13-6
…。
ナナ。
―― 目をお開け、ナナ ――
それは、少女にとってどこか懐かしく、慣れ親しんだ者の声だった。
紛れも無く。
彼女にとって、この世でたった一人の縁者の声だった。
そんな声に優しく導かれるように、手を引かれるようにして。少女は目を開く。そして目の当たりにする。
この椅子の、名前の由縁たる、その力を。
「…… おにい、ちゃん?」
「ああ。久しぶりだね、ナナ。また少し大きくなったかな?」
ぐったりと意識を失う神官と、その体を媒介にしてナナイロの目の前に出現した幽かなる彼岸の魂。少女と同じ、銀髪の青年。
「本当に、お兄ちゃん… なの?」
「すまないな。つまり、そういう事だ」
ナナイロはその瞳に大量の涙を浮かべ、まるで自分に言い聞かせるようにして、ようやく言葉を紡ぐ。
何かの間違いであって欲しい。そんな彼女の思いは、儚く消える。
「どうして、どうしてなの? お兄ちゃん」
「… 悪いが、時間はあまり無いようだ。ナナも理解しているだろう? 俺がこうやってナナの目の前に現れたということは、俺はもう、この世に居ないということだ」
その涙は。決して感動の再会を祝す涙などではなく。
正真正銘、唐突にやって来てしまった決定的な決別の涙。
「きっと、きっとどこかで元気に暮らしてるって思ってたのに! この旅を通じて、また会えたら。そう思っていたのに!」
「大きくなったと思ったが… やれやれ。やはりまだ泣き虫なままだったな、ナナイロ… どうやら、もう本当に時間切れらしい」
たった数十秒の再会。
その再会が彼女にもたらしたものは、吉報か或いは凶報か。彼女にとっての福音は、未だ遥か遠く。
「お兄ちゃん、ねぇ、待ってよカラタチお兄ちゃん! ナナは、ナナは」
「…… ナナイロ。《琥珀色の大図書館》を探せ。そこに俺の総てを遺してきた。俺の研究の成果、俺の人生。総てはお前の為に」
「お兄ちゃん!」
「ナナイロ。憶えておけ… 救済は誰のもとにも平等に訪れる…… 一つの例外もなくだ…。さようならナナイロ……。妹の事を、後は、頼んだぞ… キル、ケ……」
やがて。ナナイロの兄、カラタチ=エコーは光となり、消える。
後に残るのは、彼の遺した言葉と、残酷な現実と、少女の嗚咽と言う名の儚き残響のみ。
揺らぐ魂が彼岸へと還り。その椅子の守り手としての役割、神官としての役割を終えたトバリの意識が再び覚醒する。
「あらあら。ナナイロちゃんのその表情を見る限り、椅子はきちんと彼岸へ導いてくれたようね。その結果に対してどう受け止めるかは、ナナイロちゃん、今後のあなた次第よ。その記憶はずっとナナイロちゃんだけの物なのだから」
そう告げた後、椅子から立ち上がり部屋の窓を全開に開け、女神官が続ける。
「もうすぐ日も暮れるわ。ナナイロちゃん、今日はこの神殿に泊まって行った方が良いと思うのだけれど、どうする?」
そんな彼女の問いかけに対し、涙と鼻水でぐしゃぐしゃとなってしまった顔面を、自らの修道服の袖でぐいっと一拭きした後、少女は強く決心する。
「いえ。ナナ、行きます。お兄ちゃんがナナに示してくれた路ですから。ナナは、立ち止まっていてはいけないのです! 例え、一分一秒でも」
「そう… それがあなたの答えなのね? 分かったわ。だったら出発は早い方が良い。いいわね? 夜の帳が降りる前に、必ずこのグレイヴヤードを抜けるのよ? 闇夜となった廃墟の街の上空は、アンシリーコート達の溜まり場」
こくり。
力強く頷いたナナイロは、小脇に灰色猫を抱きかかえ、彼岸の椅子から立ち上がる。
「トバリさん、どうもお世話になりました! くっきー、とっても美味しかったです」
「ふふっ。こちらこそ、すっかりワタクシの喋り相手になってもらって。そうだ、ナナイロちゃん… 餞別代わりに、一つ良いことを教えてあげる」
「良い事? はて、なんでしょうかねぇ?」
「この椅子のもう一つ呼び名。この椅子に座り、啓示を受け取った者は、必ずその願いを成就させると言われているの。故に、《悲願の椅子》。さぁ、ナナイロちゃん、どうぞ気をつけていってらっしゃいね」
「はいっ!!」
時刻は黄昏時。彼岸が明け、やがて沈みゆく太陽を止める事は、もはや誰の手によっても叶わない。
だがしかし、そしてしかし。陽は、また昇る。
対岸に想いを馳せ、日々、願う。そんな明日を求める遍く者達を、優しく照らし出す為に。
果たして《残響》は、少女に如何なる未来をもたらすのだろうか?
END