15-3
「何て事にゃ。ただの疲労… のわけがないよにゃ、これって。正直な話… これ以上、旅を続ける事は…」
自分というものがついていながら何て様だ。むしろ、カラタチの件を知っていながら、恐らくこうなると分かっていながら。それでも、あの椅子に頼る事を選んでしまった自分の判断はやはり、間違いだったのかもしれない。ナナイロの体は、もう既に、心身ともに限界値に到達しかけているのかもしれない。
村の近隣まで辿り着いていたという事が幸いし、通りがかった村人達の手によって助けられ、一先ずは事なきを得たナナイロ。
その夜。師である灰色猫は彼女の元をそっと離れ、一人で、否、一匹で夜を佇んでいた。
「こんな時ばかりは、やっぱりこの体が恨めしいにゃ。自分一人じゃにゃんにもできにゃいなんて。自分の弟子一人、まともに助ける事ができにゃいなんて」
今宵は満月。妖しく輝く月光の下、灰色猫は当ても無く彷徨う。ある筈の無い答えを求めて。
だがしかし、そしてしかし。
今、この瞬間、この場所において。ある筈のない応えがもう一つ。
「………… 猫が、喋ってる……」
少女が一人。
否。荘厳なる満月の夜におよそ似つかわしくない、そんな幼き少女がたった一人。
まるで闇から這い出たるようにして、音も無く、これまでもずっとそうして来たかのように灰色猫を一心にただただじっと見つめている。
―― しまった。
往々にして。そう思った時には、既に後の祭り。
「…にゃ、にゃ~ん。ごろごろぉ」
まさか、こんな夜更けに人が居るとは。それも、好奇心の塊である子供が。迂闊だった。それもかなり間抜けなレベルで。
灰色猫は、自らの警戒心の無さに内心毒づきながらも、それでも、それでも半ば、祈るようにして。咄嗟に猫の鳴きまねを続ける。
見た目は完全に一匹の猫。野良猫風情。誰がどう見てもただの猫。それなのに猫の鳴きまねとはこれいかに。しかも、超絶に下手糞な。
少女の出現があまりに唐突だったせいか、或いは今のこの状況がよほど可笑しかった為か、もしくはその両方のためか… とうとう、灰色猫は、耐え切れずに…… 噴出してしまう。
「ぷっ…… くっくっく、にゃっはははは」
「あっ。今度は、笑ってる」
「あーあ、やっちまったにゃ。ってか無理。未だに猫の鳴きまねが下手糞とか。にゃーは、とことん、猫に向いてない性格だにゃ。これはニャニャイロの事を馬鹿に出来そうににゃい、後でにゃにを言われるか分かったものじゃにゃいね。まったく」
もはや隠し通せないと判断したためか、件の灰色猫は開き直ってどうどうと少女の前で人語を語る。対する少女は、そんな光景に怯えるわけでも、好奇の眼差しを向けるわけでもなく。ただただ表情一つも変えず、じっと見つめるのみである。
「あー、ごほん。お嬢さん? 君のお名前はなんて言うのかにゃ?」
「人に名を尋ねるときは… まず自分から名乗るべきよ。それは、人間であれ精霊であれ神様であれ、どの世界においても一致した最低限のルール… 汝、如何なる時も紳士であれ」
「おっと。これは失礼しましたにゃ。ってか君、随分難しい言葉を知っているようだにゃ。どこかの誰かさんとは大違いにゃ」
そんな灰色猫の投げかけにも応じることなく、少女は依然として一心に、不気味なまでに灰色猫のその目をじぃっと見つめ続ける。
少女が何を想い、何を考え、そして何ゆえこんな時間にこのような場所に居るのか、それは少女自身にしか知りえない事。
だが、一つだけわかる事があるとすれば、少女は灰色猫が名乗るのをじっと待っている… のかもしれないという事のみである。
「順番が前後してしまったけど。驚かせてしまったのにゃら申し訳にゃかったね。にゃーの名前は、ホーラク。ま、自分でそう名乗ってるだけだからにゃ。好きなように呼んでもらっても構わにゃい」
「分かったわ、ホーラク」
灰色猫の言葉を素直に受け止め、一先ずは納得の姿勢を見せる少女。逆にそれが、この場における異様さと不気味さを際立たせるのに一役買っているとはいえ、灰色猫が続ける。
「ふむ。では、改めて。お嬢さん、君のお名前は?」
「…… お嬢さんではない。わらわの名、は… 《イスカ》」
その瞬間。一陣の夜風が、一人と一匹の間を一気に駆け抜ける。
イスカ。そう名乗り、闇に佇む一人の少女。白いワンピース姿、地面につくほどの闇色の長髪。夜に忍ぶ金色の瞳。年の頃10にも満たないその少女は、未だ、能面のようなその表情を崩さない。
一方、冷静さを取り戻しつつある灰色猫は、改めてこの現状を直視しようと思いを巡らせ始める。
END