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I kill  作者: じゃがいも畑
6/20

第6話:白い顔の噂

翌週の月曜、フロアの温度が少しだけ違った。


エアコンの設定は変わっていない。季節も急には変わらない。なのに、空気が乾いている気がする。乾いているというより、張っている。誰もが言葉を選び、目線を選び、無駄に笑わない。


倉田課長の機嫌が、静かに悪いからだ。


倉田は怒鳴らなくなっていた。怒鳴らない代わりに、目が笑わない。声が低い。言葉が短い。あれは“我慢”だ。怒りを飲み込んでいる。飲み込む理由は一つしかない。飲み込まないと、自分が困るからだ。


俺は朝、議事録を更新して共有した。淡々と。


【議事録_朝会_YYYYMMDD】


決定事項:A社一次回答(相良)/B案件障害一次切り分け(安藤)


保留事項:A社追加要望の見積前提(倉田確認)


共有事項:篠崎は体調優先、当面タスクは相良が吸収


作成者:相良


送信。


既読が増える。だが反応は少ない。反応しにくいのだ。反応すると倉田の顔色に触れるから。触れると自分も火傷するかもしれない。


俺は反応を求めない。記録が残れば十分だ。


そんな空気の中で、別の種類の視線が増えていた。


俺の顔に向けられる視線だ。


「相良さん、最近白いよね」

「病気じゃない?」

「寝てないのかな」

「なんか……雰囲気違くない?」


昼休み、給湯室の近くで小さな声が聞こえる。本人に届かない程度の距離で、しかし本人が気づく程度の大きさ。職場の噂は、そうやって作られる。


噂の性質は同じだ。違和感を共有して、安心したい。自分たちの世界に“異物”が混じっていないことを確認したい。


俺は異物だ。


肌が白い。目が暗い。感情が薄い。反応が読めない。怖い。だから噂にする。噂にすれば、管理できる気がする。


俺は気にしなかった。気にする回路が弱い。


そのかわり、処理として対策を考えた。噂は放置すると変な方向へ育つ。育つと面倒が増える。


だから、最短で潰す。


午前中、安藤が俺の席に来た。周囲を見て、少し声を落とす。


「相良さん、あの……倉田さん、今週の定例で“体制見直し”とか言い出すかもしれないです」


体制見直し。便利な言葉だ。人を動かすときの、理由の箱。倉田はたぶん、俺を外したい。議事録を止めたい。篠崎にもう一度手を伸ばしたい。直接殴れないなら、配置で潰す。


俺は頷いた。


「想定してます」


安藤は驚いた顔をした。俺が怯えないのが、まだ理解できないらしい。


「……大丈夫ですか」


「大丈夫です」


安藤はさらに言った。


「あと……すみません。変な噂が……」


噂。言いにくいが言わなければ、という顔。


俺は言った。


「白いってやつですか」


安藤が目を見開いた。


「……知ってたんですね」


「聞こえます」


職場の噂は、本人に届かないようで届く。届くから人は削られる。俺は削られないが、噂自体は面倒だ。


安藤は気まずそうに笑った。


「いや、あの……悪意っていうより……みんな心配というか」


心配。便利な言葉だ。心配してるから話していい。心配してるから詮索していい。心配してるから距離を詰めていい。そうやって、プライバシーを侵す免罪符になる。


俺は言った。


「体調不良ってことで統一します。倉田にも言ってます」


「……なるほど」


安藤は頷いて、帰っていった。


しばらくして、篠崎からチャットが来た。


【篠崎】先輩、すみません

【篠崎】今日、倉田課長から「最近どう?」って個チャ来ました


個チャ。倉田が直接触りに来た。迂回路を探している。俺に寄せる約束を破っている。つまり、倉田は“我慢”の限界に近い。


俺は返信した。


【相良】スクショ。日時も。

【相良】返信は「相良に共有します」でいい。


数秒後、篠崎から画像が送られてきた。


【倉田】最近どう? 元気?

【倉田】お前、相良にビビってない?w

【倉田】俺の方が味方だから、なんかあったら言えよ


味方。笑える。倉田は味方という言葉を武器にする。味方だから言うこと聞け。味方だから逆らうな。味方だから俺の顔を立てろ。味方という名の鎖。


俺は画像を保存し、フォルダに入れた。


Logs/Chats/kuratashinozaki_YYYYMMDD.png


手順の一部が、また増えた。


午後、倉田がフロアを歩いているのが見えた。篠崎の席の近くで立ち止まり、何か言いかけて、俺の視線に気づいてやめる。倉田はまだ“直接殴る”勇気がない。記録があるからだ。


倉田は代わりに、別の方法を取る。


影で削る。


定例の前日、倉田は営業の田辺を捕まえて、コソコソ話している。田辺は営業らしい笑顔で頷いている。営業は空気で生きる。相手の顔色を見て、話を合わせ、責任を避ける。味方にも敵にもなれる。


俺はその場面を見て、想像できた。


倉田は「相良は最近おかしい」「篠崎の面倒見るとか言って、現場を乱してる」「議事録とか余計」「メンタルやられてるかも」――そういうストーリーを作る。ストーリーを先に作ると、事実は後からそれに合わせて解釈される。


職場は、そういう場所だ。


俺は、ストーリーを上書きする必要がある。


感情ではなく、事実で。


その日の夕方、俺は篠崎を会議室に呼んだ。会議室Bではなく、壁の厚い方。今回は“守る”話をするからだ。


篠崎は少し顔色が戻っていた。目の焦点も合っている。版管理も始めていた。彼の成果物には、ちゃんと彼の名前が残っている。


「篠崎」


「はい」


「今週の定例、倉田が何かしてくる可能性がある」


篠崎の肩が硬くなる。


「……俺、何か言った方がいいですか」


「言わなくていい。言うと潰される」


篠崎が息を呑んだ。否定したいが、否定できない。彼はそれを知っている。


俺は続けた。


「俺が話す。篠崎は、事実だけを持っておく。もし聞かれたら、事実だけ答える。感情を混ぜない」


篠崎は頷いた。


「……先輩、俺、正直……怖いです」


「怖くていい」


「怖いのに……どうして先輩は……」


篠崎が言いかけて、止まった。「怖くないんですか」と聞きたいのだろう。でも聞いたら、先輩が本当に壊れている気がして怖い。


俺は答えた。


「怖いかどうか、分からない」


篠崎が固まった。


俺は嘘をついていない。怖いという感情が薄い。薄いから、分からない。わからないから、説明できない。


篠崎は唇を噛んだ。


「……先輩、無理しないでください」


無理。無理をしている感覚も薄い。疲れてもいない。眠気もない。空腹もない。欲がないから、無理の基準がない。


だが、無理がないことが、逆に危ない気がした。


自分の限界が分からないからだ。


俺は言った。


「俺は大丈夫。篠崎は自分を優先して」


篠崎は小さく頷いた。彼はまだ「自分を優先する」ことに慣れていない。だが、言葉として受け取っただけでも前進だ。


会議室を出るとき、篠崎が小さく言った。


「……先輩、ありがとうございます」


「うん」


廊下に出ると、倉田が向こうから歩いてきた。ちょうど会議室の前。タイミングが良すぎる。倉田は見張っている。あるいは偶然を装って、偶然じゃない行動をする。支配者のやり方だ。


倉田は篠崎を見て、笑った。


「お、仲良しじゃん。相良、お前さ、篠崎に変なこと吹き込むなよ? アイツ、素直だからさ」


篠崎の顔が強張る。素直。つまり操りやすい。倉田は彼を道具として見ている。


俺は倉田を見た。


「吹き込んでません。版管理と文面化を教えただけです」


倉田の笑顔が止まった。


「……それ、誰の許可で?」


俺は言った。


「仕事なので」


倉田は、また周囲の空気を確認した。今ここで怒鳴ると、議事録に残る。もう俺は“記録する人間”として認識されている。倉田にとって、俺は扱いづらい。


倉田は笑ってごまかした。


「まぁいいや。相良、お前さ、最近顔白いし、ちゃんと病院行けよ? 倒れられると困るからな」


困るからな。


またその言葉だ。


だが今回は、倉田の言葉が別の意味で響いた。


倒れられると困る。


つまり倉田は、俺が“倒れる”可能性を、ストーリーとして用意している。相良は体調不良。相良はメンタル不安定。相良は危ない。だから配置換えが必要。だから議事録を止める。だから篠崎は戻す。


そういう流れが見えた。


俺は言った。


「倒れません」


倉田の目が細くなる。


「へぇ。言い切るね」


「言い切れます」


倉田は何か言い返したかっただろう。だが、言葉が出なかった。言葉が出ないとき、倉田は笑うしかない。


倉田は笑って、去っていった。


篠崎が震える息を吐いた。


「……先輩、すごいです」


すごい、と言われても、何も湧かない。承認欲求がないからだ。だが、篠崎の震えが少しだけ減っているのは分かった。


それで十分だ。


その夜、俺は家に帰っても眠くならなかった。


眠くならないから、時間が余る。余った時間は、昔ならSNSを見て、他人の人生を羨んで、自己嫌悪して終わっていた。


今日は違う。


PCを開き、フォルダを整理する。議事録、成果物、チャット、インシデント。時系列で並べる。目次をつける。必要なものと不要なものを分ける。


それはまるで、事件の捜査ファイルだった。


俺は冷静だった。冷静すぎるくらい。


そして、ふと思った。


俺の肌が白いのは、きっと噂の通りだ。俺は確かに、普通じゃない。


だが普通じゃなくなったからこそ、普通の人間が耐えなきゃいけない地獄に、穴を開けられる。


そういう役割なら、悪くない。


モニターの端に、カレンダーが表示されていた。昨日の日付には、小さく「誕生日」の文字がまだ残っている。


俺は画面を見ながら、静かに理解した。


――俺はもう、長くは持たないかもしれない。


根拠はない。体調の異常も感じない。だが、欲がないまま動き続けることは、どこかで終わる気がした。機械が止まるみたいに、突然。


だから、急ぐべきだ。


倉田が次の手を打つ前に。篠崎が折れる前に。俺が止まる前に。


そして俺は、明日の定例資料の表紙に一行だけ書き足した。


「目的:業務継続と安全確保」


安全確保。


倉田の嫌いな言葉。


それが、今の俺の武器だった。

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