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「ねえ、これが最後だから」三年間毎晩料理を作ってくれた婚約者が親友と消えた日、残されたシチューを捨てられなかった私に隣の無愛想な料理人が差し出したおにぎりが温かすぎた件

作者: uta
掲載日:2026/05/30

「ねえ、これが最後だから」


透真の声は、いつもと同じように穏やかだった。

三年間、毎晩欠かさず聞いてきた「おかえり」と同じトーンで、彼は私に別れを告げた。


テーブルの上には、湯気を立てるビーフシチュー。

私の好物だ。正確には、透真が「私の好物だ」と決めた料理。本当に好きかどうかなんて、聞かれたことはなかったけれど。


「……え?」


銀色のスプーンを持ち上げたまま、私は固まった。

最後? 何が? どういう意味?


「凛香」


透真は蜂蜜色の髪をさらりと揺らして、あの完璧な笑顔を浮かべた。垂れ目の優しい瞳。清潔なシャツ。いつもと何も変わらない、理想の婚約者の姿。


「三年間、ありがとう。……楽しかったよ」


楽しかった。

過去形。


「ま、待って。透真、何言って……」

「彩乃と一緒になることにした」


彩乃。

私の、唯一の親友の名前。


「……は?」


思考が追いつかない。

目の前のシチューから立ち上る湯気だけが、やけに鮮明に見える。ことこと煮込まれた牛肉。とろりと溶けた玉ねぎ。彼が三時間かけて作る、いつもの完璧な味。


「君は……」


透真の笑顔が、ほんの少しだけ歪んだ。


「一度も『美味しい』って言ってくれなかったね」


——え?


「三年間、毎日作ったのに。一度も」


彼の声は穏やかなまま。責めているわけでもない。ただ事実を述べるように、淡々と。


「彩乃は違った。『透真くんの料理、世界一美味しい』って。毎回、泣きそうな顔で言ってくれるんだ」


——私は。

——私は、言った。……言ったよね?


記憶を必死でたどる。「いただきます」は言った。「ごちそうさま」も。でも、「美味しい」は?


「……っ」


言ってない。

三年間、一度も。


喉が詰まる。いつものことだ。「ありがとう」も「美味しい」も、私の喉はいつだって、大事な言葉ほど通してくれない。


透真が立ち上がった。エプロンを外して、きれいに畳んで、椅子の背にかける。


「シチュー、冷めないうちに食べてね」


足音が遠ざかっていく。玄関のドアが開いて、閉じて。


静寂。


——え、ちょっと待って。

——今、何が起きたの?


目の前のシチューは、まだ湯気を立てている。

スプーンを握ったままの私の手は、小刻みに震えていた。


携帯が震えた。彩乃からのメッセージ。


『ごめんね凛香。でも、透真くんは私が幸せにするから』


——ああ、そっか。

——私、捨てられたんだ。


ぽたり。

シチューの表面に、何かが落ちた。

私の涙だと気づくのに、数秒かかった。



       * * *



一週間が経った。


テーブルの上には、まだあのシチューがあった。


——片付けなきゃ。

——わかってる。わかってるのに。


白いカビが、褐色のルーの表面を侵食している。異臭がする。当たり前だ。真夏じゃないけれど、一週間も常温で放置すれば、どんな料理だって腐る。


でも、私は動けなかった。


透真のエプロンを羽織ったまま、ソファに座り込む。食欲なんてとっくに消え失せていた。最後にまともなものを食べたのは、いつだっけ。水だけは飲んでいる。たぶん。


携帯には既読無視のまま放置されたメッセージが溜まっている。会社には「体調不良」と嘘をついた。実際、嘘でもないかもしれない。鏡を見る気力すらないけれど、きっと酷い顔をしているんだろう。


——私って、本当にダメだな。


自嘲が口をついて出る。いつもの癖だ。


透真が出ていってから、私はずっと考えていた。三年間の記憶を、何度も何度も反芻して。


彼は確かに「完璧」だった。

毎朝起きるとコーヒーが淹れてあった。仕事から帰ると、温かい料理が待っていた。記念日には花を買ってきてくれた。体調が悪ければ看病してくれた。


与えて、与えて、与えて。


私は? 何を返した?


「いただきます」

「ごちそうさまでした」

「……うん」


それだけだ。

三年間、それだけ。


「美味しい」のたった四文字が、なぜ言えなかったんだろう。


——だって、美味しいのは当たり前だったから?

——違う。そうじゃない。


わかっている。本当は、わかっている。


私は怖かったのだ。「美味しい」と言ってしまえば、次も期待される。期待に応えられなかったらどうしよう。私なんかのために作ってくれることが申し訳ない。私にはそんな価値がない。だから、言わない方がいい。欲しがらない方がいい。


——「手のかからないいい子」でいなきゃ。


幼い頃から染みついた処世術。共働きの両親の邪魔にならないように。欲しいものを言わないように。我慢すれば褒められた。大人しくしていれば愛された。……愛された、と思い込んでいた。


腐ったシチューを見つめる。

透真が最後に作ってくれた料理。私が「美味しい」と言わなかった料理。


——これが、私の三年間の答えなんだ。


涙は出なかった。もう枯れたのかもしれない。


インターホンが鳴った。


無視しようとした。でも、何度も何度も鳴り続ける。しつこい。いい加減にしてほしい。


重い体を引きずって玄関に向かい、ドアを開けた。


「……何その顔」


見知らぬ男が立っていた。


鋭い三白眼。無精ひげ。不機嫌そうにしかめた眉。身長は180を超えているだろうか、黒いTシャツから覗く腕は逞しい。……怖い。普通に怖い。


「……は?」

「飯、食ってないだろ」


——え、何この人。

——というか誰?


「あ、あの……どちら様……」

「隣」

「は?」

「隣に越してきた。神崎」


隣。そういえば先週あたり、引っ越しトラックが停まっていた気がする。気がするだけで、確認する余裕なんてなかったけれど。


「ゴミ、出しっぱなしだった」

「え」

「あんたの部屋から異臭がする。腐ってんだろ、何か」


——うわ、最悪。

——近隣トラブル案件じゃん私。


「す、すみません、今片付け……」

「これ」


男——神崎さんが、何かを差し出した。


ラップに包まれた、おにぎり。二つ。


「……?」

「食え」

「いや、あの」

「塩だけ。腹に優しい」


意味がわからない。本当に意味がわからない。


初対面の人間に、なぜおにぎりを差し出されているのか。なぜ「腹に優しい」なんて言われているのか。


「……いら、ない」

「食え」

「だから……」

「……」


神崎さんは、黙って私を見下ろした。三白眼が、射抜くように。


「泣いてた」

「え」

「壁、薄いんだよ。毎晩聞こえてた」


——は?

——嘘。嘘でしょ。


顔が熱くなる。恥ずかしさで死にたくなる。泣いてたって、声を殺してたのに。それでも聞こえてたの? 最悪だ。最悪すぎる。


「……っ」

「別に同情とかじゃねえよ」


神崎さんは面倒くさそうに頭をかいた。


「飯食わねえ奴は、死ぬ」

「……」

「死なれると面倒だから。食え」


乱暴に押し付けられたおにぎりは、まだほんのり温かかった。


——なんだ、これ。

——何なの、この人。


透真のような優しい言葉はない。労りの笑顔もない。ただぶっきらぼうに「食え」と言われただけ。それなのに。


「……っ、」


涙が、溢れた。


枯れたと思っていたのに。もう出ないと思っていたのに。質素なおにぎりを握りしめたまま、私は玄関先で泣き崩れた。


「……おい」

「ごめ、ごめんなさ……っ」

「謝んな」

「でも……っ」

「……面倒くせえな」


神崎さんは盛大にため息をついて、私の隣にしゃがみ込んだ。


「……いいから食え。話はそれからだ」


——温かい。

——透真の完璧な料理より、このおにぎりの方がずっと温かい。


なぜだろう。理由なんてわからない。でも確かに、私は今、生きていると感じていた。



       * * *



「……で、何があった」


気がつけば私は、神崎さんの部屋にいた。


いや、正確には「連れてこられた」と言うべきか。玄関先で泣き崩れた私を見かねて、「腐った部屋にいたら病気になる」と半ば強引に。


彼の部屋は、驚くほど殺風景だった。必要最低限の家具。生活感のない空間。唯一の例外は、立派なキッチン。業務用かと思うほどの調理器具が整然と並んでいる。


「……婚約、破棄されて」

「ああ」

「……三年間、一緒にいた人に」

「ああ」

「……親友と、一緒に」

「最悪だな」


神崎さんは淡々と相槌を打ちながら、何かを作っていた。小鍋を火にかけて、出汁の香りがふわりと漂う。


「……聞かないんですか」

「何を」

「理由とか。私が何かしたんじゃないかとか」

「お前が何かしたかどうかなんて、知らねえよ」


また「知らねえ」だ。この人の口癖なんだろうか。


「……ただ」


神崎さんが振り向いた。三白眼が、私を真っ直ぐに見る。


「飯食わねえのは、ダメだ」


それだけ言って、彼は小鍋の中身を器に注いだ。差し出されたのは、シンプルな味噌汁。豆腐とわかめだけ。


「……」

「塩分と水分。まずはこれ」


言葉遣いはぶっきらぼうなのに、内容は妙に的確だ。一週間ろくに食べていない人間に、いきなり重いものを出さない配慮。


——なんで。

——なんでこの人、こんなに詳しいんだろう。


「いただき……ます」


震える手で器を受け取り、一口すする。


「……っ」


美味しい。

信じられないくらい、美味しい。


ただの味噌汁だ。豆腐とわかめだけの、何の変哲もない味噌汁。なのに、出汁が体に染み渡っていくのがわかる。温かさが、内側から広がっていく。


「……美味しい」


気づいたら、声に出ていた。


神崎さんの動きが、一瞬止まった。


「……そうかよ」


そっぽを向いた彼の耳が、わずかに赤い。……気のせいだろうか。


「あの」

「あ?」

「神崎さん、料理人……ですか?」


彼は少し間を置いて、「まあ」とだけ答えた。


「惣菜屋やってる。駅前の」

「え、あそこ……」


知っている。最近オープンした、こぢんまりとした惣菜屋。美味しいと評判だけど、店主が無愛想すぎて入りづらいと噂の。


——この人だったんだ。


「お前の部屋」

「え」

「片付けんなら、手伝う」

「い、いいですそんな……」

「腐った飯をそのままにしてる奴は信用できねえ」


——うっ。正論すぎる。


「……すみません」

「謝んな。行くぞ」


強引だ。本当に強引な人だ。


でも、なぜだろう。透真の「優しさ」より、この無骨な「強引さ」の方が、今の私には心地よかった。


私の部屋に戻る。神崎さんは眉をひそめながらも、何も言わずに窓を開けた。換気をしながら、腐ったシチューを手際よく処理していく。私はその背中を見ながら、ぽつりと漏らした。


「……彼が、最後に作ってくれた料理だったんです」

「ああ」

「だから、捨てられなくて」

「ああ」


神崎さんは手を止めない。鍋を洗い、テーブルを拭き、黙々と作業を続ける。


「……でも、もう腐ってる」

「……はい」

「愛情も、同じだろ」


——え。


「腐ったもんに執着しても、腹壊すだけだ」


それだけ言って、神崎さんは透真のエプロンを手に取った。私が部屋着代わりに羽織っていた、あのエプロン。


「これは?」

「……彼の」

「いるか」

「……」

「いるかって聞いてんだ」


いる、と言おうとした。まだ捨てられない、と。


でも。


「……いら、ない」


声が震えた。でも、言えた。


神崎さんは無言で頷いて、エプロンをゴミ袋に入れた。


「よく言った」


たったそれだけの言葉が、透真の三年間の「優しさ」より重く響いた。


窓から夕日が差し込む。オレンジ色の光が、すっかり片付いた部屋を照らしていた。


「……神崎さん」

「あ?」

「ありがとう、ございます」


この四文字は、なぜか喉に詰まらなかった。



       * * *



それから一週間。

私は毎日、神崎さんの惣菜屋に通うようになった。


「あらあら、また来たの」


カウンター席で肉じゃがをつつく私に、白髪の女性が笑いかける。堂本芳江さん。この店の常連で、近所のご意見番らしい。


「す、すみません。ここのご飯、美味しくて……」

「いいのよいいのよ、遠慮しないで。蒼介ちゃんも嬉しそうだし」


蒼介ちゃん。神崎さんの下の名前だ。この小柄なおばあさんは、あの無愛想な巨漢を「蒼介ちゃん」と呼ぶ。


「嬉しそう……ですか?」


カウンターの奥で仏頂面のまま煮物を盛り付けている神崎さんを見る。どう見ても不機嫌そうだ。


「ふふ、わかるのよ。長年の勘でね」


芳江さんは皺だらけの目を細めた。


「あの子、昔はね、有名なレストランで働いてたの」

「え……」

「才能があったのよ。でも、辞めちゃった。何があったかは知らないけれど」


神崎さんの過去。気になるけれど、聞いていいものかわからない。


「おい」


当の本人がカウンター越しに私を睨んだ。


「ひっ」

「……食え。冷める」

「は、はい……」


芳江さんがくすくす笑う。


「凛香ちゃん、だっけ。あんた、いい顔で食べるわね」

「え、そうですか……?」

「ええ。一週間前は死人みたいな顔してたのに。今は、ちゃんと生きてる顔」


——生きてる顔。


言われてみれば、確かに。鏡を見る気力も出てきた。会社にも復帰した。夜、泣く回数も減った。


「ご飯をね、誰かと一緒に食べるって大事なのよ」


芳江さんは自分の湯呑みを傾けながら、遠い目をした。


「私もね、昔は夫と食堂をやっててね。毎日一緒にご飯を食べたの。……もう何年も前に先立たれちゃったけど」

「……」

「一人で食べるご飯は、味がしないのよ。どんなに美味しく作っても。でもね、誰かと食べると、不思議と美味しくなる」


誰かと食べる。


透真との三年間を思い出す。

彼は毎晩、完璧な料理を作ってくれた。でも——一緒に食卓を囲んだことは、何回あっただろう。


彼はいつも、私が食べるのを見ていた。自分は「もう食べた」「後で食べる」と言って。まるで「食べさせる」ことが目的みたいに。


「神崎さんは」

「あ?」

「一緒に、食べないんですか」


カウンターの向こうで、神崎さんが固まった。


「……客に出す分がなくなる」

「あ、そう、ですよね。すみません変なこと……」

「——閉店後なら」

「え?」

「……閉店後なら。まあ。食う」


そっぽを向いた彼の耳が、また赤い。今度は見間違いじゃない。


「あらあら」


芳江さんが愉快そうに笑った。


「じゃあ凛香ちゃん、今日は閉店まで待ってたら? 私も一緒に食べようかしら」

「え、いいんですか」

「もちろん。たまには賑やかな方がいいでしょう」


神崎さんが「勝手に決めんな」と唸ったが、その声には棘がなかった。


——ああ、そっか。

——こういうのを「食卓」って言うんだ。


透真の完璧な料理を、一人で黙々と食べていたあの日々。

それは「食事」ではあったけれど、「食卓」ではなかった。


閉店後。

小さなテーブルを囲んで、三人で食べた夕飯は、驚くほど美味しかった。


「……美味しい」

「……そうかよ」

「美味しいですよ、本当に」

「……うるせえ」


芳江さんがにこにこ笑いながら呟いた。


「あんたたち、一緒にご飯食べてるとき、いい顔してるよ」


窓の外は、もう真っ暗だった。でも、この小さな店の中だけは、温かい光で満たされていた。



       * * *



「——だから俺は、料理で人を幸せにするなんて無理なんだ」


深夜。閉店後の惣菜屋で、私たちは向かい合っていた。


芳江さんが帰った後、神崎さんは珍しく酒を出した。私は烏龍茶。彼は日本酒をちびちびと。


「……聞いてもいいですか」

「何を」

「神崎さんが、レストランを辞めた理由」


少しの沈黙。

神崎さんはグラスを傾けながら、ぽつりと話し始めた。


「昔、恋人がいた」

「……」

「同じ店で働いてた。五年くらい、付き合ってた」


五年。私と透真より長い。


「俺は毎日、あいつのために料理を作った。喜んでほしくて。俺の料理を食べて、笑ってほしくて」


——それは。

——透真と、同じだ。


「でも、ある日言われた」

「……」

「『あなたの料理は完璧すぎて、息が詰まる』って」


グラスを置く音が、やけに大きく響いた。


「完璧すぎて息が詰まる……」

「毎日毎日、手の込んだ料理を出されて。一度も手を抜いてくれなくて。それが重荷だったんだと」


——ああ。

——わかる。わかってしまう。


透真の料理も、「完璧」だった。毎日三時間かけて作る手の込んだ料理。一度も手を抜かない。それが、私には重かった。「美味しい」と言わなければいけないプレッシャー。感謝しなければいけない義務感。愛情という名の重圧。


「……私も」

「あ?」

「私も、同じでした」


神崎さんが、初めて真剣な目で私を見た。


「透真は、毎日完璧な料理を作ってくれました。でも私は、それを『美味しい』と言えなかった。言わなかった。……重かったんです。完璧すぎて」

「……」

「でも、それを伝えなかった私が悪いんです。透真は三年間、私の反応がないまま作り続けて……傷ついてたんだと思います」


神崎さんは黙って聞いていた。


「だから、彩乃を選んだ。彩乃は『美味しい』って言ってくれたから。透真が欲しかった言葉をくれたから」

「……」

「私は、言えなかった。ただ、それだけのことで。三年が、終わった」


涙は出なかった。もう、泣き尽くしたから。


「……俺も、同じだ」


神崎さんが、静かに言った。


「あいつが去った後、俺は店を辞めた。『完璧な料理』を作る意味がわからなくなって。……誰にも食べてもらえない料理に、意味なんてないと思った」

「……」

「惣菜屋を始めたのは、逃げだったのかもしれない。手の込んだ料理じゃなくて、シンプルなもの。誰かに『完璧』を求められないもの」


左手で、グラスを握る。その薬指に、古い火傷の跡があるのに気づいた。


「その傷……」

「ああ。あいつが出ていった日に、やった。……自分でもよくわからねえ。気づいたら熱した鍋を握ってた」


——この人も。

——傷ついていたんだ。私と同じように。


「神崎さん」

「……なんだ」

「私、あなたの料理、好きです」


彼が顔を上げた。三白眼が、驚いたように見開かれる。


「完璧じゃないから、好きです。……いえ、完璧とか不完璧とか関係なく。美味しいから、好きです」

「……」

「透真の料理は、確かに完璧でした。でも、一緒に食べてくれなかった。神崎さんは、一緒に食べてくれます。それが……嬉しいんです」


神崎さんは何も言わなかった。ただ、そっぽを向いて、耳を赤くして。


「……知らねえよ」


いつもの口癖。でも、その声は少しだけ震えていた。


「……明日も、来いよ」

「え」

「閉店後。……一緒に、食う」


不器用な言葉。でも、それが何より嬉しかった。


「……はい」


私たちは、似たもの同士だった。

「与えすぎて」傷ついた人と、「受け取れなくて」傷つけた人。

傷の形は違うけれど、痛みの深さは同じだった。


だから——。

一緒に食べることで、少しずつ、癒されていく気がした。



       * * *



「凛香、久しぶり」


会社の廊下で、彩乃と鉢合わせた。


——逃げたい。

——でも、逃げちゃダメだ。


婚約破棄から一ヶ月。私は少しずつ、日常を取り戻しつつあった。会社にも普通に出勤できるようになったし、神崎さんの惣菜屋に通う日々が、小さな楽しみになっていた。


でも、彩乃とは一度も話していなかった。


「……久しぶり」

「元気そうじゃん。よかった」


彩乃は、変わらない笑顔を浮かべていた。ゆるふわパーマのミルクティー色の髪。大きな目。小動物系の可愛らしい顔。——私が「親友」だと思っていた人。


「心配してたんだよ? 連絡しても返事ないし」

「……」

「凛香、透真くんのこと、まだ怒ってる?」


怒っている?

私が?


「ねえ、凛香のためを思って言うんだけど」


——出た。

——彩乃の常套句。


「透真くん、ずっと辛かったんだよ。凛香が何も言ってくれなくて。三年間、毎日頑張って料理作ってたのに、一度も『美味しい』って言ってもらえなくて」

「……知ってる」

「だから私が……その、支えてあげてて」

「支えて?」


彩乃の目が、一瞬泳いだ。


「透真くん、私に相談してくれたの。『凛香に冷められてる気がする』って。だから、慰めてあげてたら……その、自然と」


——ああ。

——なるほど。


「自然と、ね」

「うん。だから、誰も悪くないの。仕方なかったの。ねえ凛香、わかってくれるよね?」


彩乃は私の手を握った。いつものように。「親友」のように。


「私、凛香のこと大好きだよ。だからこそ、透真くんを幸せにしたいって思ったの。凛香には無理だったでしょ? 感謝の言葉も言えないんだから」


——あ。

——この子、変わってない。


「凛香のためを思って言うんだけど」——その言葉の後に続くのは、いつだって彩乃自身のためのことだった。私はそれに、ずっと気づかないふりをしていた。


「……彩乃」

「ん?」

「私ね、確かに『美味しい』って言えなかった。それは私の罪だと思ってる」

「でしょ? だから——」

「でも」


私は彩乃の手を、静かに離した。


「あなたが私の婚約者を奪ったことと、それは別の話だよね」

「……え?」

「『凛香のため』なんて嘘でしょ。あなたは、透真が欲しかっただけ。私のものが、欲しかっただけ」


彩乃の顔から、笑顔が消えた。


「……なに、急に。凛香、変わったね」

「うん。変わったよ」

「誰かに何か吹き込まれた? 新しい男でもできた?」

「……」

「ふうん。いるんだ」


彩乃の目が、すっと細くなった。可愛らしい顔の下にある、冷たい何か。


「ねえ凛香。透真くん、最近元気ないの」

「……」

「私の料理、あんまり食べてくれなくて。『凛香の作った卵焼きが食べたい』とか言うの。……凛香、料理なんてしたことないくせにね」


——卵焼き?


一瞬、記憶がよぎった。付き合い始めた頃、一度だけ。焦げた卵焼きを作って、透真に出したことがある。「美味しい」と言ってくれた。私は「嘘だ」と思って、二度と作らなかった。


「透真くん、まだ凛香のこと——」

「彩乃」

「……なに」

「私はもう、透真とは関係ないから。あなたたちが幸せなら、それでいいよ」


嘘だ。全然よくない。でも、これ以上この人と話していたくなかった。


「……そう。わかった」


彩乃は肩をすくめて、去っていった。


その背中を見送りながら、私は気づいた。


——私、今、言えた。

——自分の気持ちを、言葉にできた。


以前の私なら、黙り込んでいただろう。彩乃の言葉を受け入れて、「そうだよね、私が悪かったんだよね」と自分を責めていただろう。


でも、今は違う。


「……神崎さんのおかげ、かな」


小さく呟いて、私は惣菜屋へ向かった。



       * * *



「凛香」


透真が、私のアパートの前に立っていた。


惣菜屋からの帰り道。神崎さんに「また明日」と手を振った、その直後だった。


「……透真」


二ヶ月ぶりに見る元婚約者は、少しやつれていた。完璧だったシャツには皺が寄り、蜂蜜色の髪も乱れている。でも、その目は真剣だった。


「話がある。……聞いてくれないか」

「……」


断ることもできた。でも——。


「……少しだけ」


近くの公園のベンチに座った。夜風が冷たい。透真は隣に座らず、少し離れた場所に立ったまま話し始めた。


「彩乃とは、別れた」

「……え?」

「一ヶ月も保たなかった。……俺が馬鹿だった」


透真は自嘲気味に笑った。


「彩乃は確かに『美味しい』って言ってくれた。毎日、泣きそうな顔で。でも——」

「……」

「あいつの『美味しい』は、俺の料理に向けられた言葉じゃなかった。『透真くんに選ばれた自分』に酔ってただけだった」


——ああ。

——そうだったんだ。


「気づいたんだ。凛香は、俺の料理をちゃんと食べてくれていた。『美味しい』とは言わなかったけど、いつも完食してくれた。体調が悪いときは、残したものを翌日に回してくれた。……俺の料理を、大事にしてくれていた」

「……」

「俺は、言葉ばかり求めていた。凛香の行動を、ちゃんと見ていなかった」


透真が、初めて私の方を向いた。


「戻ってきてくれないか、凛香」


——え。


「今度はちゃんとする。一緒に食卓を囲む。お前の気持ちを聞く。言葉を強要しない。だから——」

「透真」

「……」

「遅いよ」


自分でも驚くほど、穏やかな声が出た。


「確かに、私は『美味しい』って言えなかった。それは私の罪だと思ってる。でもね、透真」


立ち上がって、彼を見上げた。


「あなたは三年間、一度も私と一緒に食卓を囲まなかったよね」

「……」

「私が食べるのを、見てるだけだった。自分は『もう食べた』『後で食べる』って。……それって、『一緒にご飯を食べる』ことじゃないよね」


透真の顔が、強張った。


「あなたの料理は完璧だった。でも、食卓は空っぽだった。私は三年間、ずっと一人でご飯を食べてたの」

「……凛香」

「今、私には一緒にご飯を食べてくれる人がいる」


神崎さんの顔が浮かんだ。無愛想で、不器用で、でも温かい人。


「その人は、完璧な料理なんて作らない。でも、一緒に食卓を囲んでくれる。私が『美味しい』って言うと、耳を赤くしてそっぽ向く。……それが、すごく嬉しいの」

「……」

「だから、ごめん。戻れない」


透真は長い間、何も言わなかった。

やがて、小さく息を吐いた。


「……そっか」

「うん」

「俺、やっと……わかった気がする」

「……」

「与えるだけじゃ、ダメなんだな。一緒に、分け合わないと」


透真の目に、涙が滲んでいた。完璧な王子様の仮面が、初めて剥がれた瞬間だった。


「……幸せになれよ、凛香」


そう言って、彼は去っていった。


私は一人、ベンチに座り直した。夜風が頬を撫でる。不思議と、涙は出なかった。


——終わった。

——三年間が、本当に終わった。


携帯が震えた。神崎さんからのメッセージ。


『明日、新作の試食付き合え』


短い。そっけない。でも、温かい。


「……うん」


返信を打ちながら、私は笑っていた。



       * * *



「……で、なんで俺の家にいんだ」


神崎さんが、呆れた顔で私を見下ろしている。


あの日から一週間。私は神崎さんのアパートのキッチンに立っていた。


「一緒に、料理を作りたくて」

「……は?」

「今まで私、誰かに作ってもらうばっかりだったから。今度は、一緒に作りたいなって」


神崎さんは眉をひそめた。いつもの仏頂面。でも、その耳がわずかに赤いことに、私はもう気づいている。


「……何作んだよ」

「卵焼き」

「卵焼き?」

「昔、一度だけ作ったことがあって。焦がしちゃったんだけど。……今度は、上手に作りたい」


透真に作った、あの焦げた卵焼き。「美味しい」と言ってもらえたのに、信じられなかった。自分なんかの作った料理が美味しいわけがない、と。


でも、今は違う。


「……しょうがねえな」


神崎さんがエプロンを投げてよこした。紺色のシンプルなエプロン。彼が普段使っているものだ。


「え、いいんですか?」

「貸してやる。……汚すなよ」

「は、はい」


エプロンを身につける。透真の白いエプロンとは違う、無骨で飾り気のないエプロン。でも、なぜだかしっくりくる。


「まず卵を割れ。……そうじゃねえ、もっとこう——」

「あ、殻が入っちゃった……」

「……取れ」

「すみません……」

「謝んな」


神崎さんが後ろから手を伸ばして、私の手を包んだ。大きくて、温かくて、火傷の跡がある手。


「力入れすぎなんだよ。もっと優しく」

「は、はい……」

「……顔赤いぞ」

「そっちこそ耳赤いですよ……」

「……うるせえ」


二人で卵を溶く。砂糖と醤油を入れる。フライパンに油をひく。


「焦がすなよ」

「が、頑張ります……」


卵液を流し込む。じゅわっという音。慌てて菜箸でかき混ぜる。


「もっとゆっくり。……そう、そのまま巻け」

「こ、こう?」

「違う、もっと手前から——ああもう」


神崎さんが私の後ろに立って、一緒に菜箸を持った。背中に彼の体温を感じる。心臓がうるさい。


「……くっつきすぎです」

「黙れ。集中しろ」

「む、無理です……」

「……」

「……」


二人で、一つの卵焼きを巻いていく。不格好に。ぎこちなく。でも、確かに形になっていく。


「……できた」


フライパンの上には、少し歪だけれど、ちゃんと巻けた卵焼きがあった。


「やった……! 神崎さん、できましたよ!」

「……ああ」


神崎さんが、小さく笑った。


——え。

——笑った?


初めて見た。彼の笑顔。不器用で、ぎこちなくて、でもすごく優しい笑顔。


「……なんだよ」

「いえ、笑うとかっこいいなって……」

「……はあ?」

「あ、いえ、なんでもないです!」


慌てて卵焼きを皿に盛る。二人分のご飯と味噌汁も用意して、小さなテーブルに並べた。


「……いただきます」

「いただきます」


向かい合って、食べる。自分で作った卵焼きを、一口。


「……」

「……どうだ」

「……美味しい」


涙が、溢れた。


「え、ちょ、おい——」

「ごめんなさい、なんか、勝手に……」

「……」

「美味しいです。すごく、美味しい……」


自分で作った料理が、美味しい。誰かと一緒に作った料理が、美味しい。誰かと一緒に食べる料理が、美味しい。


当たり前のことなのに。こんな簡単なことだったのに。私は今まで、それを知らなかった。


「……泣くな」

「泣いてません……」

「泣いてんだろうが」


神崎さんがティッシュを差し出した。受け取って、涙を拭く。


「……ありがとう、ございます」

「……」

「神崎さんのおかげです。私、ちゃんと言えるようになりました」

「何を」

「『美味しい』って。……『ありがとう』って」


神崎さんは何も言わなかった。ただ、そっぽを向いて、耳を真っ赤にして。


「……蒼介」

「あ?」

「俺のことは、蒼介でいい」

「……え」

「……なんだよ」

「いえ、嬉しくて……」


蒼介さん。名前を呼ぶと、彼はますます耳を赤くした。


「……凛香」

「は、はい」

「これからも……一緒に、飯食ってくれ」


不器用な言葉。でも、それが何より嬉しかった。


「……はい」


窓から朝日が差し込んでいた。

「最後の晩餐」から始まった物語は、今、「最初の晩餐」を迎えようとしている。


いや、違う。終わりじゃない。これは始まりだ。


二人で作る、新しい食卓の。


「……蒼介さん」

「……なんだ」

「明日も、一緒に作っていいですか」

「……勝手にしろ」

「じゃあ、明後日も」

「……」

「来週も、来月も、来年も——」

「……うるせえ」


蒼介さんは、また笑った。今度は、ちゃんと見逃さなかった。


「……ああ。ずっと、一緒に食おう」


不器用で、温かい。

そんな言葉が、私には何よりも美味しかった。



       * * *



——一年後。


「あらあら、今日も繁盛ねえ」


芳江さんが、カウンター席でにこにこ笑っている。


駅前の惣菜屋『神崎』は、いつの間にか行列のできる店になっていた。「味は絶品だけど店主が無愛想すぎる」という評判は相変わらずだけれど、最近は「奥さんが可愛い」という噂も加わったらしい。


「奥さんじゃないですよ、まだ」

「あらあら、時間の問題でしょう」

「芳江さん……」


私はエプロン姿でカウンターに立っている。蒼介さんが作った料理を、私が盛り付けて出す。そんな分担が、いつの間にかできていた。


「凛香、三番テーブル」

「はーい」


蒼介さんの声に返事をして、料理を運ぶ。相変わらず無愛想な彼だけれど、私にだけは——ほんの少しだけ——声が柔らかい。気のせいかもしれないけれど。


閉店後。


二人で食卓を囲む。今日のメニューは、私が作った肉じゃがと、蒼介さんが作った味噌汁。


「……美味しい」

「……そうか」


蒼介さんは相変わらず耳を赤くしてそっぽを向く。一年経っても、この反応は変わらない。


「ねえ、蒼介さん」

「なんだ」

「私、やっとわかった気がする」

「何が」


私は肉じゃがを一口食べて、続けた。


「透真の料理は、『完璧』だった。でも、冷めていた」

「……」

「蒼介さんの料理は、『不完璧』かもしれない。でも、温かい」

「……馬鹿にしてんのか」

「してないよ。……褒めてるの」


蒼介さんは黙って味噌汁をすすった。


「大事なのは、完璧かどうかじゃなかった。一緒に食べるかどうかだった」

「……」

「私、三年間、一人でご飯を食べてた。透真が隣にいたのに、ずっと一人だった」

「……」

「でも今は、一人じゃない」


蒼介さんの手が、そっと私の手に重なった。大きくて、温かくて、火傷の跡がある手。


「……俺も、一人じゃなくなった」

「蒼介さん……」

「お前のおかげだ」


不器用な言葉。でも、それが何より嬉しい。


「ねえ、蒼介さん」

「なんだ」

「……愛してる」


言えた。

やっと、言えた。

「ありがとう」も「美味しい」も言えなかった私が、「愛してる」を言えた。


蒼介さんは真っ赤になって、そっぽを向いた。


「……知らねえよ」

「嘘。知ってるくせに」

「……うるせえ」

「蒼介さんも言って」

「……」

「ねえ」

「…………愛してる」


小さな声。でも、確かに聞こえた。


「……ふふ」

「笑うな」

「だって、嬉しくて」

「……」


窓の外は、もう夜だった。でも、この小さな食卓だけは、温かい光で満たされている。


「最後の晩餐」の残り香は、もういらない。


今あるのは、「最初の晩餐」から続く、温かい食卓の記憶だけ。


そしてこれからも、この食卓は続いていく。

不格好で、不完璧で、でも温かい。


そんな毎日が、私は何よりも好きだ。


「……蒼介さん」

「なんだ」

「明日は何作る?」

「……考えとく」

「じゃあ私、何作ろうかな」

「……卵焼き」

「また?」

「……美味いから」


蒼介さんは、また小さく笑った。


「……じゃあ、作るね」

「ああ」

「一緒に」

「……ああ」


——美味しい。


その言葉を、これからもずっと、伝え続けていこう。


あなたと一緒に食べる、すべてのご飯に。



【完】

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ヒロインってメンヘラでポエマー?引っ越して来たと自己紹介受けたって初対面の男から食べ物貰うとかヤバすぎ。なんか変な薬とか入ってたらどうするんですかね。男も一方的で俺様でナニ様?って思いました。一般常識…
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