8-5
その日の朝、シノノメは姿を現さなかった。
監視役として常にカンナより早く目覚め、お早うからお休みまでじぃーっと二人の行動を見守り続ける筈の彼女が、今朝に限って姿を見せない。その事実は、二人の心に暗い影を落とす。
「シノちゃん… どうしたんだろ。確か結局昨日も、私達のキャンプの近くで一人で寝てたよね。強いのは充分知ってるけど、何だか心配だよ。あの子ってさ、どこか危ういバランスの上に成り立ってるっていうか… セツリ、ちょっと様子みてこようよ」
「ですね。監視を終えて、何も言わずにWUOに戻ってしまったというのもある意味彼女らしいですが、そんな様子も見受けられませんでしたし」
例え敵対にある関係であろうと、どれだけの力を持っていようと。彼女が一人の少女、しかも彼ら二人よりも年下の少女である事に変わりは無い。彼女もまた、脆く、繊細な歳相応の少女である事に違いは無い。ここ数日の間に、第一印象とは異なるそんな一面を感じ取った二人は、思い立つままキャンプ周辺の探索を始める。
だが、そんな気概とは裏腹に、シノノメの姿はすぐに発見出来た。彼らの野宿を行ったキャンプのすぐ近く。いつもと変わらぬ少しだけ距離を置いたそんな場所に、彼女はぽつんと座っていた。
彼女が常に肌身離さず手にしていた、そんな大切なケージを見つめながら。
「シノちゃんどーしたのさ。朝ごはん、一緒に食べるでしょ? それとも今朝は調子でも…」
二人が近づいても全く反応する事の無いシノノメ。むしろ、二人が近づいたことに気がついていないとさえ感じられる程、彼女のその表情はただただ虚空を見つめ、さながら仮面のように生気も感情も無く、虚ろそのものだった。
「………。カンナさん、ケージの中身。いえ、シノノメさんの掌の上、良く見てください」
「中身って、ハムスターのササキさんでしょ? …… うぇっ!?」
ぺたりと力無く地面に座るシノノメの掌の上、そこには、ピクリとも動かず丸くなった一匹のハムスターの姿があった。
「ど、どーしちゃったの、ササキさん。病気? 怪我? それとも、まさか呪い!?」
そんな問いかけに対し、ふるふると言葉を発する事も無く。首のその動きだけでようやく否定を示すシノノメ。
「ねぇ、セツリ。これってまさか、さ。まさかのわけないよね?」
そんな震えるようなカンナの呼びかけに対し、セツリはそこに感情を携えず淡々と答える。
「ハムスターの寿命は… およそ5~8年と言われています」
そんな彼の言葉に、ビクリと全身を震わせて反応するシノノメ。
「ちょ、セツリ。まだそうと決まったわけじゃないでしょー!」
「ええ」
「ええ、ってセツリ君。それってえらくドライじゃない?」
「そうでしょうか? 助かる可能性はあるかもしれないし、そうでないかもしれない。僕はただの事実を述べたまでです。一見した感想ですよ。単なる可能性の話」
「うわー、セツリがちょっちシニカルモードだよ。まるで昔の君を見ているよう。ってか、セツリはハムスターちゃんがどうなっちゃったのか解ったんだね?」
虚ろな少女をじっと見つめながら、セツリは言う。
「僕には手を差し伸べる事が出来る… かもしれない。ですが、それすらも… 尚も、命は一様にして価値がないものとみなすと仰るのであれば…」
それはさながら、少女の一言を。とある一言を待つように、じっと。
セツリは、尚もまっすぐに少女の顔だけを見据える。
「お、ぉう。そっか。いやね、なんとなくセツリの言いたい事とか意図は伝わったけどさ。何というか、この間に耐えられそうもないよ、私。む、胸が痛い」
再び訪れた沈黙。
そんな痛いほどの静寂が、三人に容赦なく突き刺さる。
だがしかし、そしてしかし。その沈黙を破る事の出来るたった一人の人物。そのたった一人のたった一言が、この状況を、或いはその命運を確実に前へと一歩進める。
「ボク… 独りぼっちに…… なりたく、無い」
一筋の涙と共に放たれた、少女のそんな小さな小さな叫びは、声にならない心の叫びは。立ち昇る朝日が如く、二人の心を燃えるように朱く照らす。
「シノちゃん… う、ぅええええん、セツリぃいいい! 何とかしてあげてよぉセツリぃいいい!」
「勿論です。むしろ、何故カンナさんも泣いてるんですか。診察の邪魔なのでちょっと静かにしてください。それと、思いっきり鼻水垂れてますからね」
「台無しだよっ!」
「こっちのセリフですからね、それ」
セツリは、シノノメの掌からそっと件のハムスターを受け取り、告げる。
「シノノメさん。今のその気持ち、忘れないでくださいね。きっとそれは、この先のあなたを正しい方向へと導いてくれる指針になる筈ですから…… なーんて、やっぱりちょっと押しつけがましかったですかね? とにかく、もう大丈夫ですから。泣かないで、ね?」
そう言ってそのポーカーフェイスを崩し、少しだけ照れ臭そうに微笑んだ後、優しく触診を開始するセツリ。
「はぁうぅう、ナイス笑顔!」
一人で悶え、一人でサムズアップする。そんな鼻血たらたら状態で空気の全く読めないカンナを放置し、セツリが尚も続ける。
「まぁ、僕もシノノメさんも。まだまだ大人になり切れないって事です。それと、まずは安心してください。ハムスターは、ササキさんは死んでませんし、病気でもましてや呪いでもありませんので」
「ぇ? ぇえええ!? じゃ、じゃあなんなの? 何で動かなくなっちゃったのさ、セツリ」
「そう。正にそこなんですよ、カンナさん。今日ほど、あの時せんせいの診療所を手伝って良かったと思った事はありません。あの時の経験があったからこそ、ですよ。それにカンナさん、あなたも一応一緒に診療所手伝ってたんですからね? 分かりませんか?」
あいどんのー。
目で力強くそう訴えるカンナと、その目を赤く腫らし一心にセツリを見つめるシノノメ。
「《冬眠》ですよ。ハムスターの冬眠と永眠を見分けるのはとても困難だと言われています。ただし、ここはとても気温の低い場所です。ご存じの通り、昨夜はとても寒かった。人間でも焚火に当たらなければ凍える程ですから。では、ハムスターにとってはどうだったでしょうか? だからあれ程言ったでしょう? 此方で一緒に暖まりませんかって。つまり、環境の変化から身体を護るために、恐らく冬眠へと至ってしまったのでしょう」
「し、知らなかった。ハムスターって、冬眠するんだぁ」
理由はどうあれ。
そう結んだセツリは、再びシノノメの掌の上へと件のネズミを戻し、彼女の頭をぽんぽんと撫でながら諭すように優しく語り掛ける。
「今夜野宿する時は、必ず僕達のところに来てくださいね。暖かくしてあげれば、恐らく冬眠も短時間のものになるはずですから」
監視役の少女は、その顔を少しだけ紅色に染め、目に涙を浮かべながら、たった一度だけ静かにコクリと頷くのだった。
END