝をしても咎められない時間ではあるが、かといって余裕があるわけでもないだろう。特に女性は支度が大変そうだし。

 起こそうか起こすまいか数瞬悩み、結局起こさず放置することにした。昨日のように寝ぼけて絞められたら堪ったもんじゃない。

 結論が出たところで、手持ち無沙汰な俺はその場に伏せる。どうせやる事もやれる事も無いのだから、こうして静かなひと時を満喫するのも悪くは無いだろう。

 時計の秒針が刻む音、小鳥のさえずり、近くを走る男性の荒い息……こう静かだと、犬の耳には色々な音が聞こえてくる。相変わらず慣れることは無いが、音というものの情報量に少しだけ感心する。

 別段、耳を澄ましているわけではない。勝手に入ってくる音を、情報として頭に入れるだけ。そんな単純かつ無味なことなのに、人間の頃には味わえなかった新鮮さがある。

 こんな経験をしている人が、実際はどれくらいいるのだろうか。輪廻転生の概念から考えると、こうして生まれ変わるのは俺だけではないはずだ。まぁ、俺のように前世の記憶が残っているケースは稀有かもしれないが。

 しかし、その新鮮さも人間だった頃の記憶があるから感じるのであって、普通の犬にとってはこれが日常。さして楽しくも何とも無いのだろう。

 俺もいずれ、この生活に慣れて新鮮味を忘れるのかな……まぁ、残り一週間の命なのだが。



 ピピピッ、ピピピッ。



 またしても鳴り響くアラーム。そして先ほどと同じように手が伸び、指だけでアラームを止める。

 まぁ、まだ寝るんだろうけどな……予想通り、布団を大きく被りながら寝返りを打つ。


「うぅん……仁くんのえっち」

(おいっ)


 夢の中で何をしているんだ乾仁。俺の彼女に手を出すやつは、たとえ俺自身でも容赦しないぞ。

 脳内をめぐる頭の悪い思考に呆れつつ、もう一度時計に目をやる。先ほどから十分経っているが、相変わらず七瀬が起きる気配は無い。

 下ではどうやら七瀬父と母も食卓についている頃だし、そろそろ起こした方がいいかな。

 未だに寝言で呟いている七瀬を目覚めさせるべく、俺は相変わらずふかふかのベッドに飛び乗る。

 ゆさゆさ、ゆさゆさ。華奢な肩を少し揺さぶると、顔をしかめて唸り声を上げる。


「むぅ~……ねみゅい」

「くぅ~ん(起きろ~)」


 しばらく揺らし続けると、やっとのことで体を起こす。後は放っておけば勝手に目が覚めるだろう。

 七瀬が目覚めるまでは暇なので、少しだけ考えたのち俺はベッドの上から部屋を見渡す。

 オレンジを基調とした壁紙に同色のカーテン、壁には某アイドルグループのセンターを飾る女性のポスター。

 まだ綺麗な学習机の上には整然と並べられたテキスト、辞書、その他諸々。几帳面な七瀬の性格が全面に出ていて、個人的に少しだけ納得する。

 そして化粧台には、数こそ多くないものの化粧用品がこれまた整然と並んでいた。基本的にナチュラルメークだから、七瀬は可愛いんだよなぁ……少しだけ惚気てみる。

 結論、しばらく見ないうちに部屋も女の子らしくなってたんだなぁ……と、今更ながら実感。

 俺が思考を巡らせているうちにすっかり目を覚ました七瀬は、俺を見ると無言で腕を広げてくる。無論、するべきことはただ一つ。


「おっはよ~!」

「くぅ~(おはよ~っ)」


 押し倒さんばかりに飛び掛り抱擁。もちろん俺のような華奢な体では、押し倒すどころかふくよかな胸にすっぽりと吸収されてしまう。

 ……いかん、けしからんぞ俺。この感覚に慣れてしまったら、万が一にも人間に戻ったときが怖い。ハグ魔になってしまいそうだ。

 俺の心中など知る由も無い七瀬は、いつものような少し強めの力で思い切り抱きしめてくる。


「よ~しよし。可愛いなぁ」


 満面の笑みで撫で繰り回す七瀬に、俺の表情も自然と綻ぶ。息苦しいのも鼻に付く柑橘系の匂いにももう慣れて、今はこうしていることに心地良さを覚える余裕も出来た。

 愛おしい。こうして抱きしめられている時間、七瀬の笑顔、温もり、それら全て。

 けれど、その愛おしい時間も残り一週間。昨晩告げられた千凪の言葉が未だにチクチクと胸を刺す。

 俺はこの残された時間で、何が出来るだろうか。何も出来なかったら、こうして転生してきた意味が無い。

 胸の奥で黒々としたものが渦巻いているが、七瀬が立ち上がったことにより現実に引き戻される。


「よっし! それじゃ学校に行く準備しなきゃ。

 今日からお留守番だけど、いい子にしててね?」

「……わんっ」


 流石にこの姿では学校生活に干渉できない。大人しく留守番を任されようか。

 タイムリミットがあることを考えると、少しでも七瀬と時間を共にしたいが……無念なり。

 俺は溜息をつきながら、すぐに制服に着替えるであろう七瀬から離れるように部屋を出る。いくら犬だからとはいえ、女性の着替えを覗き見るのは俺のプライドが許さない。

 慣れた動作でドアを開き、一足先に一階へ。下からは珈琲の芳しい香りが鼻腔をくすぐり、同時に紙切れを捲るような音が度々聞こえてくる。

 きっと七瀬の父が新聞でも読んでいるのだろう。頃合からしてそろそろ外出するだろうが、一応顔合わせくらいはしておくか。

 もう警戒せずとも階段を降りれるようになった俺は、軽い足取りですたすたと降りる。転げ落ちた事がもう遠い昔のことのように感じるなぁ。

 リビングに入ると、予想通り七瀬の父が椅子に座って新聞を読んでいる最中だった。年齢は確か五十代になるはずだが、それを感じさせない若さが全面に押し出されている。

 それは決して作り物ではなく、日々の生活の賜物なのだろう。俺が人間だったら、きっとこんな父親になろうと目指しているに違いない。

 故に、七瀬も父のことが大好きだ。幼い頃から一緒に過ごしてきただけあって、その辺の事は熟知しているつもり。

 対する父は七瀬にとても優しく、かといって甘やかすことはしない。七瀬がアレだけしっかりしつつも大和撫子に育ったのも、あの父の厳格さに起因してるのだろう。


「……おや、これが七瀬の拾ってきた犬か」

「わうっ」


 件の七瀬父は、俺を見るなり品評するような目で俺をじっと見つめてくる。そういえば、七瀬は父に俺の存在を前もって伝えてあるのだろうか?

 威圧感のある鋭い視線をしばらく浴びると、七瀬父はふっと力を抜いて薄く笑顔を見せる。


「うん、可愛いじゃないか。

 七瀬が認めたのなら、きっといい子なんだろう」


 その笑顔に、七瀬母のような疑惑の色は見られなかった。もしかしたらこの家から追い出される結末も考えていたため、その言葉を聞いた俺はほっと息をつく。

 感謝の気持ちにと、俺は七瀬父の足元に寄ってちょこんと座る。驚いた様子の七瀬父だったが、すぐにしわの多い大きな手で俺の頭を包み込んだ。

 転生してからこれまで撫でられたのが全て女性だったため、今までとは違う感触に少しこそばゆかった。がっしりとした大きな手は、流石は一家の大黒柱だと納得させる雰囲気を醸し出している。

 この手で今まで七瀬を育ててきたんだな……そう思うと、妙に感慨深い気持ちになった。


「…………」


 そんな和やかな空気の七瀬父を、遠くで七瀬母が複雑そうに見つめていた。

 やはり、七瀬母の胸中にはわだかまりが残っているのだろう。七瀬の心を傷つけた出来事の中心となる存在、それが目の前にいるのだから。

 貴女の気持ちが分からないわけではない。けれど、俺にはやらなければならないことがある。

 だから……あと一週間だけ我慢してくれ。事を成したら、何処にでも消えるから。


「パパ、ママ、おはよ~!」


 七瀬母に対し決意の視線を向けていると、制服に着替えた七瀬が勢い良くリビングに入ってきた。

 こうして川本家が揃う様を見るのは随分と久しぶりな気がする。とはいえ、最近は家族ぐるみの行事が無いから仕方の無いことだが。


「おはよう、七瀬」

「あら、ナナちゃんおはよっ! 具合は大丈夫なの?」

「うんっ、もう大丈夫だよ!

 ジンがいてくれたからかな……えへへ」


 はにかみながら言い放つ七瀬に、俺は何故か恥ずかしくなった。別に犬なのだから、それくらい普通だろうに……何を意識しているんだ。

 しかし、その言葉を聞いた七瀬父は急に顔色が変わった。同時に立ち上がると、七瀬の目前まで迫り肩をがっちり掴む。


「なっ、何?」

「ジンとは誰だっ! 彼氏か、彼氏が出来たのかっ!?」


 七瀬父の言葉に俺は思わずずっこけそうになる。なんというか……家族みんなして似過ぎ。どうしてそう早とちり出来るんだ。

 俺が苦笑しながら事の行く末を見守っていると、七瀬は子供っぽく頬を膨らませて反論した。


「違うってば! ジンは足元にいるその子だよ!

 もう……私に彼氏が出来たらすぐに、報告、するって――」


 しかし、その幼い表情は一気に影を落とし今にも泣きそうな表情になる。そのときになって初めて、俺は七瀬の胸の内を悟った。

 つい先日彼氏を失ったばかりなのに、そんなにすぐ彼氏を作ろうという思考は、俺の知る七瀬ではあり得ない。俺でも分かるような事を父に勘違いされては、七瀬もさぞショックを受けただろう。

 只ならぬ雰囲気に反応した七瀬母は、ツカツカと二人の下に近づくと――。



 バシイッ!



 一瞬の早業で、己の夫に強烈なビンタを浴びせた。あまりの音量に俺は思わず震え上がってしまう。


「いっ!」

「バカじゃないの! 七瀬の気持ちも少しは分かってあげなさいよ!

 ……ほら七瀬、おいで。辛いこと思い出しちゃったね……」


 七瀬を抱き寄せると優しい表情で頭を撫でる七瀬母。慈母のような表情を浮かべてあやしていると、不意に鋭い視線が七瀬父に向けられる。

 一瞬の出来事に呆けていた七瀬父だったが、やっとのことで己のミスを理解したのかハッと口を押さえる。俺が言うのもアレだが、流石に今のは不謹慎だぞ。

 バツの悪そうな表情を浮かべた七瀬父は、すぐに引き締まった表情に戻り、大きな腕で七瀬母ごと七瀬を包み込んだ。


「その……すまなかった。パパにデリカシーが欠けていた所為で、七瀬を傷つけてしまったな」

「ううん、いいの。いつまでも引きずってる私もダメだから。

 ……てか、パパもママも苦しいってば~」


 割と本気で息苦しそうな七瀬の声に、夫婦は一緒のタイミングで七瀬を開放する。

 少し咳込んだ七瀬だったが、不安をかけさせまいと目尻に涙を浮かべながらも笑顔になった。


「わたしなら、大丈夫。本当にダメなときは自分から相談するから。

 って、パパは時間大丈夫?」

「そうか……っと、そろそろ行く時間だ。

 それじゃ、行ってくるよ」

「うん、行ってらっしゃい!」


 すぐにいつもの調子に戻った両者は、言葉を交わすと頬に軽くキスをする。我が家にそんな習慣が無いので見ていて少し気恥ずかしいが、同時に幸せな家庭なのだなとも思った。

 そしてすぐに愛妻の目前に迫った七瀬父は、目を見据えると今度は唇にキスをする。何とも微笑ましい光景だ。


(……今度あんなこと言ったら、小遣い減らすだけじゃ済まないからね?)

(うっ……以後気をつけます)


 ……前言撤回。七瀬母があまりにもかかあ殿下なおかげで、二人の間には妙に殺伐とした空気が流れている。

 七瀬には聞こえない声でやり取りしているものの、俺の耳には大きすぎるくらいだ。次回七瀬父が失態をしたときのことを想像すると、同じ男として身震いせざるを得ない。

 実際に身震いしていると、時計を見た七瀬もピクリと小さく跳ねる。


「あっ、私もこんなにのんびりしてる暇なかった。

 それじゃ行ってきまーす!」

「ちょっとナナちゃん、朝ごはんはー?」

「うーん……じゃあそれ貰っていくね!」


 そう言い、机の上に置いてあったトーストを咥える。そして肩掛け鞄を右手に持つと、空いている左手を振りながら一言。


「ひっへひふぁーふ!」


 辛うじて伝わるかどうか分からない言葉を叫びながら、慌しく玄関へと駆け出していった。

 少女漫画の主人公の様な格好の娘を追うように、七瀬父も玄関へと駆けていく。


「全く……二人とも可愛いんだから」


 さっきまでの怒りが嘘のように、優しさに満ちた目で夫と娘を眺める七瀬母。

 こうして川本家を見ていると、なんだかんだで幸せな家庭だと改めて実感させられる。


(……あ、俺挨拶してねぇ)


 結局孤立してしまった俺がこの家に馴染むのは、もう少し時間が掛かりそうだ。

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