9〜千の凪は子の刻に〜
夜、明日こそは学校に行くと張り切って七瀬が寝に入った頃。
時計は長針と短針が十二の位置で重なろうとしている。俺の予想が正しければ、もうそろそろ現れるはずだ。
俺はただじっと、上にある壁掛け時計の針の動きを見守り続ける。あと三分……こうして見ていると、以外にも三分は長く感じられた。
一時間の二十分の一、秒数に換算すればたったの百八十秒。時間は誰しも平等に与えられているはずなのだが。
哲学的な思考に陥ろうと頭を捻っている中でも、まだ時計の針は一目盛り分しか進んでいない。こんなに時間が遅いと感じたのは、きっと授業中にも無かっただろう。
俺を焦らすかのように微量の音を立てて進む針。それが脳内にリズムとして刻まれ、残りの百二十回を頭の中で数え続けた。
……百、あと二十秒だ。こうして意識を傾けていると、なんだか頭が痛くなる。
それは犬の脳で処理しているからなのか、単純に俺の集中力が足りないのか――。
かちっ。
(あ、見逃した)
どうやら後者のようだな。俺が気を逸らした隙に、時刻は十二時になり日付が変わった。
さて、今度はどうやって弄ってやろうか。女神は子供だし泣き虫だから加減は必要だけど、あのコロコロ変わる表情が面白いんだ。
あれが俺と同年代くらいの女子だったら、七瀬ほどではないにせよ魅力を感じていただろう。
「ふぅん……わらわに足らぬのは年だけか」
そうそう。だってその年齢と外見で恋に落ちたら、俺は完全にロリコンじゃないか。
だから、せめて高校生くらいの年齢に――って。
「きゃうっ!?」
突然聞こえた幼い声に、思わず意味を成さない犬の声を上げてしまう。
いきなり現れた上に心を読むなんて……卑怯だ。
「全く、来ると宣言していたのに驚きすぎだろう。
それに、恋をするのに年齢なんて関係ないんだぞ? わらわに惚れても――」
「くぅ~。(いや、遠慮しとく)」
あくまで冷静に返しつつ、筒抜けになっていた思考に対し油断するなと言い聞かせる。
女神は俺に対し隠し事を許さない。慎重な思考で話を進めないと……。
俺のドライな返しに対し、女神は声だけで分かるほど憤慨していた。てか、何処にいるんだよ?
「なっ……お前は乙女心を全然分かっとらーん!
そこは素直に惚れろぉ!」
(……んな理不尽な。とりあえず、姿を現したらどうなんだ?)
最早口を開くのも億劫になったので、思考だけで女神に話しかける。
すると、俺の頭上から急に薄く煌く光が発生する。この現象、木漏れ日のようだが……違うな。
確か『薄明光線』とかいう現象だ。薄い雲から差す光が放射状に降り注ぎ、地面を明るく照らす現象。
その神々しさから、『天使のはしご』とかいう俗称だった気がする。言い得てはいるけれど、演出が懲りすぎだろ。
妙なこだわりに呆れていると、その光から一人の少女が舞い降りてきた。
薄い布のような光から舞い落ちるは純白の羽、羽音と共に舞い降りるは清楚な天使。
一瞬目を奪われてしまった。ここまで神々しい登場をされると、相手があの女神とはいえ恭しくせざるを得ない。
突っ込みたいところは結構あるが、今のうちは女神の好きにさせておこう。
「……わらわ、彼の地に舞い降りたり。大いなる敬意を以って崇めたまえ」
言葉遣いが気取りすぎている感じもするが、素の姿が女神というだけあってあまり違和感がない。
仕方なしに、俺はその場で大袈裟に伏せをする。その様子を見た女神――というか天使はご満悦の様子だ。
「うむ、くるしゅうない。下々の者よ、顔を上げるがよい」
(……なぁ、さっきのは悪かった。だからそろそろ止めないか?)
すっくと立ち上がりつつ、俺はジト目で上空の天使を見上げる。
彼女はまだ不満そうだったが、渋々と俺の目前まで下降してきた。そして、盛大に俺の顔を睨み付けてくる。
「謝って許されたら警察など要らんのだー! お前はわらわの乙女心に土足で踏み入って……えぅ」
(そんなこと言ったら全世界の男が捕まるわ。あと、嘘泣きは止めなさい)
「何をーっ! わらわは天使だぞっ! 命令するなぁー!」
急に支離滅裂なことを言い出す天使に、俺はもう溜息しか出なかった。まだお前より年下の子の方がしっかりしてるぞ?
対する天使は、プンスカという効果音がぴったり当てはまるほどジタバタと暴れていた。
体が存在するかどうかは未だに謎だが、せめて音は立てないでほしいものだ。七瀬が起きてしまう。
「ほぅ……わらわが傷心している間にも、お前は恋人の心配か。冷たいなぁ、酷いなぁ……」
すっかり心の内が読まれていた俺は、もう色々と諦めて女神を見上げる。ぷいっとそっぽを向く天使は普通に可愛い。
……確かに今回の件は俺にも非がありそうなので、素直に謝ることにしよう。
(その……悪かった。別に俺はお前のこと嫌いじゃないし、寧ろ好きな部類だ。
だからさ、そう拗ねるなよ。な?)
「……仕方ないなぁ。そんなにわらわの事が好きならば許してやろう!」
(ははぁ、有難き幸せこの上なし)
なんともアホなやり取りを交わしつつ、俺は気を取り直して天使の顔を伺う。
満更でもなさそうな表情はいつも以上に幼く、やはり可愛げがある。俺も天使に毒されたか。
(……して、今日は何で天使なんだ?
わざわざ『女神』から降格して『天使』になるなんて、今の役職が不満だったのか?)
ずっと言いたかったことで口火を切り、やっとのことで正常な話の流れになる。
空気が変わったことを察したのか、流石の天使も崩れていた相好を引き締め、真剣な目に戻る。
その表情は何処か憂いを帯びていて……あまり良い予感はしなかった。
「そうだな、もう少し楽しみたかったところだが……報告がある。
わらわがこの格好で来たのも、オラクル――『神託』といった意味合いがあるかもしれないな。
とはいえ、わらわがもたらすのはエヴァンゲリオン――『福音』ではない。それだけは伝えておく……って、天使って女神より下なのかっ!?」
(長い説明ありがとう! けど気づくの遅い!)
結局天使のすっとぼけ具合で笑いの方向に走ってしまうが、心の内では一抹の不安もあった。
天使がもたらすのは福音ではない……ならば、対義語となる凶報ってところか。
未だに疑問符を浮かべている天使だったが、やっと合点が入ったのか驚愕の表情を浮かべる。
そして、指を鳴らすと一瞬の早業でいつもの服装――女神の白道着緋袴に戻った。
少しバツの悪そうな表情の女神には会えて声をかけず、彼女自身が口を開くのを待ち続ける。
「……わらわとしたことが、バカ丸出しだな。あはは……」
(そう落ち込むなって。天使姿も似合ってたぞ?)
これに関しては嘘偽りの無い本心。天真爛漫とか、純真無垢とか、そんなことばがぴったりだった。
何気ない言葉のつもりだったが、女神は急に顔を赤らめるとジタバタ悶える。
「そ、そんなに似合っておったか? わりゃわは……あぁっ! それが乙女心に土足で踏み入ることだと――」
(はいはい、分かったから落ち着けって。
あんまり脱線されると、俺が眠気に負けるかもしれん)
なだめようと言ったものの、よく考えればそれは事実。あれだけのやり取りで、既に長針は四の位置を指している。
たかだか二十分と言えど、深夜の二十分は意外と大きいものだ。睡魔に意識を奪われるには十分すぎる。
そんな俺の思考が伝わったのか、女神は咳払いをするともう一度真剣な顔になる。
「エヘン……それもそうだな。
では簡潔に伝えるが、先に謝っておく。この件に関しては、わらわの失敗に起因するものだ。責めてくれても構わぬ」
(失敗? 責める? ……何のことだか分からないが、とりあえず説明してくれ)
どうやら本当にいいことではなさそうだが、ここは落ち着いて話を聞くとしよう。
固唾を呑んで見守る中、女神は躊躇いがちに目を逸らしながら口を開く。
「では、少し時間を戻そう。
わらわは一昨日の夜、お前をこの世界に転生させたわけなのだが……状況を覚えておるか?」
(状況……?)
突然の質問に、俺は頑張って記憶を遡らせる。
目が覚めたら犬になっていて、直後に女神が降りてきて、事情を説明されて――。
(……アレだ、犬の体に魂を上書きした)
そう、そんなことを女神に言われた気がする。
彼女自身も想定外だと言っていたし、そのことに関してはスルーしていたのだが……。
「そうだ。では、そのことを踏まえてお前に問おう。
上書きされた魂――すなわちチワワ自身の魂は、何処にあると思う?」
(それは……っ!)
女神の苦悶に満ちた表情に、俺は思わず息を呑んだ。
パソコンのデータにしても然り、上書きされたものは削除される。もちろん、機械での話ならサルベージくらいは出来るだろうが。
しかし、魂ならどうだろうか。一つの体に二つの魂が同居することは出来ないだろう。いくら知識に疎い俺でも、それくらいは容易に想像出来る。
そして上書きされた魂の行く末は――。
「……幸い、さほど悪しきカルマを有していなかったから地獄行きは免れた。
しかし、不条理な魂の死を受け入れてくれるほど、チワワというのも甘くは無いのだ」
(…………)
その先の話は、聞かずとも大方予想が出来た。
俺自身にその話を置き換えてみても、不満どころか怒りさえ覚えるのが目に見えている。
さらにその原因が女神の手違いだと知れば、その事実を知った彼女より地位の高い神はどう思うだろうか。
勿論、神の威厳を守るために事を揉み消そうとするだろう。だとすれば、一番温和に解決できる方法はただ一つ。
「うむ、お前の考えた通りだ。
そのチワワの魂は、元の体に戻りたがっている。具体的には……お前にはその身を離れてもらわねばならないのだ」
(……だろうな)
予想がドンピシャ過ぎて、寧ろ笑えてくる。
せっかく手に入れた新たな生、新たな家庭、居場所。それらがものの数日で消えようとしているのだ。
あまりに唐突なので、悲しみや悔しさも覚えない。ただ、力なく笑えて体が震える。
「とはいえ、いきなりではお前も心の整理がつかないだろう。
それを考慮して、上のお方はお前に一週間の猶予を与えたのだ。今から六日後の夕方――七月七日のお前が死んだ時間に、魂は入れ替わる」
(そうか……一週間もあれば十分だ。文句は無い)
実際のところ、この命を全うして七瀬を見守りたいところではある。
けれど、これは本来俺の体ではなく借り物の体。勝手に命を燃やし尽くしては、元の魂に合わせる顔が無い。
そもそも、俺がこうして生まれ変わった理由は七瀬に想いを伝えたかったから。
一週間の猶予……上等だ。それだけあれば、きっと七瀬に俺の想いを伝えられるはずだ。
俺のあっさりした返答に、女神は目を丸くして驚いていた。
「……本当に、構わないのか?」
(あぁ。それに死んだところで、俺は天界で芸能界デビュー出来るんだろ?
将来の道が決まってるのに、不安なんて微塵も感じないさ)
少しでも女神を元気付けようと、俺はいつになくおどけた口調で嘯く。
女神は虚を突かれたような表情をし、その目は次第に潤いを増していった。
「……ほんとうに、ごめん。ぐずっ、えぐっ」
(あーあー、ほら泣くなって)
遂に涙腺が決壊した女神を、俺は身を寄せることでなだめてやる。
光に包まれた女神の体は意外と柔らかく、体の縮尺だけ気にしなければ普通に少女だった。
そんな俺に気がついたのか、小さな手で俺の首を抱きしめる。なんだ……神様だって暖かい涙を流せるんじゃないか。
ひとしきり泣き続けた女神は、泣き腫らした目で間近にある俺の目を見つめてくる。
「……取り乱して、すまなかった。
わらわは今回の一件で査問にかけられるから、どうなるかはまだ分からぬ。
けれど……大好きなお前と一緒なら何処でも構わない。女神だって喜んで辞めてやろう」
(お前……)
その言葉を聞いていると、なんだか胸の奥から熱く込み上げてくる。
こうして死んでしまった今でも、一緒にいてくれると言ってくれる人がいる。それだけで、どれほど安心できるだろうか。
そこまで考えてしまい、ハッとしたときには既に遅し。女神は盛大に顔を赤らめていた。
(……まぁ、本心がバレてるんだ。言葉にするのも野暮ってモンだろ?)
「全く……お前方こそ、お前という存在がどれほどわらわの支えになっているか分かっておらんだろう。
――おっと、そろそろ時間だ。帰ってまた説教を喰らわねばならぬな……うぅ」
そう言いつつ、嫌なことを思い出したかのように唇を噛み締める女神。
やっぱり責任を感じているんだろうな。まだ十三歳だというのに……神様の仕事も酷なものだ。
最後に儚げな笑顔を見せた女神が去ろうとするが、俺の頭には一つの疑問が残っていた。
もし女神が女神を辞めてしまった場合、俺は彼女をなんと呼称すればいいのだろう?
まだ最後ではないものの、どうしても気になった俺は意を決して尋ねてみた。
(なぁ、待ってくれ。
……お前の本名って、何なんだ?)
すると彼女はキョトンとした顔になり、苦笑しながらこちらを振り向く。
「全く……変なことに興味を持つ男だな、仁は。
わらわの名は――」
口を開き始めたと同時に、彼女の体が光に包まれる。
そして、光が粒子となって掻き消えると共に、その声は聞こえた。
――千凪。悠久なる静寂だ。