11-6
そして。
舞台は再び、一人と一匹へと舞い戻る。
「師匠、師匠ってば! さっきから難しい顔しちゃって、一体どーしたんですか?」
「いや、ちょっとにゃ。気になる気配がしたのにゃ」
「それより聞いてくださいよホーラク師匠。ナナ、さっき物凄いもの目撃しちゃったんですよ! ぷぷっ、聞いて驚かないでくださいねぇ。なんとなんと、腰に付けた鞘で腹話術をしてるおねーさんが居たんですよ! ぷ、ぷぷぷっ。隣に魔女のコスプレっぽい格好してた人もいましたし、あれ、絶対旅芸人の一座ですよ! はぁー、不肖このナナ、旅芸人さんって初めて見ました! とってもとっても感動です! やぁー、凄いですよねぇ、そー言えば漫才もしてましたよ~。プロですねぇ」
そんな彼女の戯言を意に介さず、灰色猫はいつも通り淡々と告げる。
「… こっちの気配は、やはりアンシリーコートだにゃ。どーやら、ここらでも暗黒の類が出没したみたいにゃ」
「へー、物騒ですねぇ。何だか雨も降ってきましたし、どーします? 師匠。今日はここまでにして、どこかに宿をとりましょうかねぇ?」
ぴんと尻尾をアンテナのように立てた灰色猫は、愛弟子からのそんな問いかけに対しふと目を瞑り逡巡する。
「いや。やっぱりもう少し先に進むにゃ。奴らが出没したって事は、ここらはもはや安全地帯とは言えない。色々とにゃ。だから、ニャニャイロには無理を言ってしまうかもしれにゃいが、今日はもう少しだけ先を急ぐのにゃ」
「わっかりました! 不肖このナナ、元気だけが取り柄ですからッ!」
彼女のそんな返答を聞いた灰色猫は、一度だけコクリと頷きながら告げる。
「だったら善は急げにゃ。っと、その前に念のため一度この先の道を視て来るにゃ。くれぐれも、ニャニャイロはここを動かないよーに。良い子にして大人しく待ってるのにゃ」
「やだなぁ師匠、ナナは子供じゃないんですからねぇ」
「そう言って何度迷子になり掛けたか、待っている間、胸に手を当ててよーく思い出しておくといいにゃ」
―
そんなセリフを残し、灰色猫は小雨の降る中これから進むべき針路の先へと、四足歩行で走り抜けていった。
それからどれくらいの時間が経ったのか。
灰色猫が走り去ってから間もなくの出来事、もしくは、この雨脚が強くなる程度には時間が経過した後の出来事。
ザアザアと鳴り響く雨音だけが世界の全て。
雨はまるで、尽きる事無き星のように降り注ぐ。
呪いと祝い。
必然か偶然か。或いは、導かれるようにして。惹かれ合うようにして。
非点収差の雨の中。二人は、出会う。
―
「…… 君、一人ですか?」
「えっ?」
何の前触れも、何の気配も無く。
その人物は、彼女の目の前にいつの間にか立っていた。
年の頃も、その身長もナナイロとそうは変わらないくらいの少年。
しじまと共に現れた少年。
確かに今も雨は降り続けているにも拘らず、ナナイロのその耳には、もはやその音は入ってこない。あるのは、そう、優しく語り掛ける少年の言葉と、ひたすらの静寂。
「この大雨の中でそんな格好をしていたら、たちまち風邪を引いてしまう」
雨のせいでその顔ははっきりと見えないものの、目の前の人物をぽかんと見つめるナナイロに対し。そう言って片手に持つ、自らの鮮血の様に真っ赤な《日傘》を、有無を言わせずナナイロへと差し出すとある少年。
「え、ぇええ? いや、そんな。滅相も無いです。ナナは大丈夫ですから! それに、そんな事をしたら今度はあなたが雨に濡れちゃいますよぉ!」
「いえ。良いんです。僕が使うよりもずっと良い。良く似合ってます。それに僕は、幸いこれから宿に戻るところですので。君は…… 旅を続けるのでしょう? だったら尚更、その身体は大切にしなければならない」
「で、でもでもですねぇ」
相変らずその顔は見えないものの、優しく微笑み、その黒革の手袋をした片掌で、ナナイロの頭をぽんぽんと撫でる少年。
「では、僕はこれで。君の旅の成功を、心から祈っています」
「えっ、あっ、ちょっと」
撫でられ、フードで隠れてしまった視界を元に戻した時には、その少年の姿は跡形も無く消え去った後。実際は、この雨の中で姿が視認出来なかっただけかもしれないし、本当に消えるようにしていなくなってしまったのかもしれないし、そもそも本当にそんな少年が目の前に居たのかどうか、それすらも妖しくなるほど、辺りは再びの雨音に包まれる。
幻のような、刹那の名残。
少年が立ち去った跡に残ったのは、激しい雨音と真っ赤な日傘。
「どこのどなたか存じませんが、まともなお礼も言えませんでした。そー言えば、ナナってばちゃんとした雨具さえ持ってませんでしたからねぇ。確かに助かっちゃいましたけど、シスターとしては失格ですよ、これって」
些かの独り言を吐き出しつつ、ナナイロはあさっての方角を見つめ叫ぶ。
「ってか、師匠おそっ! あんな事言ってたくせに、これじゃどっちが迷子かわかりませんねぇ」
と、その瞬間。彼女の背後からぬっと姿を現した一匹の灰色猫が、機嫌の悪そうな顔で、そして全身ずぶ濡れの身体を携えてノソノソと彼女の前にやってくる。
「ノロマで悪かったにゃ。一体誰のせいで遅くなったと思ってるのにゃ? 長旅だっていうのに、まともな雨具の準備さえしていなかったニャニャイロのために、色々と確保してきてやったからこそのこの時間にゃ。責めるにゃら、自分を… って、ニャニャイロ!? そ、それ、どうしたんんだにゃ?」
赤の日傘に身を包んだナナイロの姿を改めて視認した灰色猫は、驚きと、そして一抹の不安を胸にして恐る恐るそう尋ねた。
「あっ、これですか。んふふっ、いやー、この世界もまだまだ捨てたものじゃありませんねぇ、師匠。ナナが一人で雨に打たれているのを視るに見かねた心優しい通りすがりの人がですねぇ、ナナにくれたのですよぉ。どうです? 似合ってますか? ナナ、結構気に入っちゃいましたけど。《可愛い形の》傘ですねっ!」
にこにこと笑いながら、そう答えるナナイロと、心此処にあらずといった風で途方に暮れる灰色猫。
「あれ? 師匠? ホーラク師匠? もしもーし、どーしちゃったんですかぁ? お腹でも空いたんですかぁ? 師匠? ししょーってば!」
「失敬だにゃ! にゃーはお腹なんかすいてにゃい! ニャニャイロと一緒にしてもらっては困るのにゃ! ごほん… いや、ちょっとにゃ昔を思い出したと言うか、にゃんと言うか」
まぁ、ありえない話にゃんだけれど。
そう前置きをしながら、灰色猫はやはりどこか恐る恐る、彼女に尋ねる。
「念のために尋ねるのにゃ。ニャニャイロ、その傘をくれた人物は…… 身体に特徴のある少女だったかにゃ? その、例えば… 全身にツギハギや傷跡があったりとか」
「? いいえ。少女じゃなくて少年でしたよ。それに、この雨ですからねぇ。まともに顔なんて見えなかったですよ」
その返答は、果たして灰色猫にとっての吉報か凶報か。ポーカーフェイスを保ったまま、灰色猫が言葉を続ける。
「そっか。そうだよにゃ。その通りだよにゃ。にゃーとした事が、とんだ思い過ごしにゃ。良かったにゃ、ニャニャイロ。君に良く似合う、綺麗な…… 《赤い》傘、だにゃ」
「えっ? … あっ、はいっ!」
明確な答えの出ない事柄に、いつまでも拘っていては先に進めない。灰色猫は、自分の中で結論を出し早々にその話を切り上げ、これから先の事を考える事にした。
「ニャニャイロ、さっきも言った通り、にゃー達は先を急ぐとするのにゃ。多少の強行軍になろうともにゃ」
「はいっ師匠! ナナは覚悟も準備も出来てまっす!」
「にゃー。相変らず返事と気合だけは一流にゃ。ごほん。では、次の針路を発表するにゃ。次のにゃー達の目的地は……」
雨音がやがて穏やかに成り始める頃、一人と一匹は、沈み行くオレンジ色の地平線を背に旅を続ける。
救済を巡る彼女らの旅は、まだ、始まったばかりなのだから。
END