10-2
「にゃー。ニャニャイロ、疲れてにゃいか?」
「なーに言ってるんですか師匠。このナナ、まだまだだいじょうブイです。元気全開ですよ!」
「にゃんと。遠出は元より、生まれてこの方あの村の外に一歩も出た事のにゃいお前さんの事だからにゃ、すぐに根を上げると思っていたのに。思惑が外れてしまったにゃ、これは」
彼女の一歩後ろを歩く灰色猫のそんな呼びかけに対し、どこでも無い空、或いは遥か遠い虚空を一心に見つめる彼女が、ぽつりと独り言のように漏らす。
「ねぇ、師匠。外の世界って… やっぱり綺麗ですね。なんと言いますかねぇ、こう、境界線が互いに交じり合うような感じ? 良く分かんないですけど、良いですね、こういうのって」
「空か… 昔はもっと綺麗だったって言ったら、驚くかにゃ?」
「本当ですかぁ? ナナ、今でも充分感動しちゃってるのに、もっと凄いとか。きっと感動で叫んじゃいますね」
「にゃぜ叫ぶ」
そんな会話の途中、ふいに訪れる凪。
彼女が今何を考えているのか? 何を思い、何を憂い、何を尊び、今、この場に赴いているのか。例え師匠であろうと、相棒であろうと、友達であろうと、分かる筈も無い答え。
だからこそ、灰色猫はあえて言う。
「時は金にゃり、時間は有限にゃ。ニャニャがまだ元気だって言うのにゃら、最初の目的地までノンストップで行くのにゃ」
「はいっ!」
そんな会話の応酬から数時間の後。
一人と一匹は、一番近くの目的地、険しい山脈に囲まれたとある高地の田舎町…
元々高緯度の土地にありながら、その更に高台に居を構えるとある小さな診療所が有名 だった 辺境の町…《ハイネスト》に到着を果たす。
◆
「スぅーーーーーっはぁーーーーーーーー。あーーーー空気が美味しいなぁーーーーーー!!!」
「にゃー。いちいちリアクションが暑苦しいやっちゃにゃー。ってか全然疲れてにゃさそうじゃにゃいか! 心配して損したじゃにゃいか!」
「師匠ってば、口ではあんな事言っておきながら実は結構心配性さんですよねー。あっ、もしかしてあれですか? ツンデレと言うやつですか? 流石師匠、ナウいですねぇ」
「うっさいにゃ! って、それよりニャニャ、あれを見るにゃ。にゃんとかかんとか最初の目的地に到着にゃ」
かつての賑わいは見る影も無く。
町は人々の息遣いを失い、活気を失い、何より黎明を喪失してしまっていた。
夜明けを失ってしまった町に、新しい朝は永遠にやってこない。
碧空と謳われた町の空は、その色を失くし、今はただ灰色に覆われるのみである。
「ホーラク師匠、何だか空が《灰色》になってきましたねぇ。ナナ達の教会や村から数日程度の距離なのに… こんなに空が違って見えるなんて。やっぱり外の世界は興味深いです」
そんな少女のセリフに対し、その場で歩みを止め、自身と同じ灰色の、灰色だけの空を見上げながら灰色猫が言う。
「にゃんにゃん。そうだにゃ、あの教会は丁度境界だったからにゃ… 別に、駄洒落じゃないにゃ。真面目なはにゃし、これが変わってしまったこの世界、この地域の、今現在の空なんだにゃ。一面の灰色。残念にゃがら、そこに星は存在しにゃい」
灰色の空。
日が落ち、黒と灰の交じり合ったその空には、かつての碧空も星空もありはしない。あるのはただ、灰色の空。
「綺麗なお星様が空に居てくれないなんて。何だか寂しい話ですね… それはそーと、師匠。今日はどこにお泊りする予定なんですか? もっ、もしかして、噂に聞く野宿という奴ですか! 教会の宿舎以外で寝泊りするなんて、素敵ですっ! それってそれって、すんごく興奮しますねっ! すんごく興奮しますねっ!」
「興奮せんでいいにゃ。いちいち二度言わなくてもいいにゃ。心配しにゃくとも、ちゃーんと宿の当てはあるのにゃ、えっへん。偉大なる師匠をもっと敬ってもいいのにゃ」
そんなセリフに対し、あからさまに落胆の色を見せる少女がそれに応える。
「むむっ? ちょっと待ってください師匠。猫である師匠の言う宿の当てとは一体どういう場所なんですかねぇ? 木の上とか、どこかの隙間とか、もしや馬小屋とかですか!? むはーーー、それはそれで」
「はぁ? ニャニャイロ… 今日は夕ご飯抜きにゃ。にゃーは、今、ちょっと怒ってるにゃ」
! !!! !!!!!
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい全面的にナナが悪ぅううごぜーーーました」
少女は、形振り構わず頭を下げる。涙目になりながら、むしろ既に涙腺のダムを決壊させながら頭を下げる。全力で。全身で。
二人の関係を知らぬ者が見れば、そんな一般人からすれば、それはそれはシュールな光景。
「ごほん。まぁ、落ち着くにゃ。にゃーも鬼じゃにゃい。今回だけは特別に許すにゃ… ってか、ご飯の事になるといつにも増して暑苦しくなるから困り者にゃ」
「ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます」
何事にも全力であるという事。ただし、多少の空回りはご愛嬌。灰色猫は小さく溜息をついた後、言葉を続ける。
「それに、にゃーが最初の目的地としてこの《ハイネスト》を選んだのには、きちんと理由があるのにゃ」
「いや、そういうの良いんで早く夕ご飯食べに行きましょう!」
「にゃんでだよ! 人の話は最後まで聞くにゃ!」
「猫の話でも? あっ、嘘です。嘘。なんでも無いので続きをどーぞ師匠」
「にゃんだか頭痛くにゃってきたから手短に話すにゃ。確かに、この町はニャニャイロの教会からそれほど遠くは無いってのも理由の一つにゃ。途中でニャニャイロがヘタれても良いようににゃ。でも、最大の理由は… この町には一人、にゃーの知り合いがいるのにゃ」
同じ鉄を踏まぬよう、慎重に、あくまで慎重にそして謙虚に。少女は、自らの師匠たる灰色猫に尋ねる。
「えっ、と。勿論、師匠のその知り合いの方って、その、人間… ですよね」
「そうにゃ。ほら、あれ、あそこ見えるかにゃ? あの高台の小さい小屋」
そう言って、指先ならぬ肉球を使って精一杯行く先を指し示して見せる灰色猫。
「あー、ありますねぇ。ってか、何でこんな元々標高の高い土地なのに、更にあんな高いところに山小屋を建てるんでしょうねぇ?」
「知らんがにゃ。馬鹿は高いところが好きとかいうアレじゃにゃいか? ともかく、にゃーの知り合いはあそこにいるんだにゃ。名前は…… 《グウネ=スカイブルー》 今は確か、医者で解呪師の端くれにゃ」
「…… 解呪師さん、ですか。それってそれって、ホーラク師匠との関係が微妙に気になるところですねぇ」
一人と一匹は更なる高所を目指し、件の診療所を目指し、既に陽が落ち完全なる闇の領域となった夜の街道を往く。
END