巨人ファンの彼女と阪神ファンの僕
彼女の瞳は、雨に反射する木の葉の溜まり水のように輝いていた。
そして、ライブハウスで音楽にノッている時のように、
長い髪をゆらゆらさせ、そして、KOで勝った時のボクサーのように、
拳を高く空にかざし、歓声をあげた。
「ラミレス、いけーーーーー!!!!!」
そう、僕の彼女は、熱狂的な巨人ファンなのです。
「巨人ファンの彼女と阪神ファンの僕」
青柳 香月
− プロローグ −
僕と彼女が出会ったのは、とある小学校の職員室だった。
僕は、小学校の先生で、三年生の担任である。
彼女は、文房具店の営業の女の子で、図工の教材や、教師が使うホワイトボード、
コピー用紙、文房具の類などの、注文を聞いて学校に持って来てくれていた。
僕の名前は、田中圭吾。25歳。
大学を出てまもない、まだまだ新米教師である。
彼女の名前は、川村ユリ。31歳。
ビー玉のように丸い黒目がちな瞳の奥底はミステリアスで、
少女のような漆黒の長い髪は、
一度も染めたことなどないように艶やかだった。
すらっとした長身に、小枝のような細い足。
今流行の韓国ビューティーといった感じだ。
彼女を一目見て、僕は一瞬で恋に落ちた。
大学にはいなかった落ち着いた大人の色気。
そして、学校という一種の閉鎖された箱の中に入り込む、
外からの魅力的な訪問者。
彼女のスーツ姿は、ブラウスのボタンを上ふたつ外し、
首元に小さなダイヤモンドが光り、
ヒップラインを強調したタイトスカートは、
男性なら誰もが釘付けになるだろう。
いわゆる”狙ってる格好”と、女性なら思うかもしれない。
だから、当然、職員室にいる女性の教師仲間にもいないタイプで、
存在自体が華やかで、ちょっと浮いていた。
もちろん、彼女を狙っていたのは僕だけじゃない。
男性教師は、皆、彼女が訪れるのを嬉しそうに待っていた。
しかし、皆、既婚者ばかりだったので、僕が駄目もとで、
勇気をふりしぼって食事に誘ったところOKをもらい、
それからトントン拍子に話は進んで、僕達は・・・恋人同士になった。
− ロミオとジュリエット IN 京都 −
この物語の舞台がどこなのかをまだ話していなかった。
僕の彼女、ユリが巨人ファンで、僕が阪神ファンというと、
一体ここはどこなんだ?と思われるかもしれないが、
ここは、京都である。
僕は、京都の大学を出たが、生まれも育ちも大阪で、800年続く寺の息子である。
両親共に高校教師で、祖父は大学教授をしながら住職をしている。
特に何になりたいという夢のなかった僕は、就職難の為、
親の勧めのままとりあえず教員免許をとったが、
どうしても親の職業を継ぐことだけは嫌だったので、
20社以上の企業を受けたのだが、ひとつも内定がもらえなかった。
そして、半分仕方のない気持ちで、教師となった訳だが、
実際現場に出てみると、僕のように親が教師だったという人が多い。
もちろん、すごく子供が好きで、高い志を持ってなった者もいるが、
僕のように、はたから見ると典型的な流れで教師になった者もいる。
そんな生半可な気持ちで、教師になったのかと怒られそうだが、
今は子供達に愛着があるし、この子達を良い方向へ導きたい、
勉強は勿論、社会の常識や団体行動の中の役割、人を敬う優しい心、
弱い者や困っている人を助ける親切心、親や目上の人に対する態度、
教えることは山ほどある。
その為には何をすればいいのか、日々精進しているつもりである。
お陰で、ユリにも会えたし、今は毎日が夢のように、甘く、楽しく・・・そして少し切ない。
彼女は、東京出身で、転勤で京都に来た。
まだ1年目なので、僕達はデートに京都の名所、寺社仏閣などを観光するのが定番になっていた。
僕自身も、まだ京都タワーにのぼったことがなかったので、新鮮な気持ちだった。
僕は実家の寺から、京都の学校まで車で通勤していたので、
土日も彼女に会うために京都を訪れた。
教師というのは、安定している職業だと思われがちだが、
なかなかハードな仕事で、家に帰ってからも、テストの作成、採点、
運動会や文化祭の出し物の準備、職員会議に提出する書類作り・・・等々
沢山の仕事を抱えているのである。
それでも僕は、ほとんど毎晩、大阪へ帰る前に彼女の顔を見て帰ることにしていた。
だいたい場所は、吉田屋珈琲店か、ロイズガーデンなどの喫茶店で、
もう遅いから五分だけ、十分だけ、と思いながら、
彼女との話は尽きなくて、ずっと一緒にいたい気持ちがとまらず、
結局何時間もそこで過ごしていた。
そんな日々が2ヶ月ほど過ぎたある日。
ユリが「宮崎に旅行に行こうよ」と、言い出した。
僕は、(えっ、いきなりお泊りかあ)と、内心ドキッとしたが、顔はにんまりしていた。
「うん、行く行く。でもなんで宮崎?」
「キャンプ」
ユリは紅茶に浮かぶレモンを、スプーンで潰しながら、
当然でしょ、という感じで即答した。
「なんの・・・キャンプ?」
僕は薄々気づいていたが、一応確認してみた。
「巨人のキャンプに決まってるじゃない!」
彼女はにこにこして、椅子に背もたれながら、僕から少し視線をそらした。
「僕・・・一応阪神ファンなんやけど」
僕がちょっと口をとがらせて言うと、
ユリは耳をふさいで、わあわあ言いながら聞こえないふりをした。
「ユリちゃんはほんまに好きなんやなあ・・・巨人が」
僕は呆れ顔で言いながら、(僕とどっちが好き?)という女の子のような質問を、
ぐっと胸の中にしまった。
最初は、彼女が巨人ファンであることは、そんなに問題ではないと思っていた。
それに、東京出身だからなんとなく好き、でも選手の名前はあんまり知らな〜い、
というレベルだろうな、と軽く考えていた。
僕の阪神ファンのレベルだって、夜のスポーツニュースで結果を見るくらいで、
それほどで熱烈はない。
付き合いだした頃は、ちょうどプロ野球はオフシーズンだったので、
ユリは大人しくしていたが、ついにきたか、という感じだ。
「ユリちゃんと行けるならどこでもええけど・・・」
僕は本当に場所はどこでもよかった、ユリと遠出できるなら。
それほど僕は、彼女のことが好きで好きでしょうがなかったのだ。
「ほんと?嬉しい」
彼女は身を乗り出して、僕にきらきらした笑顔を見せた。
確かに僕は幼い頃から、タイガースの縦縞模様の帽子を被り、
リトルリーグに入って、阪神で4番を打つことが夢だった。
僕だけじゃなく、当時の大阪の子供達は、皆同じ夢を持っていた。
食事時にはいつもテレビで阪神戦を見ており、生活の一部になっていた。
特に大人になってからは、ビールを飲みながら野次をとばすのが、
僕の趣味と言ってよかった。
・・・ユリが現れるまでは。
だが今の僕は、今年の阪神がどうなろうと、さほど興味はない。
優勝すれば嬉しいけどまあ無理だろうな、という控えめな気持ちだ。
問題は、僕の両親や親戚が、異常なほどガチガチの阪神ファンということだ。
大きな虎が描かれた黄色と黒のハッピを、夫婦ペアで、
”いっちょうら”のようにして羽織り、手首にはアニキ金本のピンクのリストバンドをして
そのまま平気で阪神電車に乗って甲子園へ行き、
メガホンを使って大声で応援するほどだ。
勝った日は、帰ってくるなり、7回裏で行われる風船飛ばしの細長い風船を、
玄関でぷわーっと膨らまし、僕に向って飛ばし、きゃっきゃっはしゃいでいる。
部屋には真弓監督のポスターや、鳥谷、荒井、赤星のユニフォームのレプリカが飾ってあり、
玄関には掛布のサインボール、
母のベッド脇は巨大なトラッキーのぬいぐるみが置いてある。
(ユリが見たらショックで発狂しそうだ)
寺の坊さんであり、現役の教師である二人が、阪神狂いの僕の親だ。
僕は日々、ユリのことを真剣に想うにつれ、
この問題がだんだん気がかりになっていった。
− キスと約束 −
結局、僕とユリとの仕事の都合が合わずに、
宮崎キャンプに行く話は流れてしまった。
春になり、とうとうプロ野球のオープン戦が始まり、ユリもそわそわし始めたようだ。
僕と会っている時も、メールで先発メンバーのチェックをしている。
彼女と試合を見に行ったらどうなるだろう。
僕の妄想では、
「負けたほうがおごりね!」とか、
「あーあ、負けちゃった・・・」とか言いながら甘えてくるユリの姿。
今は彼女が何をするのも可愛くて仕方がないのである。
ユリは、ジャビット君のストラップのついた携帯電話を握り締めたまま、
いつもの喫茶店を出て、僕の車が停めてある駐車場まで並んで歩いてた。
「先生、じゃなくて圭ちゃん」
そう、彼女は最初、僕のことを「先生」と呼ぶ癖がいまだに抜けなかった。
「け・い・ちゃん」
弾むように僕の名前を呼びなおし、さっと腕を組んだ。
二人で駐車場のエレベーターに乗った途端、彼女は僕の頬にキスをした。
地下二階までは驚くほど早く着いてしまう。僕はこの時痛感した。
けれど、僕はユリの肩を抱き寄せると、何度も何度も唇へのキスを重ね、
熱い思いは止められなかった。
地下二階に着いて、ドアが開いてもまた閉めて、
僕はエレベーターの壁に彼女を押し付け、荒々しいキスを続けた。
ここだけがまるで南国のように蒸し暑く、
僕らの口はみずみずしい果物みたいに潤っていた。
「ユリちゃん・・・こんなに毎日会ってても僕物足りへんわ」
僕は彼女の耳元でそう囁くと、
なんだか胸がいっぱいになって、涙がでそうになった。
「でも圭ちゃん、もう11時よ。先生は帰ってからも忙しいんでしょ。
無理しないで。体壊しちゃ、会えなくなっちゃう」
「僕、京都に住もうかなあ」
僕はエレベーターの天井を見上げた。艶やかなアイボリーの壁にぼんやり僕らの姿が映っている。
「私の部屋に来る?」
僕は「えっ」と驚き、彼女が本気で言ったのか顔を見て確認した。
「うん・・・」
僕は素直にうなずき、でも思いがず、か弱い声で返事をした。
「とりあえず金曜の夜ね」
「うん、うん・・・」
彼女が僕をなだめるように抱きしめ、優しく頭をなでた。
そして僕は車に乗り込み、窓を開けてもう一度キスをした。
「金曜って明日やんな?」
僕は喜びを隠し切れない。
「うん。楽しみに待ってるね」
「僕も。明日一日早く過ぎますように」
ユリはふふっと笑うと、
「明日は職員室にお届けものがありますよ」と言った。
「ほんま?久しぶりやなあ。なんか付き合いだしてから、
来るのが減ったような気がして・・・僕の意識しすぎなんかなあ」
「そんなことないわよ。でもまとめて沢山注文されるようになったかな」
「分割に注文するように、事務員さんに頼んどくわ。チョーク一本とか」
バイバイ、ユリは笑顔で手を振った。
彼女の言うとおり、僕はユリと一緒に居たいばっかりに、
毎晩、徹夜で持ち帰った仕事をしていた為、寝不足が続いていた。
明日は、僕の受け持っているクラスの問題児、K君の母親との面談がある。
K君は学習障害があり、授業中、急に抜け出して運動場を走り回る傾向がある。
そのことについての対策や、授業の遅れをどう取り戻すかが話し合いの焦点だ。
特別支援学級に編入するか、授業を抜け出さないようにするにはどうすればいいか、
スクールサポーターを教育委員会から派遣してもらうのか・・・
僕は指を唇に当て、ユリとのキスの余韻を確かめながらも、
家に着くまでに、心の本棚の隙間に落ちた、小石のように硬くなったこの問題を取り出して、
まとめあげなくてはならなかった。
− 女神からのメモ −
「息子を普通学級のまま卒業させてやりたいんです」
K君の母親は、僕と教頭先生と指導担当の先生が待つ教室へ入るなり、
声を震わせてこう切り出した。
彼女なりに、ここにくるまでに、なんて話そうか色々考えてきたに違いない。
そして、小学校の対応に不満を爆発させそうな勢いだ。
向に座っている僕は、この面談を仕切るようになっていた。
「お母さん、僕もそのようには思っているんですが・・・」
本当に思ってはいるんだが、隣に座っている教頭と指導担当からは、
「もうこれ以上授業が遅れるのは許されない、
K君がどこかへ行く度、田中先生が教壇を離れてしまうのだから。
相手がどう言おうと、心を鬼にしてこちらの意見を通しなさい」
と、強く言われていた。
僕らの打ち合わせを見透かすように、K君の母親は声を荒げた。
「Kが迷惑をかけているのは重々承知しています。
この間は、Kが道路に飛び出して、車にぶつかりそうになったところを
田中先生に助けていただきました。感謝しています。
でも、その後、田中先生の腕に負われた傷を見て、おいおい泣きながら反省しておりました。
Kには、悪いことをしてる意識があるんです。特別支援学級の子達は、自分に障害があること、
分かってないんですよね?」
K君の母親の言うとおりだ。
Kは、自分が授業中ウロウロすることが駄目な事だとよく分かっている。
母親に毎日きつく注意されているので、口癖のように、
「歩かない、歩かない」とブツブツ言っている。
それでも椅子から立ち上がろうとする自分を必死で止めようと、
自分の足を両手で掴んで、血が出るまで爪をたてて我慢しているのだが、
それでも立って歩いてしまうのである。
それに彼は聴力が飛び抜けて優れていて、隣の席の子が鉛筆を落としただけでも、
びっくりして、気になって落ち着かない。
もちろん、校内放送や登下校の音楽も、耳障りで仕方がないのである。
「お母さん、K君はとてもよくがんばってます。
動き回るのも、以前に比べて減ってきました。
しかし、それによって、K君がストレスを感じて、
自分を傷つけてまで我慢している姿を見ていると、
僕はK君に合った場所があるんではないかと思うんです。
僕が勉強不足なせいで、もっと的確な対応があるのかもしれませんが、
特別支援学級だと、生徒一人に対して一人のサポーターがつきますし、
どこかへ行ったとしてもいつも一緒なんです。
その子がやる気がでるまで、待つことも大事なのではと・・・」
僕は、昨日必死で考えた言葉を丁寧に話した。
K君の母親は、眉間にしわを刻み、考え深い表情で僕の話を聞いていた。
「先生は、Kには普通学級は無理だと思われますか?」
彼女は、痛切に僕に訴えかけた。
「・・・今の状況では・・・難しいと思います」
僕は良心が痛んだ。
僕の正義の部分を打ち負かされたような気がした。
母親なら誰でも我が子は何よりも大事で、彼の将来を一番に考えている。
けれど、学校は全生徒のバランスを見て、平和的に調整していかなければならない。
K君とクラスメイトの母親は、
「K君のせいでうちの子の勉強が遅れる」と心配しているのも事実だ。
K君の母親は、毎日の苦労を思い出したように、悔し泣きをしていた。
「Kが普通学級にいるのは、こういう障害がある子がいるんだということを
皆に知ってほしいし、同じクラスの子が大人になってからも、Kみたいな子がいたら、
助けてあげられるような子になってくれたらと思うんです。
それがKがこの世に生きている意味なんじゃないかと・・・」
「そうですね、クラスの子供達も皆K君に協力的です。
皆が優しい子になってくれたのも、K君のおかげだと感謝しています」
僕は同調しながら柔らかに言った。
結局、教頭や指導担当の説得もあり、K君の母親は、
「Kにとっていい環境なら・・・」
と、特別支援学級に移ることに納得してくれた。
3対1で対決し、女性が一人泣いている。
「僕が至らないばかりに、お母さんの希望通りにできなくて、
本当にすみません」
僕は、頭をさげて謝罪したが、教頭と指導担当は、そんな余計なことを言わなくても、
こちらの落ち度じゃないんだから、というように、顔をしかめていた。
僕は、K君の笑顔や、僕を本気で心配してくれた顔を思い出し、
彼を見捨ててしまったような気持ちになって心苦しかった。
下を向いたまま、暗い表情で職員室に戻ると、窓越しに駐車場から発進しようとする、
白い軽バンに目がとまった。
ユリだ。
会社の営業車に乗っていた。
ユリは僕を見つけると、手を振る訳にもいかず、肩をすくめて恥ずかしそうに微笑んだ。
そして、素知らぬ感じで車を校門に向って走らせた。
僕は自分の机を見た。
家庭科の授業で使う、エプロンの裁縫セットが生徒の人数分置いてあった。
彼女が届けてくれたのである。
その裁縫セットの一番下にポストイットが貼ってあり、
”早く夜が来ますように”と書かれていた。
「僕が見つんけんかったらどうするんや・・・」
僕は暗闇に迷い込んでいたところを、いっぺんにこの女神に救われた。
− 恋人の自宅訪問 −
僕は西陣にあるユリのマンションのドアの前に立っていた。
京都の小学校に赴任が決まってから、ずっと憧れていた、
僕なんて絶対相手にされないだろうと思っていた、
彼女の部屋にあがろうとしている。
「なんか恥ずかしいな」
と言いながら、ユリは照れくさそうに、カバンに手をつっこみ、
ごそごそしながら鍵をやっと取り出した。
「僕も・・・なんか緊張してる」
「そう?はい、どうぞ。散らかってますけど」
ユリは僕を先に部屋へあげてくれた。
「わっ」
僕は想定外の部屋に思わず驚きの声をあげた。
見渡す限り、巨人巨人巨人、巨人一色なのだ。
まさかとは思ったが、これは僕の両親といい勝負である。
去年の巨人が優勝したときの原監督の胴上げポスター、
今は日本ハムに移籍した二岡のユニフォームのレプリカ、
ジャビット君のぬいぐるみ、メガホン、マグカップ・・・
目に付くのはそれくらいだっただろうか。
「理解不能や・・・」
「いいでしょう」
ユリは得意気にポスターを見上げた。
「去年、この瞬間最高だったあ」
「いくら巨人ファンでも、なかなかこのポスターまでは貼ってへんよ」
「あれ?国民のほとんどが貼ってると思うけど」
ユリはいたずらに笑うと、僕の鞄を手に取って部屋の隅に置き、
トレンチコートをハンガーにかけてくれた。
その一連の流れが、なんだか手際がいいように思えて、
ふと元彼の存在をちらつかせた。
でも、そんなことを考えてはキリがないし、嫉妬しても仕方がないのだと、
僕は自分に言い聞かせた。
彼女は「そこに座ってて」と、オレンジのソファーへ僕を促し、
リモコンでテレビの電源を入れた。
そして、キッチンに立つと、ティファールのポットでお湯を沸かし、
コーヒー(僕用)と紅茶(彼女用)を作ろうと準備してくれた。
僕は彼女の後姿をじっと見つめていたが、
すっと立ち上がって静かに近づき、
背後からぎゅっと抱きしめた。
「夜まで長かった」
僕は小さく、ちょっと情けない声で言った。
「私はあっと言う間だったよ」
ユリは僕の腕をさすって、嬉しそうに僕に身をゆだねていた。
「僕のコーヒー?」
「うん」
「ありがとう」
「運んでくれる?」
「うん」
それでも僕はユリを離さないで、彼女の首筋に顔を沈めた。
「ユリちゃん、好きだよ」
僕は今日の面談での複雑な思いと、
ユリを愛している思いとが重なり、
(あと巨人のことも)心がぐちゃぐちゃになっていた。
「私も好きだよ」
彼女は、コーヒーと紅茶が冷めることは分かっていたのに、
僕とキッチンでずっとじゃれあってくれた。
それから、ユリの作ったカレーを食べて、二人で皿洗いをした後、お風呂を勧めてくれた。
彼女が渡してくれたバスタオルは、予想通り(ここまでやるかと思うが)
ジャビット君のデザインで、フェイスタオルは坂本の名前と以前の背番号が入ったものだった。
「明らかに狙ってるでしょ?」
僕がタオルを受け取りながら言うと、
「怒った?」
と、笑いながら僕にちゅっとキスをした。
そして、ソファーに座るなり、テレビのチャンネルを変えた。
僕は、浴室に行こうとしたが、ちょっと戻って、彼女の様子を見てみた。
ユリはテレビをCSのジャイアンツチャンネルに変えて、
民放では放送されないオープン戦を見ようとしていたのだ。
「一応気を使ってくれてた訳ですね・・・」
僕は思わず敬語になって、すごすごと浴室に向った。
シャワーを浴びながら、ついに彼女とベットインする日が来たんだという興奮が納まらずにいた。
「よしっ」
お湯をはじきながら、僕はガッツポーズをした。
もう学校のことや巨人のことは頭からすっかり消えて、ユリとのいやらしい想像ばかりが駆け巡った。
「つくづく男って単純やな・・・」
僕は、お風呂の天井のタイルに映る、舞い上がった自分の姿を冷静に見た。
「浮かれすぎ浮かれすぎ」
僕は自分に言い聞かせ、雑念を振り払うように顔を洗い、お風呂からあがった。
「お先でした。ありがとう、ユリちゃんも次はい・・・る?」
ユリはテレビ画面を凝視し、口をとがらせてむっとしていた。
巨人が負けていたのである。
「ユリちゃん・・・?」
僕は彼女のそんな表情をあまり見たことがなかったので、
恐る恐る近づいていった。
「もう内海が全然駄目なの」
ユリは駄々をこねる子供のように僕に訴えかけた。
僕は幼少からのくせで、巨人が負けていると知ると、
ついつい喜んでしまう。
僕の緩んだ口元を、ユリが見逃すはずもなく、
「あ〜、今喜んだでしょ」
と、指を差して睨みつけた。
「ないない、喜んでないって。まだオープン戦やん。
巨人ファンは厳しいなあ。そんなんやったら阪神ファンなんか、やっとれえへんで」
「阪神ファンにはなりませーん」
ユリはまた、例のいたずらな微笑を浮かべ、
立っている僕に向って両手を広げ、抱擁を求めるポーズをした。
僕は彼女の求めるまま、ゆっくりとソファーに座り、
ふんわり優しく彼女を包み込んだ。
「私の機嫌は簡単に治っちゃう」
ユリはまだ湯気をまとった暖かい僕の体に、気持ちよさそうに擦り寄った。
「僕も。今日あった嫌なことなんかすぐに忘れたわ」
ユリは僕からぱっと離れると、僕の顔をまじまじと見て、
「今日、職員室で見かけたとき、なんか哀しい顔をしてたね」
と、心配そうに言った。
「ううん。たいしたことじゃないんやけど。ちょっとね。
でももう解決したとこやったんや」
「そっか。先生は色々大変ね」
僕は彼女の肩越しに、額に入った若き日の原監督の写真があるのを見つけた。
「辰則が見てるよ」
「あっ、浮気してるの見つかっちゃった」
「僕?僕が浮気相手なん?」
僕が半分本気で聞くと、ユリは笑って、「そんな訳ないでしょ」と、
僕の胸板をとんと叩いた。
「しかし、この部屋はなんというか・・・
ユリちゃんみたいな可愛い子には似合ないと思うんですけどね」
ふと気づくとユリはまたテレビに集中していて、
出てくる選手の名前を呼びながら、熱心に応援していた。
僕は今日の疲れがどっと出たのか、彼女の膝枕でぐっすり眠ってしまった。
こうして、初めての彼女の部屋の訪問は、何もなく終った。
− 僕んちの法事 −
僕がユリの部屋に泊まった翌日は、昨年亡くなった祖母の法事を自分の家の寺で行う予定だった。
だから朝、彼女が手際よく作ったハムエッグとバターを塗った食パンとレトルトのコーンスープを
ご馳走になり、なんだか妙によそよそしい感じで帰宅することとなった。
彼女も何故か不機嫌で、僕が昨夜先に熟睡してしまったことに怒ってるのか不安になった。
帰り際、玄関で、
「なんか怒ってる?」
と聞くと、
「昨日、ボロ負けだったの」
と、わざとべそをかいた顔をした。
「・・・えっ、なにが?」
「決まってるじゃない、巨人よ。あっ、いやらしい、分かってて聞いたの?」
僕は、彼女の真剣な顔を見て、これは本気なんだとやっと悟った。
巨人が負けると機嫌が悪くなる嫁なんて、本当に先行き思いやられる。
そう、僕は彼女と結婚も考えていた。
彼女は30歳を過ぎているし、ちょっと年上だけど、
僕みたいな引っ張っていってほしいタイプの男にはぴったりだ。
だが・・・これがそんなに問題になるとは・・・予想以上だった。
僕の家の法事に集まった親戚達を見ていても言える事だった。
一通り儀式を終え、料理のお膳が寺の広間に運ばれた。
僕の親類は、皆だいたい近くに住んでいるので、関西圏で皆阪神ファンだ。
だから、当然共通の話題が阪神のことになる。
「今年はどないや」
「真弓でいけるんか」
「今年入ったブラ・・・ブラジャーみたいな名前の奴ええらしいで」
阪神ファンの特徴は、20数年前の優勝を、昨日のように物語ることである。
昔は6月になると、毎年のように最下位で、優勝の可能性がなくなっていた。
けれど、2005年に優勝してから、今まで以上に、田中家は阪神の勝敗に一喜一憂し、
まるで首脳陣にでもなったかのように、阪神の今後の課題を話し合っている。
時には選手をけなしたり、冗談を言ったりして盛り上がり、
阪神を中心に娯楽の世界が回っている感じだ。
しかし、こんな中に、ユリは入っていけるだろうか。
母親を始め、親戚の叔母様連中まで、皆同じように阪神ファンだからだ。
「こんなん(野球)に熱入れてアホちゃうか」
と言うような、冷静な女性が一人でもいればいいのだが、ここにはいない。
これが普通の家庭だと思っていたが、酒を飲み交わし、料理をつつきながら、
法事で話す話題が、他のなんでもない、阪神の事。
亡くなった祖母も、死ぬ間際まで「今日は阪神勝ったか?」と寝床で聞いていたという話を、
ちょっと面白おかしく話すのだ。
僕は、これは結構変な家族なんじゃないかと、疑問に思い始めていた。
ユリとは両極端であり、でも、野球を愛する力は全く同じ領域にある。
巨人が勝つとユリが喜び、巨人が負けると田中家が喜ぶ。
僕は今、一分一秒だってユリに会いたい、ユリに会って抱き合ってキスしたいのだ。
彼女をどうにか、この場に慣れさせたいとは思うが一体どうすればいいのか。
「どないしたんや、圭ちゃん。難しい顔して」
僕の隣に座っていた叔父が顔を覗きこんだ。
「この子、昨日外泊してん」
少し離れた席から、母が恥ずかし気もなく言いふらした。
「ほんまやっと彼女ができたみたいで・・・」
奥手な僕に春が来たと、なんだか嬉しそうでもあった。
「そうか、また今度連れておいで」
叔父もテンションがあがり、酒に酔った赤い顔で、僕のコップにビールを注いでくれた。
(皆ええ人なんやけどな・・・)
早くユリを家族に紹介したい、僕の彼女を皆に見せびらかしたい気持ちだった。
− 神戸の恋人達 −
僕はユリと付き合う前、彼女いない歴3年だった。
いつの間にそんなに月日が流れていたのか、生徒達はどんどん成長しているのに、
自分だけがぬかるみにはまっている様で、空しい気持ちでいたのが嘘みたいだ。
毎日が、ハチミツのように甘く、散歩の犬みたいにはしゃいでいる。
映画を見たり、海に行ったり、野球観戦をしたり、夜景の綺麗なホテルで食事もした。
今まで恋人としてみたかったことを全部やってみよう、という感じだ。
どれも本当に楽しかった。
先日、僕達は神戸に出かけ、豪華客船ルミナス神戸?に乗りフランス料理を楽しんだ。
食後にシャンパンを飲んで、ほろ酔いになったユリが、船のデッキで風にあたっていた。
僕が、ウエイターから水をもらって彼女に渡そうと、背後から声をかけた。
彼女は振り返り、僕が横に並ぶのを待った。
「はい、水。飲みすぎた?」
ユリは首を振ると、そのままよろけて、僕にしがみついた。
「ユリちゃん、大丈夫?」
僕は両手に、グラスを持ったままだ。
すると、不意打ちみたいに彼女が僕にキスをした。
潤いのある、アルコールの混じった、ちょっとスパイシーな短いキス。
「眠い…」
彼女は僕の胸に顔をうずめて、寝息をたてた。
僕は今日ほど、グラスを地面に叩きつけたいと思ったことはない。
彼女を強く抱きしめたくて、しょうがなかった。
神戸でのデートの夜は、オリエンタルホテルで、いわゆる初めての外泊だった。
カップルに人気の、外壁が芸術的に緩やかなカーブのかかった、海沿いの白くて綺麗なホテルだ。
ユリは酔っ払って、僕に寄りかかる感じで、やっと部屋に辿り着いた。
「ユリちゃん、着いたで」
「先生、ここに泊まるんですか?」
「なんか悪いことしてるみたいやから、その先生っていうのやめてくれへんかなぁ・・・」
僕は、ベッドに倒れこんで、早速寝息をたてている彼女に向ってそうつぶやいた。
カキーン!ワァァァァァ!!!!
いきなり野球の快音と歓声が聞こえた。
ユリはガバッと起きて、自分のバックから携帯電話を取り出して、すごい速さでチェックをした。
今のは、メールの着信音だったらしい。
「やったあ!ラミレスがホームラン打ったぁぁ!逆転やわ!!」
(おっ、興奮して関西弁になった)と、僕は思った。
「何それ?そんなんメールで届くん?」
僕がちょっと面白そうに聞くと、
「知らないの?巨人ファンの常識、ホームランメールよ。
巨人の選手がホームランを打ったらすぐにメールが届くの。
今年からは、逆転打の時にもくるし、試合終ってからは、
原監督のコメントまで届くのよ!」
と、すごい勢いで喋った。
「すごいなぁ」
「すごいでしょ」
ユリは、ちょっと髪を乱したまま一呼吸すると、
僕に”おいでおいで”のポーズで手招きをした。
僕がベッドの横に座ると、彼女は僕の肩に手をまわし、ぎゅっと抱きしめた。
僕も彼女の髪をなでて、優しく抱きしめた。
「すごい巨人ファンやなぁ」
「すごいでしょ」
彼女はもう一度得意気に言った。
僕らはしっとりとキスを交わして、ベッドにゆっくり倒れた。
彼女と付き合って4ヶ月、やっとやっと待ち望んだ瞬間。
ジャイアンツカラー一色の彼女の部屋を出て、
久しぶりのロマンチックな時が流れる。
僕は、緊張しながら彼女のブラウスのボタンを全部外し、
下着姿にすると、彼女は潤んだ瞳で僕を見つめ、眼を閉じた。
「さっきお腹いっぱい食べたから太ってるわよ」
僕はふっと噴出すと、
「いいよ、見ないから」
とふざけた。
「嘘だぁ、見るでしょ」
「うん、見る」
僕らはついに愛し合える。
そこに…
カキーン!ワァァァァァ!!!
ホームランメールだ…
「ごめん」
ユリはまた真剣な顔で携帯をチェックした。
「またラミレスが打ったって!本日二本目!!」
彼女の無垢な笑顔を見ていると、僕は…
何も出来なかった…
(ラミレス、しばらく恨むぞ。阪神戦にはそんなに打つんじゃねぇぞ!)
その後、ユリは僕の顔色を伺いながらも、巨人の試合が気になって仕方がない様子だったので、
結局テレビをつけ、この夜もいつもの様に野球観戦を楽しんだ。
僕は少しやけくそな気分だったが。
次の朝、ユリは申し訳なさそうに僕に言った。
「ごめん・・・期待してたよね?」
「えっ」
僕はすっかり気を抜いていたので、どう対応したらいいか分からず、どきっとした。
確かにこの状況は若きカップルが同じ部屋に一晩過ごした割には、
ちょっとぎくしゃくしたような異様な空気が流れていた。
金曜の夜に時々彼女の部屋に泊まっていたが、
こういう雰囲気にならないまま過ぎて、ようやくこの日を迎えたというのに。
だが彼女に僕の気持ちを見透かされたようで、恥ずかしくなって、
「いいよ、僕いつもユリちゃんの部屋に泊まらせてもらってるから、
そのお礼で誘ったんやし」
と、言ったが、残念そうな感じは隠し切れなかったようだ。
「朝は嫌い?」
僕が彼女に背を向けて、着替えをしていると、
まだベッドにいる彼女が、申し訳なさそうに僕に言った。
「えっ?」
どういう意味か分からず、僕が振り返ると、
彼女は上半身裸で、胸を布団で隠すような格好でいた。
「朝・・・するの嫌い?」
僕は着替えの手を見て、驚いて彼女を見つめた。
「嫌いもなにも・・・ユリちゃんとならいつでも」
僕がベッドに向うと、彼女は瞳を潤わせて、切なそうに僕の首をかかえ込んだ。
彼女のフルーティな香水の匂いと、シーツの消毒の匂いが混ざり合って、
ちょっと鼻についたが、すぐに気にならなくなった。
僕は彼女の言われるがまま、
彼女の求めるがままの、プライドも自我も何もない、空っぽの男かもしれない。
だけど僕はユリを愛している。こんな気持ちは始めてた。
僕らは布団のなかで、初めて互いの素肌の感触を味わった。
彼女の白く透けるような肌は、陶器のようにうっとりするほどすべらかで、
何度も頬ずりしたくなるほどだった。
折れそうな位細い彼女の手首からは、予想もしないお椀型のぷるんとした胸が、
きゅっとしまった足首の先には、むっちりしたふとももがあらわになった。
僕は彼女の首筋に舌を這わせて、途中でぴたっと止めた。
「どうしたの?」
彼女が心配そうに僕の頬を両手で包む。
「上手くできるか分からへんけど・・・」
「私も」
「でも好きやから、ユリちゃんのこと」
「私も」
「ずっと一緒にいたいと思ってる」
「・・・私も」
僕は彼女が「私も」と連呼することに策略をたてたように、
ちょっと重いかもしれない言葉を、思い切って言ってみた。
「圭ちゃん、私と付き合ってくれてありがとね」
ユリは小さく可愛い声でそう言った。
(ラミレス、昨日のことは許してやるわ)
僕はホテルの小さなシャンデリアを見上げてそうつぶやいた。
神戸に来ているどんな恋人たちより、僕らは幸せだと、
(少なくとも僕は)胸を張って言える気がした。
僕達の始めてのセックスは、ぎこちなくて、まるで高校生のように無我夢中だっけど、
ちょっと苦いトローチのように甘く優しく溶けていった。
ただ、この日を境に、ユリが巨人ファンであることを、
遠慮なくおおっぴらにするようになったのは確かだ。
− セックスの後 −
僕達がホテルを出たのは、チェックアウトの時間を過ぎ、
お昼頃になっていた。
僕達はまだ離れたくないというように、別々にシャワーを浴びてからも、
ベッドに戻ってはいつまでもぐずぐずしていた。
僕が歯磨きをしようと洗面台に向うと、
ユリは後ろからついてきて、僕の腰に手を回して抱きついてくる。
僕は笑いながら、口をゆすいで、歯磨きを終えると、
ユリの腰を持って、僕の正面に立たせた。
僕らは狭いバスルームで何度も何度もキスをした。
「いつもキスする時に思うんやけど・・・」
僕はユリの上唇にある小さなほくろを指で触った。
「このほくろ、セクシーやんな」
「これ?そんな風に言われたの初めてよ。
まあ・・・私も結構気に入ってる。
このほくろのお陰で・・・」
ユリはそう言いかけると、あっと何かを思い出したように、
ベットの脇に置いたバックに駆け寄った。
「あれ?私レギンス、どこにやったっけ」
この時僕は、彼女の会話が途切れたことにあれっと思ったが、
それほど気にしなかった。
そして、この日から僕らはセックスに躊躇わなくなり、
二人の関係も急接近したように思っていた。
最初はぎこちなかったセックスもだんだん回を増すごとに、
呼吸が合ってスムーズにできるようになった気がする。
付き合い始めて、あまり色気のなかった僕達に訪れた濃密な時間。
僕が求めると彼女は必ず拒むことなく受け入れてくれた。
僕は「体が目的なのか」と疑われても仕方がない位、
彼女の部屋に入りびたりで、獣のように何度も彼女が欲しくなった。
本当に男とはバカがつく位、単純な生き物であると再び痛感した。
ユリを抱くたび、彼女への愛おしさが倍増して、体中ビリビリとしびれる感じがした。
煩悩でいっぱいの僕だが、これでも小学校の先生だ。
毎日きちっと生徒達に勉強を教え、提出期限までに書類を出し、
保護者にも会って話をしなければならない。
その辺の切り替えはなんとか上手く出来ているような気がしていた。
仕事まで疎かになると、ユリがいい顔しないだろうし、
ユリに見合うような仕事も出来るいい男にならないといけないと思っていた。
ある日、大学からの同期である教師仲間の沢村が、
(彼とは大学のテニスサークルも一緒だった)
合同授業で僕の学校を訪れることになった。
この日は、隣町の小学校と親睦を深める為、合同で調理実習をすることになっていた。
調理するのは、きな粉だんご。
生徒達はわいわい騒ぎながら、白玉粉をお湯で溶かしたり、
頭やホッペにきな粉をつけながら、それをまぶしたりして楽しんでいた。
必ず一人は、はみ出し者というか、ぽつんと家庭科室の隅で、
窓の外を眺めながら何もしない子供がいる。
そういう子を、明るく活動的な生徒に声をかけて、仲間に入れてあげるように、
何か役をさせてあげるように頼むと、僕が直接言うよりも割合上手くいく。
僕と沢村は、彼らが仲良くだんごを作っている様子を、
学級新聞に載せるためデジタルカメラで写真を撮った。
無事に実習が終わり、沢村と職員室で談話をしていると、
そこへユリの乗った営業車が駐車場に停まった。
すると沢村が「あれ、あの子・・・」と、ユリを知っている風に言った。
「知ってるのか」
僕はどきっとしながらも、平静を装いながら聞いてみると、彼はこう言った。
「なんかいつも男を誘ってる感じしない?学校に来るのにあの格好だぜ。
見てる分にはいいけど、俺らの学校の女性教師なんかはさ、
あの子が来ると怖い顔して睨むんだ。恐ろしいよな」
僕は最近特に神経が過敏になっているせいか、異常に動揺した。
「へえ・・・そうなん?」
僕は興味なさそうに取り繕って、ユリが職員室に現れても、目を合わす事ができなかった。
彼女もいつも通り仕事を済ませると、さっさと帰ってしまった。
もうこの話は聞きたくないと思うのに、沢村は話をやめなかった。
「あの子、20代後半くらいかなぁ・・・結婚に焦って男をあさってんのかなあ。
男女平等とか言っても、女って職場では損だもんな。定年まで働けるのは珍しいし。
そんな中、俺ら教師って狙い目なのかもな」
彼は関東出身なので、こういう喋り方だが、なんだか耳障りでいらっとする。
「その人間観察、生徒達に使うんやな」
僕は彼の腕を束ねた作文用紙でバシッと叩いた。
その日の夜、僕はいつものようにユリの部屋を訪れた。
彼女は「おかえり」と言うと、玄関で僕に抱きついた。
僕の様子は明らかにおかしかった。
何故だか沢村の言葉が頭から離れなかったのだ。
何も言わず僕はどかっとソファに座った。
「今日、圭ちゃん、違う学校の先生と話してたね」
ユリはきょとんとした感じで、でも明るい声で言った。
「あの先生見たことあるなあ・・・なんか濃いキャラじゃない?」
ユリが僕の隣に座ると、彼女の着ていたルームウエアから胸の谷間が見えた。
「ユリちゃん、僕の前だけならいいけど、
そんな風に胸をはだけるの、やめて欲しいな」
僕は率直に言ってしまった。頭でもっと気の利いた言い方を考えようにも、
胸がざわついて、全く考えられなかったのだ。
「その・・・悪いとは言わへんけど、よく似合ってるし。
でも・・・なんか嫌なんや。他の人に見られるんは」
「・・・圭ちゃんさあ、なんか誤解してない?
私、この格好気に入ってるだけだよ。そんな深い意味なんてないし」
僕は彼女が男に愛想をふりまいているのではないかという、ゆがんだ嫉妬と、
他の男に言い寄られたりしないか、
または、彼女がそれを望んでいるような淫乱な女ではないか、
そんな卑しい気持ちを見透かされた気がした。
どんな格好をしようと、確かにユリの自由だ。
「深い意味とかそんなんないよ。ただ僕が嫌なだけや」
「そんなに嫌ならやめるけど・・・」
ユリは不服そうに口をとがらせると、ちょうどホームランメールの着信音が鳴り、
それに反応してすぐさま携帯電話をチェックした。
「第一ボタンまでちゃんとしめといて欲しい」
僕はそう言いながら、男として小さいなと頭では分かっていても、
彼女の対応がいい加減な感じで腹が立った。
「ユリちゃん、今は巨人のことおいといて」
「あー、今日って交流戦で日ハムと試合なんだ。二岡が見れる♪」
「今、二岡の話はしてへんやろ!」
いつも温厚な僕が大きな声を出して怒ったので、ユリはかちんときて、
立ち上がって僕を見下ろしてこう言い放った。
「圭ちゃんは私が巨人ファンだって、よーく知ってるんじゃないの?」
「知ってるけど…」
「じゃあなんで私が好きなもの取り上げようとする訳?」
「取り上げてなんか…自由にさせてるやんか」
「させてるって何!?なんで上から目線なのよ!!」
「別にそんなつもりないけど…そやけど、他の男やったら、
こんなに巨人優先する彼女、なかなか相手にできへんで。
いつも巨人のせいで、ムードは台無しやし、大事な話かってできへんやん、いっつも」
僕は、珍しく憤慨して思わず普段から不満に感じでいることを口にしてしまった。
「彼氏っていうのは、彼女の好きなものも好きになるはずよ」
「そんな大げさな…僕は阪神ファンなんやから、急には変えられへんよ」
「じゃあ、私に阪神ファンになって欲しいの?」
「そんなこと言ってへんやん」
「圭ちゃんの話だったら、彼氏がそういうの決める権限があるように聞こえるけど。
だって、他の男だったら、私のこと、我慢できないんでしょ!」
「そうや!僕くらいしかおれへん、そやから…」
ユリは今までにない位怒って、指先が震えているようだった。
「そんなことないわ!私をバカにするんだったら見てなさい!
圭ちゃんの好きな能見と結婚してやるから!!」
ユリはソファーのクッションを僕の顔をめがけて投げつけた。
「もう意味わからんわ…第一、二岡って山本モナと・・・」
僕はほとほと呆れて頭をかきながら、そう言いかけると、ユリは急に血相を変えて、
「ぎゃーーーーー!!!!!!!!」
と耳をふさいで騒いで、バタバタとジャンプした。
「あのことは言わないで!!」
「なんや、ユリちゃん二岡のファンやったんか。
それは裏切られて残念やったなあ」
僕は嫌味っぽく言い、彼女をますます怒らせ、喧嘩はヒートアップした。
「なによ、あんたなんか毎晩私とエッチしに来るだけじゃないの。
大事な話ですって?話なんか最近してた?
すぐにベットに直行じゃない、あんたのしてることなんか、
二岡よりずっとずるくて汚いわよ!!」
ユリは初めて僕のことを「あんた」と呼び、鬼の形相で、
九回裏の抑えのピッチャーのように肩ではあはあ息をしていた。
僕は彼女の言葉に何も言い返せなかった。
痛いところをつかれた気がした。
僕としては愛情行為のつもりだったが、彼女はそういう風に感じていたのだろう。
そう言われても仕方がない、最近の僕の行動は最低だった。
彼女だって、仕事を終えて帰って来て、疲れているはずなのに、
いつも優しく僕の相手をしてくれていた。
本当は感謝しなければいけないくらいなのに、今は引くに引けない状況で、
僕はもっとも卑怯な言葉を言った。
「ええ加減にせえよ、そんな風に思ってたんか」
僕は初めて彼女にきつく怒鳴った。今まで怒ったことなど一度も無かったのに。
僕はなんだか悲しくなって、カバンをひっ捕まえ、ユリに背を向けて帰ったが、
きっと彼女のほうが悲しい顔をしていたに違いない。
喧嘩慣れしていない平和主義の僕は、こういう男女のいざこざはとても苦手だ。
どうしていいか分からず、すぐに逃げ出してしまう。
ただ確実に言える事は、恋をしている人間の脳は、最低の状態でしか働かない。
感情が先走って、怒ったり泣いたり笑ったり、心だけがアグレッシブに動いている。
どんなことが起こっても動じない冷静な僕が、彼女のせいで別人になっていた。
− 蜜月 −
僕は車をとばして大阪の家まで帰った。
どこをどうして帰ってきたのか、全く記憶がない位、
頭はユリのことでいっぱいだった。
今までに抱いたことのない、彼女への怒り、苛立ち、そして悲しみ。
僕は興奮したまま、車のドアを乱暴に閉めると、
寺の門前に両親が揃って立っていた。
「あら、あんた泊まりとちごたんか」
母親がぽかんとした表情で聞いた。
隣にいた父親は、大きなボストンバックを持って、
「お父さんら、これから甲子園で泊まりやさかいな」
と、僕のことなど興味が無いという風にさっさと自分の車へ向った。
「ほな、寺のことよろしゅうに」
母親はスキップして、父親に続いた。
僕は家にあがり、がらんとした台所でカップラーメンを食べた。
(なんでこんなことになったんや・・・今まで上手くいってたのに)
本当なら、明日のデートは金閣寺に行く予定だった。
それから、きぬかけの路を歩いて、竜安寺と仁和寺にも行ってみようという話をしていた。
しばらくして少し落ち着くと、どうしてユリはあんなに巨人が好きなんだろう?
という疑問が沸いてきた。
僕は両親が阪神ファンで、学校の友達も皆阪神ファンだったからという単純な理由だ。
そもそも自分でさえ理由なんてものを考えたこともない。
きっと彼女も東京育ちで、家の人が巨人ファンとか、そういう理由に違いないと思っていた。
単なる地域性の話だと。
しかし、彼女のあの巨人に対する執着心は、ちょっと首をかしげるところがある。
何か理由があるなら、ちゃんと聞いてみれば良かった。
僕は、ユリと京セラドームに巨人対オリックス戦を見に行った時のことを思い出した。
僕は、彼女が「どうしてもこの日じゃないと駄目なの」と言うので、
わざわざ学校に昼から休暇を出して、言われるまま運転していたら、
着いた所は京セラドームの前だった。
「…野球に関係ないとこって言ったやんな?」
僕が騙された、約束と違うと抗議すると、
ユリはあっさりした口調で、
「うん、関係ない、全然関係ないよ。
ここのねぇ、神戸牛弁当がおいしいんだぁ」
と言って、僕の腕をひっぱった。
「行こ!」
「ま、待って、僕、巨人はちょっと・・・」
「いいからいいから」
僕は渋々、ユリが前もって予約していたチケットを手に、三塁側の内野席に座った。
(騙された…完全に騙された!完全に彼女のペースだ!
まさか阪神以外の試合、それも巨人戦を見に来るなんて、
僕の人生において予想もできなかったことだ!!)
まだ試合開始2時間前(16時)で、巨人の練習が始まっていた。
ティーバッティングには、坂本、鈴木が入っているようだ。
ユリは座席から双眼鏡でその姿を念入りにチェックしている。
僕は落ち着かなかった。甲子園では、いつも外野席で大騒ぎしているからだ。
「圭ちゃんはどうして巨人が嫌いなの?」
彼女はなんの嫌味もなく、純粋に質問した。
「お金で一流選手そろえてるからかなぁ。
あっちこっちの4番とってきてるやん。
まあ今や阪神もそんなこと言われへんけどな」
「それのどこがダメなの?プロ野球はビジネスのひとつじゃない?」
「そうかもしれんけど、金かけたら強いっていうんは、
社会でも同じような気がして…
それやったら貧乏人が努力して勝つ、みたいなんがええかなって」
「圭ちゃんのおうち、お金持ちじゃないの」
「そんなことないない。ただの山ん中の古寺やで」
「だけど、ひとつ分からないのは…
どうして阪神ファンは、巨人のこと悪く言うの?
ただ阪神の応援してればいいじゃない」
「それは…敵やからかな。伝統の一戦なんて言うやろ?
敵がいいひんかったら面白くないしな」
「こっちは敵なんて思ってないけど。
伝統とか言うけど、巨人側にしてみれば、今怖いのは、ヤクルトと広島で、
まあ中日もあがってくるわね、きっと。
だから阪神は眼中にないの。
つまり伝統なんて思っちゃいないのよ。
それにね、先生。例えば、運動会で、赤組に足の速い子が集中してたとします。
で、青組みと白組が、”赤組なんて負けちまえー”って、
応援したとします。先生としてどうですか?
その応援の仕方は間違ってると思いませんか?」
ユリは、まるで僕を諭すように一気に喋った。
「それは…」
僕は言い返す言葉が見つからなかった。
彼女の話に説得力があったからだ。
でも反撃しないと、阪神ファンとして、あまりにも情けない。
普段、(こちらは)敵だと思っている巨人に、口で負けてはならない。
(試合には負けても)
これこそが阪神ファンだ。
その時だ。
レフトスタンドから、太鼓がドドドドン!!!と鳴り、
続いてトランペットが鮮やかな高音を響かせた。
ユリがそちらを向いて、「抑えて、抑えて」と言うように、
満面の笑顔で、両手を高くあげた。
レフトスタンドの巨人ファンが、ユリの姿を見つけて、
”なんでこっちに来ないんだ”と言わんばかりに、楽器を演奏してみせたのだ。
僕は唖然として、
「社長さんみたいやなぁ…」
と、少し尊敬の念を込めて言った。
ユリはちょっと得意気に、
「そうでもないわよ。さすがに圭ちゃんはあの席はきついと思って。
初めての応援は、ね」
と言った。
「初めてって…二回目の応援もあるん?」
僕は彼女の強引さに、ちょっと青ざめて引いてしまった。
「9月にここで巨人のホームゲームがあるのよ。」
ユリはそう言うと、僕の為に生ビールと、例の神戸牛弁当を買ってくれた。
僕は諦めて、大人しくそれらを頂くことにした。
ユリは、球場を楽しそうに見回し、(江川並みに)僕に色々解説をしてくれた。
(紙をめくるタイプのフィリップはなかったけど)
6時になって、試合が始まった。
この頃には、僕はすっかり巨人の試合に集中していた。
先発、グライシンガー対本柳。
グライシンガーはいつも通り、初回に不安はあったが、
今日は割りと調子よく投げていた。
小笠原、イ・スンポプ、ラミレスらの、強打者のホームランは見られなかったが、
松本、亀井、坂本、鶴岡などの若手打線もつながって、
5-1で、巨人が圧勝した。
オリックスは、ローズやカブレラがいないせいもあって、
打線に覇気がないような気がした。
試合の合間に、球場のスクリーンに客席が映されるのだが、
僕達の前の席に座っていた男性にカメラが向けられ、
”トゥース!(春日)をしてください”や、
”一気飲みのフリをしてください”などと、
メッセージが出て、彼はそれをやってのけた。
球場は笑いに包まれる。この時ばかりは、試合の勝ち負けも、
敵味方も関係ない、和やかな時間だ。
そして、最後のメッセージが、
”隣の人にキスしてください”だった。
カメラに映された男性は、余所見をしている、隣にいる友人らしき男性の肩をたたき、
スクリーンを指差して、状況を伝え、急いでホッペにキスをした。
それを見て、僕らは腹を抱えて笑った。
「あれ、私達だったらよかったのにね」
ユリが僕の手を握って、肩に頭をのせた。
そして甘えた声で、
「ケンミンの焼きビーフン作ってあげるね」
と言った。
そう、入場するとき、スポンサーのケンミンの焼きビーフンをもらったのだ。
それにしても、三塁側、レフト方向の席は、
巨人ファンでびっしり敷き詰められているのに、
一塁側、ライト方向の席は空席が目立ち、がらんとしていて寂しげだった。
大阪のサラリーマンにも巨人ファンは沢山いて、
地元であるオリックスファンの方が少ないなんて。
「大阪人は阪神ばっかりじゃなくて、
近鉄も応援してあげないとね」
ユリが可哀相に、と言った。
「ユリちゃん、近鉄じゃなくてオリックスやで」
僕はすかさずつっこんだ。
この日僕は、初めて甲子園に連れて行ってもらった子供の頃を思い出し、
ちょっと感傷的になりながらも、十分に試合を楽しめた一日だった。
僕らは、野球のことで言い合いになることもあったが、それでも仲良く過ごしていた。
最初は戸惑ったが、だんだんそれがいいストレス解消になっている気がする。
何故なら、喧嘩の内容は、僕らの個人的なことではなく、全くの他人事なのだから。
試合から帰って、ユリは酔っ払いながら、マイケル中村の独特な構えをマネしながらも、
冴えないピッチングに怒っていた。
確かに、8回の大事なシーンに出てきたにしては、
ファーボールやらデッドボールが多すぎる。
僕らが京セラドームに見に行ってから、巨人は三連敗した。
阪神も低迷を続けていて、最下位になるも時間の問題かと思えてきた。
「いつもこの頃には優勝の可能性なくなってるじゃないの」
と、ユリが阪神を見下したように言った。
「だから巨人ファンは冷たいんや。
こういう状況でも応援すんねん」
「もし巨人がこんなだったら、私、ファンやめてるわね」
「やかましいなぁ」
「PL学園と試合しても負けるって昔言われてたよね。
雨が降って試合が中止になったら、ああ今日負けんで済んだって思うって」
「もう、黙って」
こんな風に言い合いながらも、僕達は仲良くじゃれあっていた。
阪神対巨人戦の直接対決を見ていても、僕が「お手柔らかに」と控えなふりをして、
秘かに応援をしていたが、勝っても負けても喧嘩にはならなかった。
そもそも今回の喧嘩の本当の原因は、野球とは関係ないところにある。
子供に注意する時みたいに、もっと上手にもっていけば良かったのだ。
角の立つ言い方をした僕が幼稚なのだ。
夜も更け、寺の庭にある藤の花が月光に揺れていて美しかった。
彼女と出会ったのがまだ寒い冬だったことを思えば、
この生ぬるい梅雨を迎えたということは、僕らも季節を越えて付き合ってきたのだと感じる。
僕は先ほどからずっと携帯電話のスクリーンを眺めていた。
そして、手に取ると、緊張しながら彼女の番号を押した。
電話がかかる。
だがいつまで経ってもユリは電話にでなかった。
僕は気持ちを落ち着かせて、ひとまずお堂でお経でもあげようかと思ったが、
面倒なのですぐにやめ、ユリの留守番電話にメッセージを残すことにした。
この時期みたいに、湿気を含んだ重たい心のモヤモヤを、
少しでもすっきりしたかった。
「ユリちゃん、ごめん。僕、嫌な言い方してしもて・・・
明日、金閣寺の前で待ってるから。
ちゃんと約束通り行こな」
しかし、次の日、いつまで待ってもユリは来なかった。
僕は遠方から来ていた修学旅行生達に紛れながら、長い間、空しさと希望を繰り返し感じ、
ポケットに手を入れたまま立ち尽くしていた。
− 元カノと元カノの元カレ −
あれから、ユリとは音信不通になった。
彼女の部屋にも行ってみたが留守のようだった。
他愛も無い恋人同士の喧嘩。僕はそう思っていた。
こんなことで駄目になるなんて信じられなかった。
日々時間が過ぎていくのが恐ろしい気がした。
彼女を失うなんて考えられない。
そんな時、同期の沢村から電話があった。
「今度さ、同級生でマツダスタジアムに行く話になってるんだけど、田中も来ない?
ほら、美佐子ちゃん、広島帰って結婚した子。
あの子、お前のこと好きだったじゃん。
結婚式にも来てくれなかったって言っててさ、会いたいんだって」
「もう結婚してるんやろ、なんで僕なんかと会いたいねん」
「わかんねえよ。ただ友達としてだろ。いいじゃん、山口や越智も来るしさ、
皆でぱっとやろうぜ。あの今話題のバーべキューができる席がとれたらしいから」
全く気乗りはしなかったが、懐かしい名前にちょっとどきっとした。
美佐子ちゃん。
僕が大学生の時の彼女だ。
彼女は卒業して地元の広島に戻り、保育園の先生になって、
バツイチである園児の父親と結婚した。
そんな大胆なことができる子にも思えなかったので、
そのバツイチ男が積極的に迫ったのに違いない。
「今、それどころじゃないんやけどな・・・」
僕はそう言いながらも、気分転換にと沢村の誘いに乗った。
僕と美佐子は、卒業と同時に遠距離恋愛になり、そして自然消滅した。
僕も彼女も先生一年目だったので、新しい環境に馴染むことに必死だったし、
新任研修も多く、色々学ばなければならないことがあり、会う時間もほとんどなかった。
それでも彼女は僕と離れ、一年も経たないうちに結婚した。
だけど僕は、それを聞いても今のユリとの喧嘩ほどショックは受けなかった。
僕と言う人間は、感情の起伏が無かったのか、自分でも不思議なほどだった。
出世する意思もなければ、美智子とどうにかなりたいとも願わず、
今ののんびりしたまま生きていくんだと思っていた。
いわゆる草食系な僕を夢中にさせたのがユリなのだ。
様々な思いを抱え、僕はマツダスタジアムへ行くことにした。
この日、阪神のピッチャーは、今年初登板のジェン。広島は篠田。
昨日の試合は、12対1で、阪神の圧勝だった。
”この調子で今日も勝つぞ!”と、僕の両親は意気込んで見送ってくれた。
デーゲームなので、僕と沢村は朝6時に起きて、僕の車で広島を目指した。
球場の前で、美智子は先に着いていた山口と越智と一緒に僕らを待っていた。
最初はちょっと面倒だったが、久しぶりの再会に僕は胸がはずんだ。
美智子は品のある白いワンピースに、デニム生地のベスト、
デイジーの花の飾りのついた帽子をかぶっていた。
前髪を目の上でぱつんとそろえ、肩まである髪の毛先はゆるく巻いてあり、
とても子持ちの主婦には見えなかった。
「圭君、遠いところよく来てくれました」
彼女は嬉しそうに微笑むと、沢村が身を乗り出し、
「僕には?」
と冗談めかして言った。
「沢村君、相変わらずね」
美智子が口元にあてた左手薬指には、結婚指輪が光っていた。
そういえば、僕も彼女の誕生日にティファニーの指輪をプレゼントしたことがある。
彼女のリクエストで、シルバーのものだったと思う。
山口と越智も教師になって地元に戻り、鳥取と島根で、同じ山陰だったので、
美智子の呼び出しに喜んで出てきた。
そう、彼女はテニスサークルで唯一の女子で、アイドル的存在だった。
複雑な話なるが、僕と付き合う前は、身長183センチのホリの深い男前、
越智と付き合っていたのだからややこしい。
とにかく今日は久しぶりの阪神の試合だから集中するぞ、
と僕は気合を入れた。
新緑の季節で快晴だった。やはり真新しい球場は気持ちがいい。
バーベキューの煙が風で飛ばされ、隣の席の人が迷惑そうにしていたが、
それでも開放感があって良かった。
噂の赤いソファーのシートは、固い座席と違って柔らかそうで、
まるで家に居るような感覚で、リラックスして見られるようだ。
ネソベリアも気楽に見れそうでなかなかいい感じだ。
もし近所に住んでいたら、天気のいい日はふらっと寄って、ここで観戦したいと思う。
試合中、美智子は僕の隣に座った。
「圭君、阪神ファンだったよね?」
彼女は僕らの間に何もなかったかのように、
ただの同級生のようにして、サバサバした感じで聞いた。
「うん。美智子ちゃんは野球あんまり知らんかったよね」
僕らは”さよなら”さえも言わないまま終っていた。
「でもこっちに来てだいぶ勉強したのよ。
もうすごいの、カープファンって。阪神ファンに近いとこあるかな。
でも私まだまだ分かんなくて、ついていけないんだぁ」
彼女は観戦中、野球や選手について色々質問してきた。
もし、ユリに野球に関して質問しようものなら、
「なによ、そんなことも知らないの?」
と、得意気に自分の知識をひけらかすだろう。
僕らの懸命な応援も届かず、この日の試合は、2対1で阪神は負けてしまった。
ジェンは好投したのだが、アッチソンの起用が失敗だった。
「あーあ。負けちゃったね、残念…」
美智子はそう言うと、叩いていたメガホンを膝に置いた。
「美智子ちゃん、どっちの応援してたん?」
僕は、阪神ファンである僕に合わせて言ってくれた彼女の言葉に、
女性らしいふわりとした優しさを感じた。
沢村は特にどの球団のファンという訳でもなく、
ただ酒を飲んで騒げればいいので、試合が終ってからも、
両手に缶ビールとスルメを持ってワアワア騒いでいた。
山口と越智は阪神ファンなので、今日の試合の反省点を二人で語っていた。
観客がぞろぞろと出口に向う中、
僕らはバーベキューの食べ残しの肉やビール缶を片付けたりしていた。
「この試合だったら、きっと圭君来てくれるだろうなって思ってたの」
ビニール袋にゴミを入れながら、美智子が僕にしか聞こえない位の小さい声で言った。
「僕?」
「今日、ホテルに泊まるんでしょ?
私も同じとこに泊まるの」
「えっ、家に帰らなくて大丈夫なん?新婚さんやろ」
僕は気遣って言った。
「あの人・・・主人ね、出張でいないの。
工場の主任をしててね、仕入れにしょっちゅう中国に行くんだけど、
行ったら一週間位帰ってこないんだ。だから私寂しくって」
美智子はそう言うと、肩をおとしてしゅんとした。
「それは悪い奴やな。美智子ちゃんを独りにするなんて・・・
って、僕もそんなこと言えるような男じゃないけど」
「圭君は彼女いるの?」
「えっ、うん、まあね。沢村が言ってた?」
「うん。そんな感じだって。でも隠してるって」
美智子は大学の頃と全く変わらない、小鳥の囀りような可愛らしい声で笑った。
そして、僕に近づきそっと耳元でこう囁いた。
「私、203号室に泊まるから遊びに来て」
僕は一瞬どきっとして、よからぬ想像をしたが、
多分学生時代の思い出話でもするんだろうなと軽く受け止めなおした。
「ああ・・・あいつら酔っ払ってるから、
またどっか違う店にでも行くんじゃないかな。
たぶんここだけじゃ満足せんやろし・・・」
僕は言葉を濁し、車に皆を乗せてホテルまで移動し、一休みした。
僕はベッドに寝転んで目薬をさしていた。
「運転手さんご苦労さん。さ、飲みに行こうで」
目を開けると、長身の越智がベット脇に立っていた。
「僕、もう疲れたから後で行くわ。
また店に着いたら連絡して」
僕は枕に顔を沈めると、手を振って彼らを追い出した。
「じゃあね、僕ちゃん。ホテル出てすぐのスナックにおるから」
山口がすでに泥酔して、ふらつきながら僕に向って言った。
僕は疲れた目をタオルで冷やしながら、一時間位眠っただろうか。
電話の着信音で目が覚めた。
美智子だった。
僕は少し迷ったが、思い切って電話に出た。
「もしもし」
「圭君、ごめんね、お休み中」
「ううん、どうしたん?皆は?」
「まだ飲んでる。私は先に帰ってきちゃったんだ。
ねえ、私の部屋でちょっと飲まない?」
美智子は少し酔っ払っている様子だった。
僕が困って考え込んでいると、
「話があるの。私たち・・・ちゃんと別れ話もしてないでしょう。
けじめをつけたいの。私・・・時間がないから。
今日しかこんなことできないから」
美智子は涙混じりに声を震わせて言った。
「分かった、僕もそのことは気になってたんやけど、
美智子ちゃん、幸せになったんやと思って・・・」
「幸せなんかじゃないの。お願いだから私の部屋に来て」
彼女は一方的に電話を切った。
僕はどんな誘惑にもゆるがないぞと覚悟を決めて、彼女の部屋に向った。
何が起こるのか、彼女の様子からはあまりよくない方向へ行きそうな気がする。
ノックすると、鍵は開いていて、彼女はぼんやりと窓に片手をついて、
やっと立っているような様子だった。
窓は少し開いていて、カーテンのレースがパタパタと風になびいていた。
もうすでに彼女の背中は悲しみに泣いているような感じだった。
「美智子ちゃん?大丈夫?」
僕が近づくと、彼女は振り返り、わっと泣き出して僕の胸に飛び込んだ。
「どうしたん?」
彼女はおいおい泣いて、僕はただ彼女を抱き寄せるしかなかった。
そういえば、僕と付き合っていたときも、彼女は意味もなく突然泣き出すことがあった。
理由も言わず、ただ僕の胸で泣いていた。
僕はそれを落ち着くまでずっと、彼女の背中を撫でていたのを覚えている。
当時の彼女の涙の理由は、きっと僕の不甲斐なさに違いない。
どうにもならない思いを僕にぶつけていたのだと思う。
だけど、今、彼女が泣いている理由は・・・分からない。
僕は彼女をベッドに座らせ、熱いお茶を作って飲ませた。
「少しは落ち着いた?酔っ払ってたんか?らしくないなあ」
僕はわざと明るく接した。
美智子は泣きはらした目をこすり、「ごめん」とつぶやいた。
「私ね、圭君に幸せなところを見せたかったの。
毎日忙しくて、気づいたら大事な人を失ってたから・・・
それでも圭君、何にも言ってこなかったでしょ。
それが余計辛くって・・・何か気をひきたかったのね。
結局結婚までしちゃったけど」
「今日・・・子供さんは?」
「私の子じゃないけど・・・今日は義理父の実家に預けてる」
「そっか・・・僕、美智子ちゃんと付き合ってる間、何にもしてあげれんかった・・・
それは嫌ってほど自分でも分かってる。
今からでもできることなら何か力になってあげたいけど・・・
でも、今僕も彼女がおるから・・・その・・・
上手く言えんけど・・・美智子ちゃんが幸せなら僕も幸せやから・・・
僕の出来ることやったら・・・」
「いいの。相変わらず優しいんだから。
駄目だよ、人妻に手を出しちゃ。ふふ。
・・・実はね、私の旦那ね・・・
中国で女の人を買ったみたいなの・・・
それも一度や二度じゃなくって・・・出張の度にね。
それで・・・あの人・・・エイズになっちゃったのよ」
僕は現実味のない単語に、ぞくっとするほど驚いた。
「エイズ・・・?」
「うん。私、あの人が・・・
いつも一緒に出張に行ってる会社の人に電話してるの聞いちゃったの。
困ったことになったって。お前は大丈夫かって。
挙句の果て、処女専門だって言ってたのにな、だって。
何のことかだいたい分かったけど・・・
後で問いただすとエイズに感染してるって・・・ごめんごめんって泣くの。
私にもうつってるかもしれない。
でも・・・なんだか無性に・・・
誰かに抱かれたくなっちゃって・・・
いけないんだけどね・・・こんなこと。
みっともないって分かってるのよ」
「美智子ちゃん、病院で検査は?」
「・・・怖くてできないの」
「僕がついて行くから明日でも行こう」
「いや。もし感染してたら、圭君に恥ずかしくて側に居られない」
美智子はこの最悪な状況のなか、無理をして笑顔を作った。
そのいじらしさに、僕はかつて好きだった人を放ってはおけないと思った。
彼女の旦那の身勝手さと、羞恥心の無さと、頭の悪さに腹が立って仕方が無かった。
「美智子ちゃんは何も恥ずかしいことしてへんやんか、悪いんは・・・」
その時、部屋をノックする音が聞こえた。
美智子が小声で「隠れて」と僕をクローゼットに閉じ込めた。
現れたのは越智だった。
「美智子ちゃん、大丈夫?」
彼は酒に酔っている様子もなく、しっかりとした声だった。
「トイレ行ってる間に帰ったって聞いて・・・
心配して来たんや。その・・・入っていい?」
越智は部屋の明かりをつけると、美智子の泣きはらした顔を見て、
「どうしたん?あの事・・・なんか?」
と、痛々しそうに言うと、駆け足で彼女の傍まで行き、
何の迷いもなくすっぽり抱きしめたようだった。
どうやら越智は、彼女の問題を全て把握していたらしい。
「美智子ちゃん、俺、ずっとずっと美智子ちゃんのことが好きやった。
田中と付き合いだしてからも、俺らが離れ離れになっても、
ずっと思いは変わらんかった。
俺は美智子ちゃんの為ならなんでもする。
俺が全部受け止めるから安心して。一緒に広島を出よう?」
僕は暗闇のなか、彼の真摯な言葉が胸に突き刺さった。
「僕ができることならなんでもやる」
僕が言ったこの言葉なんて、女性からすればなんて頼りない、他人行儀な挨拶でしかない。
そして、僕が本当に解決しなければならない問題は・・・ユリなのに。
気が強くてプライドが高くて、巨人みたいに王者の風格のある彼女も、
きっと傷ついているに違いない。
美智子と越智がベッドに倒れこみ、ギシギシとスプリングが弾む音が聞こえた。
僕は美智子が受け入れられるのか心配になって、クローゼットから二人を覗くと、
美智子は覆いかぶさる越智の背中越しに僕を見つめ、
大丈夫よ、とうなずき合図を送った。
二人は裸になって、辛く悲しいセックスをした。
僕がユリとしてきたような、互いの肌の感触を確かめるような、
気持ちいいだけの甘いセックスではない。
色んなものを抱え、それを受け止め、苦しみをなんとか中和しようとしている、
冷たい涙を吐息で蒸気に変えるような、今まで見たことも感じたことも無い命がけのセックスである。
僕は元カノが元カレとセックスするのを、壁一枚隔てて聞いていた。
よく考えればなんとも滑稽なシチュエーションだ。
結局彼女は、僕か越智に助けを求めるために、この企画を提案したのだろう。
彼女にしてみれば、一世一代の賭けみたいなものだ。
僕は越智が駄目だったときの保険か、それともその逆か・・・
しかしこんなことをされても、僕は彼女のことを計算高いしたたかな女だとは思わない。
自分がこの苦しみから逃れる為に、誰かに救ってもらう為に、生きていく為に、
考えに考え抜いて出した案がこれだったのだ。
僕らは翌日、何も聞かず二人を残してホテルを出た。
にぶい沢村は何故なんだと、色々詮索していたが、山口は越智の気持ちは薄々気づいていたようだ。
僕にも向き合わなければならない相手がいる。
皆、必死で愛を求めて、それを守り抜く為に努力して、傷ついたり傷つけられたりしているのだ。
帰り際、美智子が皆に内緒で、僕にだけマツダスタジアムのロゴ入りの袋を渡してくれた。
中には、トラッキーのストラップと、僕があげたティファニーの指輪が入っていた。
そして、ホテルの便箋に一言”ごめんね”と書いてあった。
僕は彼女の好意が素直に嬉しかった。
人任せで申し訳ないが、彼女にも幸せになって欲しい。
心からそう願う。
しかしユリがこのストラップ見たら、
「こんなのつけてたら人生も負けだらけになるわよ」
とか、言うんだろうな…
− 事実 −
僕は大阪に戻っで沢村を家まで送り、そのまま車で京都へ向った。
長距離運転で、僕は疲労困憊だったが、ユリに会いたい一心だった。
恋してる人間の脳は最低な状態でしか働かないが、
肉体だけは身軽で、暑さも寒さも関係ない。
京都に着き、彼女のアパートの下で電話をかけてみる。
呼び出し音が鳴る。
しばらくしてまた留守電に繋がる。
「ユリちゃん、今近くまで来てるんやけど、
顔見せてくれへんかな」
僕がメッセージを残そうと喋ってるところ、ユリの部屋のドアが開いた。
ユリだ。
ものすごく怖い顔で僕を睨みつけ、腕組をして仁王立ちしている。
僕は恐る恐る階段を登って、彼女に近づいた。
「ユリちゃん・・・久しぶり」
「どこ行ってたのよ!」
「どこって・・・えっ?」
彼女は僕の腕をバシバシ叩きながら、
「なんで私をおいて広島になんか行くのよ!
私テレビ見てたんだからね!!」
僕は焦った。
僕らのマツダスタジアムでのバーベキューの様子がテレビで放映されたようだ。
そういえば、テレビカメラがこちらを撮っていたのを思い出した。
「ごめん・・・大学の友達と・・・」
僕はテレビに美智子とのツーショットが映っていなかったか、
冷や汗をかきながら、誤解を解こうと色んな言葉を搾り出していた。
「ずるいよ、圭ちゃんだけ!私も行きたかったのにぃ。
新しい球場、私もすごく興味あったのにぃ。
しかもあんないい席で!バーベキューなんかしちゃってさ」
ユリはそう言いながら、玄関の外で僕にぎゅと抱きついた。
(そっちか・・・そっちで怒ってるんか)
僕は胸をなでおろした。
アパートの二階から見下ろすと、薄いエンジ色の夕焼けが西陣の街を静かに包んでいる。
ユリの苺とメロンが混じったような、甘くてフルーティーな香水の匂いがふっと香った。
数日会わなかっただけなのに、すごく懐かしい気がした。
「ユリちゃんにこんな風に会えなくなるんはもうこりごりや」
「圭ちゃんは阪神の応援に広島まで行ったじゃない。
私のこと放っておいて。私より阪神が好きなんでしょ」
ユリは僕の腕の中でまだむくれている。
(それはいつも僕が思ってる台詞だ)僕はそう思いながら、
「ユリちゃんかって金閣寺来てくれへんかったやんか」
と言い、こらっという感じで、自分の下唇を軽く噛んだ。
「あれは・・・二日酔いでどうにも動けなかったの」
「お酒飲んだん?僕が帰った後で?二日酔いになるほど?」
酒豪の君が、と、僕がちょっと嬉しそうにはにかむと、
「なんで嬉しそうなの?すっごいしんどかったのよ」
と、ユリはサンダルを履いた足をジタバタさせた。
僕は彼女の存在を確かめるように、もう一度しっかり抱きしめた。
すると、僕らの背後から、スーパーの袋を提げたおばさんが、
今の若い子は節操ないんだからと、怪訝そうに僕らを見ながら通り過ぎて行った。
隣の部屋の住人である。
僕らは照れくさそうに見つめあうと、手をつないで部屋に入った。
「ねえ、もみじまんじゅうは?」
さっきまで怒っていたユリは、もう機嫌を直して、いつも通り僕にくっついていた。
「阪神負けちゃったね。私を連れていかないからよ」
彼女も僕と仲直りができて嬉しい様子だった。
(お土産どころじゃなかったなあ・・・あれからあいつらはどうしたんだろう)
僕は彼女の体に触れながらも、広島での出来事が衝撃的で、いまだ気がかりだった。
「圭ちゃん、私考えてたんだけど・・・」
ユリがあらたまって、座っている僕の足元にちょこんと座った。
「どうしたん?」
「あのね。ここの窓から報恩寺が見えるじゃない?
昔、西陣の機織さんはね、このお寺の鐘で、朝仕事を始めて、
また夕方の鐘で仕事を終えてたんだって。
でね、ある日、織屋さんの男の人が、あの鐘は8つ鳴るって言い出して、
女の人は、いえいえあれは9つ鳴るって、つまらないことで言い合いになったの。
じゃあ、今度の鐘の数を数えてみようってことになって、
2人で鐘の音を数えたら、それが8つだったの。
つまり男の人が勝った訳。
でもね、実は男の人がお寺に先回りして、
今日だけ8つにしといてぇなってって頼んでたんだって。
ほんとは9つだったのに、女の人ちゃんと合ってたんだけどそれを知らずに、
悔しさのあまり、あの鐘楼で首をつって死んじゃったの。
それからあの鐘を撞くと、不吉なことが起きるって言って、
除夜の鐘くらいしかつかないんだって。つまりね・・・」
「僕らの喧嘩も・・・最初はつまらんことやった」
「そう。分かりやすいたとえでしょ」
ユリは僕の頬をつついて笑った。
僕は彼女のこういう聡明で、(巨人関連意外でも)色んな知識を持っているところも好きだ。
「そうやなぁ・・・せっかく好きな人が好きでおってくれて、
こんな奇跡みたいなこと滅多にないのに・・・
つまらんことで言い合いして、ユリちゃんを失うかもって思ったら、
ほんまにきつかったなあ。
僕にはユリちゃんじゃないとあかんってよく分かった。
この先もずっとそうやで。また確信したわ」
僕はユリの脇に手を入れてくるみ、彼女を持ち上げ僕の膝にのせた。
「ユリちゃん・・・今度は・・・大阪のお寺にも行ってみいひん?」
僕はちょっと照れながら誘った。
「うん・・・大阪のお寺って?」
「僕ん家。両親に会わせたいんや、駄目かな・・・」
僕は彼女の返事が怖かった。まだ早いと言われそうな気がする。
「うーん・・・緊張しちゃうな」
「僕がおるから大丈夫。
気が早いかもしれへんけど、僕はユリちゃんを一生好きなんは、
何があっても絶対変わらへんことなんやから、
それやったらもう早いこと一緒になって、もっと沢山思い出作ったり、
楽しいこといっぱいしたいんや。
ユリちゃんはどう?僕のこと、まだそこまで考えてくれてへんかな。
喧嘩の後でなんかおかしいかもしれへんけど。
とりあえず、うちの親もユリちゃんみたいなべっぴんさん連れて来たら
喜んで安心すると思うし・・・駄目かな」
僕は不安からか言葉を付け足し、様子を見ながら慎重に喋った。
「駄目じゃないよ。私も早くそうなりと思ってる・・・
圭ちゃんは・・・私をお嫁さんにしてくれるの?」
ユリはちょっと困惑した目で僕を見つめた。
「あ、そっか、ユリちゃんは一人娘やからお嫁に来るんは難しいんか」
僕は大事なことを忘れていた。
僕もお寺の一人息子だ。完全に自分の都合のことだけを考えていた。
「それはいいんだけどね・・・でも・・・」
ユリはまだ何か言いたそうだったが、
僕はとりあえず仲直りできた喜びに浸りたい気持ちもあったので、
「ええよ。また考えといてくれたら」
と言って、彼女のおでこにキスをした。
それから数日経ったある日、僕の受け持つ3年生と4年生の遠足で、
晴明神社に行くことになった。
生徒達はバスの乗り方も学ぶ予定で、着いたら神社でお弁当を食べることになっていた。
皆はしゃぎすぎていたので、バスを待っている間、
「他のお客さんの迷惑にならないように、お行儀よくするように」と、
一喝しておいたが、効果は全く無く、バスの中でも同じように注意することになった。
普段から平日の昼間はバスに乗る客は少ないので、乗っていた数名のお年寄りは、
子供達をほほえましく見てくれた。
「どこに行くの」「おばあちゃんは病院よ」
など、会話はのどかで楽しそうだった。
バスに乗っている間、ふと窓の外を見たとき、
一条戻り橋のたもとでユリがぽつんと立っていた。
首をかしげて、橋を渡ろうか、ちょっと考えてる風に見えた。
(あんな所で何やってんだろう・・・)
僕は不思議に思ったが、偶然ユリの姿を見かけたことを後で報告しようと思うと、
ちょっと楽しみになった。
(あれ、待てよ・・・)
僕はあることを思い出した。
一条戻り橋にまつわる逸話だ。
確かあの橋は、婚礼の荷物を持って通ると、実家に戻るはめになる、
つまり離婚すると聞いた覚えがある。
だとしたら、ユリは僕との結婚が嫌という事なのか?
(いや、違うな)
あの橋で強く願えば、亡くなった人が戻ってくる、そういう話だったような気がする。
「せんせえ、次で降りるん?」
考え事をしている僕の服の裾を生徒がひっぱった。
「あっ、うん。そうやで」
僕は我に返って、先生の顔でにっこりし、生徒の頭をなでた。
清明神社は、映画の宣伝効果もあって、女性ファンがよく訪れるが、
平日の昼間は観光客も少なく割りと閑散としている。
神社には、女性ファンが書いていったノートがあり、
漫画っぽいイラストやら、ここに来たしるしを残していた。
一条戻り場所は場所を移動したのか、よく分からないが、
この神社にその橋の一部が展示してあった。
僕は走り回る生徒を追いかけるのに必死で、
この神社の説明などをじっくり読む暇はなかったのだが、
清明は式神という12の霊を操っていたらしく、
それを妻が怖がったため、普段は一条戻り橋に封じておいたそうだ。
ということは、ユリは霊でも呼び出そうとしていたのか?
ますます分からなくなったが、とりあえず、星のマークの交通安全シールを、
僕と彼女の分を買っておいた。
木にとまったミンミンゼミが賑やかに鳴き始め、
初夏の訪れを告げていた。
神社の水溜りにはアメンボが水面を滑っていたので、
それを「K君へのお土産にする」と生徒達が言い出し、
彼らは手ごろな入れ物を探す為、ゴミ箱のビンや缶を取り出していた。
それは、衛生的には良いとは言えず、行儀の悪いことだと思ったが、
生徒達がここにいないK君のことを思っていることが僕は嬉しかった。
その日の夜。
僕は残業で毎度ながら彼女の部屋に行くのは遅くなっていた。
9時頃、彼女の部屋を訪れ、昼間の一条戻り橋の件を話した。
彼女は風呂あがりで、まだ髪が濡れていたので、タオルで乾かしながら
僕にコーヒーを出してくれた。
そして、僕の向かい側に座り、自分のホットミルクを飲みながら、
「ああ、居た居た」
と、思い出したかのように言った。
「何やってたん」
「うーん・・・何って別に。何にも」
ユリはとぼけた感じで、自分の爪をいじっていた。
「あそこな、結婚前に通ったらあかんねんで」
僕はちょっと怒ったふりをして、相手の出方を見た。
「そうなの?なんで?」
「戻っちゃうから。実家に。だからよくないねん」
僕はこの情報はさだかじゃないにしろ、
気になったので直球でこの質問を投げつけた。
「そっか・・・知らなかった。
あそこは死んだ人が戻ってくるって・・・」
僕ははっと気づいた。
彼女の母親は、彼女が成人してすぐに病気で亡くなったと聞いたことがある。
「ユリちゃん・・・もしかして、お母さんに?」
「うん・・・結婚するなら報告したくて。
でもいざ渡ろうとすると、なんか怖くなっちゃって。
本当にあの橋の向こうにお母さんが立ってたらどうしようって」
ユリは下を向いて、おどけた風に小さく微笑んだ。
「ごめん、変なこと言って・・・疑った訳じゃないんやで。
でもユリちゃん、お母さんの話あんまりしてくれんかったから、
触れたらあかんことなんかなって思ってたけど・・・
よかったら話してくれんかな」
僕とユリとは肉体的には進展があったが、
気持ちのつながりをもっと強いものにしたいと思っていた。
だが、僕の気持ちとはうらはらに、彼女はいつも何か一線踏み込めないところがあった。
それが僕にとっては寂しくもあり、彼女を信じる自信を弱くさせるところだった。
時々、中身が空気だけの浮き輪を抱いているような、空しい気持ちになることがあった。
「私のお母さんはね、私が中二の時からのお母さんなの」
「えっ?」
僕は色んな家庭環境が頭をよぎった。離婚?継母?
「私ね・・・いつか言わなきゃと思ってたんだけど・・・
私・・・
孤児院で育ったのよ」
「えっ・・・」
僕は驚いた。
どす黒い煙の塊を喉につめこまれたような、
そんな声をあげてしまった。
彼女は今まで一度だってそんな話をしてくれたことはなかったし、
そんな素振りも見たことが無い。
僕はちょっと動揺して、言葉が出てこなかった。
「やっぱりお寺のお嫁さんには不向きかな?」
ユリはぺろっと舌を出した。
こんな時でも気丈に振舞うのは彼女らしい。
「そんなこと・・・ある訳ないやろ」
僕は思わず机をドンと叩いた。
「なんで今まで話してくれんかったん」
「ごめん・・・でも会ってすぐ話すもんでもないでしょ?
この人が、この事実を知っても、私のこと捨てやしないか・・・
話しても大丈夫な時が来るまで黙っとこうと思って」
「捨てるなんてそんな・・・
そんな心配何にも要らん。
で、ユリちゃんは中二まで孤児院で・・・?」
「うん。私が孤児院に入ったのは小5の時。
両親が借金で私を育てられなくなってね。
二人とも今はどうしてるか分からないの。
私は孤児院の前で車に降ろされてそれきりだから」
「それで、あんまり子供の頃の話してくれんかったんか?」
「そうね・・・でも今となれば、いい思い出しか残ってない。
割とお嬢さんだったのよ、これでも。
家は白金でお手伝いさんもいたし・・・
だから両親は貧乏が怖かったのかも。
孤児院での私はね、昔のリッチだった頃の記憶が忘れられなくて、
お高くとまってて感じ悪かったから、友達もいなくてすごく浮いてた。
養子縁組はほとんど、幼少の頃にされるから、
もう小5になってた私には無縁の話だと思ってたの。
でもね、3ヶ月に一度、ボランティアで髪を切りに来てくれる散髪屋さんがいてね。
それが私のお父さんとお母さん・・・
あ、そうだ」
そう言いかけると、ユリは自分のカバンから手帳を取り出して、
一枚の写真を見せてくれた。
「ほら、お母さんの口元見て」
ユリが指差した、散髪屋の前に立つ美しい女性の上唇の上に、
彼女と同じほくろがあった。
「同じ場所にほくろがあるわねっていつも話しかけてくれたの。
あと髪がまっすぐできれいだって」
僕は彼女が神戸のホテルで言いかけていたことを思い出した。
(このほくろのおかげで・・・)と。
「だから私、いつもむすっとしてたけど、
散髪が来ると一番のりして切ってもらいに行った。
いつも皆が並ぶずっと前から待ってたの。
私は孤児院では難しい子だったけど、散髪だけは好きな変な子だって、
先生は影で言ってたみたい。卒業してから聞いた。
お金は持ってないくせにプライドだけは高くて、可愛気がなかったと思うわ。
だけどお母さんに気に入られて、私は散髪屋さんの養子になったの」
僕は想像以上の話に絶句した。まるでドラマか何かを見ているような感じがした。
ただ、幼いユリが、足をぷらぷらさせながら、独り食堂かどこかで、
物悲しそうに待っている姿は、はっきりと想像できた。
「そっか・・・ちょっとびっくりした」
僕はよつんばのままユリに近づき、ぎゅっと彼女を抱きしめた。
「ユリちゃん・・・僕、何にも変わったりせえへんよ。
安心して、何でも話して」
僕は彼女の頭を、生徒にやるようによしよしと撫でた。
彼女は嬉しそうに肩をすくめた。
「圭ちゃんならそう言ってくれると思ってたんだ。ありがと」
「で?巨人ファンはいつから?」
「そうね・・・うちのパパ、あ、産みの親の方ね。
あっちは早稲田でラグビーやってたから、あんまり野球に興味なかったの。
巨人ファンデビューは意外に遅くて、散髪屋さんに行ってから。
お父さんがすっごいファンでね」
「へえ」
「でも私も最初は興味なかったんだ」
「じゃあなんで?」
「お母さんが亡くなってからよ。ここまで応援するようになったのは」
「そうなん?」
「うん・・・お父さんはお喋りなお母さんと対照的でね、
すごい無口で何にも喋らない人だったの。
で、お母さんが亡くなってから、会話に困ってね。
それでなくてもお母さんを失った悲しみでふさぎこんでたから。
最初はスポーツニュースで巨人が勝ったかどうかチェックして、
お父さんに知らせるようにしてたの。
そしたらお父さんちょっと嬉しそうに笑ってくれてさ・・・
それからよ。どんどんエスカレートして・・・こんな風になっちゃった」
僕は、本をめくるようにどんどん明らかになる彼女の過去を、神妙な気持ちで聞いていた。
今まで何も知らずに巨人ファンである彼女を否定していたところがあった。
いくら好きでもその部分は見て見ぬふりというか、それほど深く追求しなかった。
こんなに意味のあることだとは、と、僕は今までの態度に謝りたくなった。
「ユリちゃん・・・」
「私もここまでファンになるとは思わなかった。
今では自分が喜ぶためでもあるのよ。
圭ちゃんに会うまでは、何か会社で嫌なことがあっても、
松井のホームランを見たらバンザーイって胸がスカッとしたわ。」
彼女は僕の腕の中で、すっかり安心した子猫のように身を委ねた。
「お父さんに会いに行こう」
「へっ?」
「あっと。その前に・・・」
僕は咳払いをして、正座しなおした。
「ユリちゃん、僕と結婚して下さい」
僕は改めて頭を下げた。
「ごめん、とっさで指輪も花束も用意してないけど、
また買ってくるから、今言わして」
ユリは口を結んで、泣くのを堪えているようだった。
「はい・・・こちらこそお願い致します」
ユリは慎ましく正座をして頭を下げた。
純和風の儀式のようで、僕らはふっと噴出した。
「よかった、巨人が優勝したらね、とか言いわれそうやったから」
「あーっ、それいい!」
ユリは手を叩いて、はしゃいでいた。
「ああ、あかんよ、そんなん言ったら。
さ、髪を乾かさんとな」
僕はドライヤーで彼女の濡れた髪を乾かした。
彼女の母親が言うとおり、彼女の髪は真っ黒でしなやかで弾力があり、
アイロンをあてたみたいにまっすぐだ。
こんな風に優しく触れられるのが、ユリにとって至福の時間だったのだろう。
「ほんまにきれいな髪やなあ」
僕は、乾いてサラサラになった髪に指を通しながら彼女を褒めた。
「褒めすぎですよ」
彼女は恐縮したが満更でもなさそうだった。
ところでユリは、一条戻り橋で誰に会いたかったんだろう。
育ての母親だとは思うが、生存がはっきりしない本当の両親にも会いたかったのではないだろうか。
僕はそこまでは聞かなかった。
いつか彼女が言いたくなったら聞いてみたいと思う。
「圭ちゃんは死なないでね」
ユリは、背後でドライヤーを持って鏡に映る僕を見てそうつぶやいた。
「えっ?」
僕はドライヤーの風の音で聞こえないよ、と言う風に、耳元に手をやった。
「死なないでって言ったの!」
ユリはちょっと大きな声で、可愛く甘えたように言った。
「死なへんよ。僕には仏さんがついてるさかいな」
僕は急にひどく切なくなった。
ユリの背負ってきたものが、何の苦労も無く平凡に過ごしてきた僕にのしかかってきた気がした。
K君を特別支援学級に行かせてしまったり、美智子を越智に預けて帰ってしまったり、
皆僕にそれほど期待はしていないにしろ、彼女だけはしっかりと守っていかなければならない。
でもそれは億劫でも恐れでもなく、幸せであると僕は思う。
彼女がいれば何でも出来そうな気がした。
彼女はそんな話をして同情をひきたいタイプではない。
むしろ、可哀相だと思われるのを嫌う、
どんな時でも堂々としている真のお嬢様なのかもしれない。
帰り際、ユリがためらいながら僕に言った。
「さっき、髪を乾かしてもらってる間考えたんだけど、
一条戻り橋が会いたい人に会える橋だとしたら・・・
私は圭ちゃんに会いたかったのね。
圭ちゃん、あの橋で私を見つけてくれたでしょ。
願い方を間違えたのね、死んだ人じゃなくって、会いたい人を思ってたんだわ」
僕らは来月東京に行くことに決めた。
− 幸せの結末 −
蒸し暑い京都を出て、新幹線に乗り東京に着いた。
彼女の家は巣鴨の商店街にあると言う。
ユリはちゃっかり東京ドームのチケットを3枚購入して、
今晩の試合の準備をしていた。
僕は自分から言い出したこ事とは言え、食欲が無くなるほどかなり緊張していた。
電車を乗り継ぎ、下町の雰囲気漂う巣鴨に着いた。
東京駅に着いた時の都会的な感じとは違って、
街はおばさん達が買い物している姿ばかりが目についた。
何故かユリの顔つきも血の気のない能面のようになっていた。
「ユリちゃんも緊張してるん?」
僕は冗談ぽくそう言うと、彼女は、
「あの・・・前に話してた通りだから。
お父さん無口だし、私もそんなに話さないんだ。
コンタクトの手段は巨人のことだけだから」
と言い、真っ直ぐ前だけを向いて商店街を歩いた。
5分位歩くと、ユリは、昭和レトロな感じの散髪屋の前でピタッと足を止めた。
店の玄関には、散髪屋のサインポールが回っており、透けた茶色のガラス戸を、
ユリは何の迷いも無く勢いよく押し開けた。
「ただいま」
「あれ?ユリちゃんじゃない!?おかえり!!」
威勢よく迎えてくれたのは、椅子に腰掛けた客のおじさんだった。
ワンテンポ遅れて、ハサミとくしを持ったおじさん、いやお父さんが、
ゆっくりこちらを向いて、「おかえり」と言った。
特に歓迎する訳でもなく、久しぶりの再会に感動する訳でもなく、
マイペースでのんびりとした感じで、すぐに客の髪にハサミを入れ始めた。
「こちら、田中さん」
お構いなしにユリが僕を紹介する。
「は、はじめまして。田中圭吾と申します。
お仕事中突然お邪魔致しましてすみません」
僕はお辞儀をしたまま、父親の言葉を待ったが、すぐに返ってきたのは客からの言葉だった。
「ユリちゃんの彼氏?イケメンだねえ。
小学校の先生なんだってえ?ユリちゃんも固いの捕まえたね!」
江戸っ子風な粋な喋り方だった。
「奥にお通しして」
ユリの父親は、真剣な眼差しで鏡を見つめ、
僕らのほうを向いている客の顔を正面に向きなおさせた。
「どうぞ」
ユリもなんだか素っ気ない感じだった。
確か京都へ出てから一度も帰っていないと言っていたので、
一年半位は会っていないはずなのに、お互いよそよそしい感じだ。
客の方が馴れ馴れしいというか、隣の家庭に土足で入り込むような、
あつかましいくらいの親しみさを感じさせた。
(僕はこういうの結構好きだ)
「じゃあね、おじさん」
ユリは客に鏡越しに手を振ると、僕を奥の和室へ通してくれた。
「ユリちゃん、巨人強いねぇ!」
客が元気よくそう言うと、彼女は「今日ドーム行くのよ」と、誇らしげに言った。
「たけちゃんも行くのかい」
客はユリの父親に聞いている。
ユリは部屋のふすまを閉め、僕に座布団を「どうぞ」と差し出し、僕は「どうも・・・」と答えた。
彼女の父親は、見た目、短い白髪で口の緩んだ優しそうな人という感じだ。
散髪屋というより、音楽家かアーティストみたいにも見える。
言葉は少ないが、笑うと目の下のシワがでて、なんともいい人そうに見える。
確かに気の利いた言葉は言いそうにない。
客商売と言っても腕だけで勝負するタイプか、それとも、
あの寡黙な感じで時折見せる笑顔が人々を魅了させているのか。
僕は色々想像しながら、落ち着かない様子で、ユリの父親が来るのを待った。
「そんなに緊張しないで」
「そうは言っても・・・」
僕は正座のまま、拳をぎゅっと握り締めていた。
「今の打点王は?」
「小笠原・・・」
「今のセリーグ、ホームラン王は?」
「ブランコ・・・」
「二位は?」
「ラミレス・・・」
「坂本と同級生なのは?」
「田中まーくん・・・って今それ関係ある?」
「さすが私が仕込んだだけのことはあるわね。
それだけ答えれたら大丈夫」
ユリは明るく言いながら、急須にお茶を入れ、3人分の湯飲みにそそぎ、
そして僕の隣に座った。
しかし、いつまで経っても父親は現れない。
15分くらい前に客は帰ったようなのに。
「私、お店見てくる」
ユリがしびれを切らして、お店に向った。「お父さん!」
彼女が呼ぶと、お店の方から「はいはい」とのんびりした声で返事があった。
「もう、お父さんタバコ吸ってた」
ユリが部屋に戻って座りなおした。
そして、おずおずと父親が登場した。
改めて見ると、細身で割りと小柄な人だ。
「やあ、お待たせしました。遠くからわざわざ・・・」
父親は僕達の向かいに正座し、膝に手をやり、深く頭を下げた。
「あの、僕、ユリさんとお付き合いさせて頂いている田中圭吾と申します。
挨拶が遅くなりまして、誠に申し訳ありませんでした。
それでその・・・もっと早くご挨拶に来るべきだったんですが・・・
ユリさんとはその・・・真面目にお付き合いさせて頂いておりまして・・・
その・・・この度、結婚を前提にということで、お許しを頂けないかと、
お願いにあがりました。どうぞよろしくお願いします」
僕はまるで運動会の選手宣誓のように大きな声を出していたと思う。
「それはそれはご丁寧に・・・
こちらこそよろしくお願いします」
ユリの父親は両手をたたみにつけて、再度深く頭を下げた。
「ところでお父さん、今日の試合なんだけど」
ユリが僕らのかしこまった挨拶を一掃するように言った。
「うん、先発誰?」
父親はぱっと頭を上げて、目を輝かせた。
「えっ・・・」
僕はいつもユリから発する巨人ファンオーラを感じた。
そこから嘘みたいな勢いで、父娘は巨人の話で一気に盛り上がった。
大事な報告をしたつもりだったのに、軽く思われたのだろうか。
しかし、父親の礼儀正しい受け止め方は紳士的だった。
横で延々と続く巨人の話を聞いていると、どこでそんな情報仕入れたんだと思うほど、
すごく濃密な内容で、コーチ陣や二軍の選手にまで話は進んだ。
僕は唖然としながらも、時折は父娘の話に相槌をうったり、
知る限りの情報で話を合わせたりしていると、二人は高らかに笑い上機嫌だった。
おかしいと思うことがもうひとつあった。
一年半ぶりの再会だと言うのに、ユリの近況報告が一切なかった。
ほとんどが巨人、巨人、巨人の話。
夕方になると、僕らはユリが頼んだ出前のうな重を食べ、水道橋に向って出発した。
僕の緊張は驚くほど自然に溶けていた。
ユリの父親は、完全なる”いい人”と見てとれたし、
その安心感と、野球という共通点がなんだかもう他人ではないような、
そんな雰囲気にしてくれていた。
電車で東京ドームに着くと、僕らはビールとポテトフライを買って、
ユリ持参のタオルとメガホンを片手に、一塁側上段の外野席に座った。
僕も一緒になって、知らないうちに巨人を応援していた。
クーラーの効いた居心地のいいドームは、
六甲山から吹く風とはまた違って気持ちよく、これもいいなあと思えた。
試合も中盤にさしかかった。ユリは僕の存在など忘れているかのように、
試合に熱中している。(いつものことだが)
僕は声もかけずに、トイレへ行く為席を立った。
用を済ませ、座席へ帰ろうとした時、喫煙ルームでタバコを吸っているユリの父親の姿を見つけた。
僕は隣に立ち、「どうも」と頭を下げ、備え付けのテレビに目をやった。
巨人の攻撃が始まっている。
「君も吸いますか」
父親は僕にタバコを差し出した。
僕はユリと付き合いだしてから、タバコは控えるようにしていたのが、
特に禁煙を求められていた訳でもないので、話の流れで、
「いただきます。すみません」
と、タバコを受け取った。
父親は背広のうちポケットからライターを出し、僕のタバコに火を点けてくれた。
「ユリはあんな風だから大変でしょ」
父親は小さく微笑むと、タバコをふかした。
「いえ・・・そんな・・・」
僕はどこまで砕けて話せばいいか分からず、久しぶりのタバコを吸った。
「僕たちのことは・・・」
「あっ、はい。聞いてます」
「そう、よかった。僕もねえ、ユリから手紙をもらってて、
君がお寺の息子さんで先生だって言うからさ、
どうかなあ、合うのかなって心配してたんですよ」
初めて見せる父親の顔だった。
「それは何も心配要りません。大丈夫ですよ」
(それよりも家族親族全員が阪神ファンなのが問題かもしれない)
そう思いながら、僕は初めて沢山話してくれる父親に驚いていた。
「ユリはいつもチャラチャラした格好してるでしょ?
いい歳してね。昔はあんな格好してるとモテてたみたいで、
いまだに勘違いしてるんですねえ」
「えっ」
「でも君という素晴らしい青年に出会えたんだからやめればいいのに・・・
ほんと困った娘ですね、全く。
小さい頃はお高くとまってて、誰も寄せ付けない感じだったんだけどね、
中学くらいから髪を染めて、短いスカートはいて、ルーズソックスはいてね、
そうすれば誰かが声をかけてくれて、話を聞いてくれるんじゃないかって
思ってたんじゃないかなあって、今になって思うんですよ。
私は何にも聞いてあげられなかったから・・・
妻を亡くして、ショックで毎日ぼうっとして、何にも手につかなかったんです。
全く情けないことに・・・
だけどユリが気遣ってくれて・・・でも彼女もなかなか素直になれない子だから、
お互い探りあいながら一緒に暮らしてきました。
で、結局、これが私達をつなぐものだったんです。
というか、ユリが合わせてくれたんですけどね。
今ではユリが私を上回ってますけど。
おかしな話で、分かって頂けないかもしれませんが・・・
私は父親失格です。田中君、どうか、娘と本当の家族を作ってやって下さい。
どうかお願いします」
父親はこんな大事な話を、東京ドームの喫煙コーナーで、
タバコを一本吸い終わるまでに全部済ましてしまって、
どうしてさっき家でしてくれなかったんだと
僕は少し疑問に思いながら、姿勢を正して「はい」と返事をした。
「さすがお寺の息子さん、いい声をしているね。
・・・ありがとう。さ、戻りましょうか」
父親は話したいことが話せたのか、ほっとした様子でにっこり微笑んだ。
僕はやっと彼女が意地になってまで巨人ファンを貫いていることが理解できた。
その喜びと同時に、不器用ながらも懸命に家族を作ろうとした彼女の努力、
そして自分がそこに居なかったという悔しさに、胸が押しつぶされそうな位苦しくなった。
無理な事だとは分かっているが、もっと早く彼女と出会って助けてあげたかったと思う。
助けるといっても、今の僕でも力不足だが、ずっと傍に居てあげたかった。
僕はじわり溢れ出る涙を、父親に気づかれないように袖で拭くと、後に続いて席に戻った。
「もう二人して大事なとこ見逃したわよ!
あーっ、圭ちゃんタバコ吸ったでしょう」
ユリはメガホンを持ち、ウサギの耳のカチューシャをして、大歓声の中僕らに言った。
「亀井のホームランよ!」
グラウンドを見下ろすと、両手を万歳させてホームベースを踏む亀井の姿があった。
「やったやった!!」
ユリは興奮して父親とハイタッチをした。
そして僕は、喜んでいる彼女と、それを見て幸せそうにしている父親を見守るように、
携帯電話のカメラで二人の写真を撮った。
僕はこの時の父親の表情を忘れない。
娘が笑顔ならそれだけで幸せという真の父親の顔だ。
僕は夫としてこんな風に彼女を見つめていくのだと自分の中で誓った。
コミュニケーションの仕方なんてどんな風でもいいのだ。
お互いが通じ合っていればそれで・・・
僕は見上げた。
空の無い機械的な球場を。
観客の気持ちが一体となって、歓喜に沸いた球場のてっぺんを。
堪えきれなくなった涙のせいで、全て滲んで見えていた。
一年後、僕の見上げた先には、ライスシャワーが飛び交っていた。
新郎新婦が教会の階段を、友達や親戚の祝うなか、満面の笑顔で降りてゆく。
「こうなるなんて予想したか?」
沢村が拍手を送りながら僕に文句を言ってきた。
「そんなにしょげるなよ」
「だって普通結婚してたら諦めるだろ」
今日は越智と美智子の結婚式だ。
彼らは検査の結果、エイズには感染しておらず、越智は美智子の離婚を機に本格的に付き合い始めた。
「それにお前まで・・・俺に隠れてぇ」
沢村は悔しそうに、僕の影に隠れるユリをちらっと見た。
「見るなよ」
「いいだろ」
「見るなって」
僕らがふざけあっていると、前を通った美智子が、
幼児を見守るような微笑ましい目で僕らを見た。
「あの子がアイドル?」
ユリはちょっと羨ましそうに言った。
「僕のアイドルはユリちゃんだけやで」
ちょっとお調子者みたいだったが、僕は彼女の耳にこそっと言った。
僕らは、越智と美智子のような、苦難を乗り越えていくようなハードな愛とは程遠いかもしれないが、
穏やかに愛を育んでいる。
衝突することもあるが、僕は彼女の機嫌を直す方法を知っている。
僕の力だけではどうにもならないこともあるが・・・
この年、2009年巨人は二年連続のセ・リーグ優勝を果たした。
僕の隣には、恋人の事と同じくらい熱中している、最強の巨人ファンがいます。
− 取り扱い説明書(彼女が巨人ファンの場合) −
僕の彼女、ユリは・・・
美人で、スタイルが良くて、惜しげもなく長い手足を人に見せて歩いているけど、
実は古風でおしとやか。
博学で、賢くして、気が強くて、そして変わり者。
記憶力が抜群に良くて、(巨人の選手の出身校、リトルリーグの名前まで言える)
あんまり素直じゃなくて不器用だけど、僕の前でだけは子供みたいに甘えてくる。
芯はぶれない真っ直ぐな女。
僕の心をわしづかみで持っていった、
…愛しい恋人。
そして、強烈な巨人ファン。
ここでまず、彼女、ユリの言う「巨人ファンの常識」について書いていきたいと思う。
1. 巨人はプロ野球界で一番のブランド球団。
選手は誰しも巨人に入りたいと思っていると、信じて疑わない。
彼女は言う。
「絶対皆、巨人に入りたいのよ。みーんな。きっとね」
2. 試合に勝った日は、スポーツニュースを時間差でチャンネルを替えて、
全てチェックし、何度も喜んで万歳をする。
彼女は言う。
「こんなに楽しいことないわ!」
3. 試合に負けた日は、絶対スポーツニュースを見ない。
コンビニで報知新聞も買わない。
彼女は言う。
「負けたなんて認めないもん」
4. 阪神が優勝したことを記憶から消去している。
彼女は言う。
「そんなことあった?知らないけど」
5. 携帯電話に、巨人の今日の選抜メンバーの発表、逆転打、ホームランのお知らせが届く、
”ホームランメール”に登録している。
彼女は言う。
「巨人ファンならマストよね!あなたも入れば?」
ちなみにこれに「大リーグメール」も付いてきて、日本人メジャーリーガーの情報も届く。
6. 阪神を敵視していないと豪語する。
彼女は言う。
「伝統の一戦?こっちはライバルだとは思ってないわよ。
何勝手に盛りあがってるの?」
軽くあしらうように鼻で笑っている。
7. 巨人ファンの仲間内での会話は、選手の名前を苗字ではなく下の名前で呼ぶ。
彼女は叫ぶ。
「よしともー!」(谷のこと)
「たかひろー!」(鈴木のこと)
巨人ファンが「アレックスがさぁ…」と言うと、ラミレスのことである。
全く誰の話をしているか分からない。
8. 長髪で髭が生えていると、いくらイケメンでも「かっこいい」と言わない。
彼女は言う。
「小笠原が髭を剃った事、可哀相とか言う人がいるけど、
巨人でプレーすることはそれほど名誉なことなのよ。
先生だって、夏休みとか髭生やしたままだけど、
新学期前には剃るでしょ、それと同じよ」
僕が珍しく反論する。
「じゃあ日本ハム時代は彼の夏休みやったん?」
「そんな感じよ」
と、彼女。
そして続けた。
「竹ノ内豊の髭だけは許すけど」
(何故だ!!!!)
9. キムタクと言えば、SMAPの木村拓也ではなくて、
巨人の木村拓也(漢字も同じ)のことである。
彼女は言う。
「キムタクっていい仕事するよね」
こういうと、SMAPのキムタクがドラマで視聴率を稼いでいると、
一般的には思いがちだが、巨人ファンのなかでは、
巨人のキムタクが代打で送りバントを決めた時に使う台詞なのである。
以上、これがあくまで彼女が言う「巨人ファンの常識」なので、
巨人ファン全員がこんな感じではないので、ご了承頂きたい。
そして肝心の扱い方だが、はいはい、そうですねと笑顔でかわす事しか出来ない。
反論しようものなら、頑として折れない巨人愛を語られるだけだからだ。
もし、君の彼女がこれほど熱烈な巨人ファンなら、
熱中することがネットゲームや怪しい宗教じゃないだけマシだと思うしかない。
浮気の心配はないかもしれないが、同じ巨人ファンの男性と意気投合することがあるかもしれないので、
できればこちらも広い心で、彼女に気持ちよく巨人の話をさせてやると満足するはずである。
巨人ファンは年配の方が多いので、それほど心配することはないかもしれないが。
彼女の笑顔をキープさせておきたければ、君がいくら他の球団を応援していても、
巨人の優勝を願うしかない、それが、最後には君の幸せになるのだから。
それも男の愛の形だと僕は思う。