10-3
「ところで師匠。何とか到着したのは良かったんですけど、ここって何ですか? ただの山小屋にしては、その、雰囲気が独得ですねぇ」
「さーにゃ。本人曰く《診療所》らしいけどにゃ。むしろ、素直にぼろっちぃ廃墟って言っても良いレベルだにゃ。これは… にゃにかあったかにゃ?」
「夜だって言うのに、灯りが点いていないのが気になりますねぇ。お留守でしょうかねぇ?」
ナナイロのセリフ通り。
診療所にはランプの灯り一つ灯っていない。まるで闇夜に同化する様にひっそりと、或いは消え入るようにして。
診療所は、ただただそこに在った。
「… いや。いるさ。恐らく奴はここに居る。ただし居るだけ、にゃんだけどにゃ」
「居るだけ?」
「ま。とにかく入るにゃ。にゃー達は吸血鬼の類じゃにゃーんだから。こんなところで立っててもしょーがにゃいのにゃ。例え家主の許可がにゃかろーと、招かれざる客だろーとお構いにゃし!」
そう灰色猫に促されるようにして、ナナイロは件の山小屋のドアへと手を掛ける。
「お、おじゃましま~す。あのー、どなたかいらっしゃいますかぁ~?」
返答無し。
やはり、家主は不在ではないか? そうナナイロが告げようと振り返ろうとした瞬間、闇夜にその目が馴染んできたその刹那。ナナイロの、彼女の両の眼に映る人影が一つ。
まるで彫刻のように、まるで闇と同化するように。ずっとずっと前からそうであったかのように。
それは、ひっそりと音も無く佇んでいた。
イスに腰掛け、ただただ天井を見上げる白衣の陰影。白と黒の混じった立体彫刻のように、動く事なくひっそりと。
「にゃー。居るんにゃら居るで返事位したらどうにゃ? 君まで、《そう》にゃっちまったかと思って、一瞬焦ったじゃにゃいか! やれやれ、久しぶりだにゃ……《グウネ》」
グウネ。そう呼称された白衣姿のその女性は、その視線だけをゆっくりとゆっくりと声の主の方へと向ける。その様はまるで夢遊病患者のそれ、もしくは魂の抜け殻ように真っ青で。
一切の生気が感じられぬ繊細なガラス細工のような儚さと危うさを纏っていた。
グウネ=スカイブルーを知る者からすれば、それは目を疑いたくなるような、或いは目を覆いたくなるような光景。
一体何が彼女を変えたのか? 変えてしまったのか? その姿に、かつての黎明は微塵も感じられない。あるのはそう、ただ単純にそこに存在しているという希薄で幽かな事実のみ。
「………… あぁ、来てたのか。何だよ… 珍しいじゃねーか、《キルケ》」
絞るようにして放たれたそんな独り言にも似たか細い掠れた応答が、かろうじて彼女の魂が未だここに在るという事を僅かながらに証明していた。
「キルケ?」
「にゃーの事にゃ。機会と時間があればいずれ今度説明してやるにゃ。けど、今はそれより目の前のグウネにゃ」
キルケと呼称された灰色猫は、すたすたと四速歩行で彼女の座る安楽椅子へと近づいていく。
「星《惑星》を観ているのか。あーあ、天井にあんにゃ大きにゃ穴まで空けちゃってまぁ。いつからそんにゃロマンチストににゃったんだ? 君らしくもにゃい」
そのセリフ通り、山小屋の天井部分には、ぽっかりと大きな穴が空いていた。老朽化によって空いてしまった、もしくは落下物によって空いたというよりは、人為的に無理やりこじ空けられたような、そんな大穴。
「相変らず失礼な奴だな。アタシだって一応乙女の端くれだ、星を観て黄昏に酔いたい時だって… あるさ」
「やれやれだにゃ、生娘じゃあるまいし。少なくとも君からそんなセリフを聞きたくにゃかった。仮にもそれが、一、研究者の言葉だなんて、とても信じられにゃいな。あぁ、《離反》してからの君は、解呪師兼医師だったか。最も、今はそのいずれも当てはまりそうににゃいような、にゃさけにゃい様子だけどにゃ」
「… そうかよ」
そんな言葉を最後にその口を堅く閉ざし、再び視線を真上へと移してしまうグウネ。
そんなタイミングを見計らって、それまで静観を決め込んでいた少女が、声を潜ませながら灰色猫へと駆け寄る。
「師匠、師匠ってば! これ、どーゆー事ですか? ナナはどーすればいいですか?」
「どうもこうも無いにゃ。つまり、重症ってこと… 主に精神面がにゃ。この件の続きは明日だにゃ。んで、今、ニャニャイロに出来る事はたった一つ。そこのベッドでとっとと寝ること、だにゃ」
「はーい。やっぱりやっぱり、これってちょっとキャンプ見たいですよねぇ。おうちの中に居ながらお空が見えるなんて、ナナは大興奮ですよ!」
その小さな頭を抱えながら、ナナイロに対し曖昧に返答をしながらも、グウネからその両の目を離さない灰色猫。
僅かな光の中から残された希望を見出すため。暗闇の中でその目を真ん丸にしながら、人間よりも多くが視えるその目で妖しく光を反射させながら、灰色猫はじっとグウネを見据える。
そんな視線を、想いを知ってか知らずか。一方のグウネは、ただひたすらに闇色と灰色の混在した真夜中の虚空を見上げるのみ。
そんな、どこか幻想的にさえ感じられる一人と一匹の姿を見ながら、今、ナナイロが考える事。彼女の思考を占める事。
それは…
「あのぉ~、師匠? それはそうと… お夕飯は?」
END