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とある事実として。
カンナには《とある理由》により、物心つく前の記憶も、その出生に関わる記録さえも存在していなかった。
だからこそ、彼女の過去を知る者は殆ど居ないし、彼女自身さえも覚えて居ないし理解すらしていない。
過去はもとより、自身の出生、その家族についてすら不明瞭である以上、全ては幻想。
誰かが夢見た、在り得たかも知れないただの幻想。或いは、何処かの誰かが見た夢、幻。
例え記憶も記録も、家族も身寄り故郷もなくとも、カンナは決して一人ではなかった。
今までも、これからも、そしてこの先も。
何故なら彼女には…。
「探しましたよ、カンナさん。本当にあなたって人は、どこまで手間の掛かる人なんですか… これ以上、僕に心配掛けさせないでください」
ニアを抱き抱え、今にも泣き出しそうなカンナの前に現れた一人の少年。誰もが存在しなくなった村において、唯一彼女達の前に姿を現した少年。
どこか懐かしいその姿をみたとたん、彼女の心の奥底に暖かい感情が溢れる。
とめどなく、湧き上る感情。だが、今の彼女にはその感情を正しく理解する事は出来ない。
「あなたは、誰?」
自身の放ったそんな言葉とは裏腹に、やはりカンナは涙を零してしまう。その涙の意味を、自分自身に問い質しながら。
「ッ…。やれやれ。分かっていても割とショックですね、そのセリフ。何だか凄く納得出来ません」
「あなた、私を知っているの?」
「ええ、嫌と言うくらいにはね。言いたい事は多々ありますが、とにかく今は一刻を争います。《こんな状況下》での解呪は初めての経験ですが… 絶対に成功させるしかありませんね、これは」
少年は、その片手を覆う黒革の手袋を外し、カンナの抱える少女にその手をかざす。
「何? 何が始まるの?」
「僕を信じてください。これまで、あなたが僕に対してそうしてくれていたように」
「で、でも… うん。分かったよっ!」
カンナは、内から湧き上がる不思議な安心感と絶対の信頼感に身を委ね、自然に頷き返す。
「よろしい」
カンナのそんな反応に対し、少し満足げにほほ笑んだ少年は構えた片腕に力を込め、その呪いの解呪を開始する。
彷徨える。
昼も夜も無い夢うつつの世界で。
僕は、誰かを探して彷徨っている。
その記憶の底を浚うように。ゆっくりと、取り留めも無く。
その人は、きっとったった一人で誰かが来るのを待っていたのだろう。
たった一人で、幾多の不安と悲しみを乗り越えながら。
でも、僕はその人の手を掴む事が出来ない。
その人を抱きしめる事が出来ない。
それが、彼女と僕を別つ距離であり、理の壁だからだ。
そして何より、その人の手を掴む役目は、きっと僕の役割ではないのだから。
だからこそ、僕に出来る事はたった一つだけ。
彼女に、彼女にとっての正しい道。標を残す事。出口への… 否、入り口への道順を示してあげること。
いつだって、帰る場所はあるんだと、示してあげる事。
たったそれだけ。僕に出来る事は、たったそれだけの極々僅かな干渉。
呪いを解く事と、彼女を助ける事は同義ではないと、そう思い知らされるだけの僅かな干渉。
僕はかざした左腕に向かい、一気に力を込めた。
やがて、幼女の中の「呪い」が、少年の中へと流れ込んでいく。
時間にしてみれば僅か4分足らずの出来ごと。
しかし、少年にとっては永遠の孤独を味わったかのような4分間。
少年の手が幼女から離れると共に、彼女達の、たった二人だけの世界が完全なる崩壊を開始する。
「良く、頑張りましたね。さぁ、帰りましょうカンナさん。その子の手、しっかり掴んでいてくださいよ」
END