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I kill  作者: じゃがいも畑
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第5話:空気が割れる音

倉田課長の足音は、わざと大きい。


フロアのカーペットは音を吸うはずなのに、踵を強めに落として歩くから、どん、どん、と鈍い振動が伝わってくる。あれは合図だ。見ろ。気づけ。俺が来るぞ。そうやって空気を先に支配する。


俺のモニターには、さっき送った議事録のファイルが開いていた。送信済み。共有済み。取り消しはできない。


倉田が目の前に立つ。


「お前さぁ」


まず名前を呼ばない。名前を呼ぶと対等に見えるからだ。倉田はいつも“お前”で始める。相手の輪郭を雑にして、自分の輪郭だけを太くする。


「なにこれ」


倉田は俺のモニターを指で叩いた。爪の硬い音がした。議事録のファイル名が震える。


「議事録? 朝会の? 誰がこんなの頼んだ?」


頼んだ、という言い方が面白い。必要なことは頼まれなくてもやるのが仕事だ。それを“頼んだかどうか”にすり替えるのが、倉田の癖だった。頼まれてないなら余計。余計なら悪。そうやって潰す。


俺は椅子に座ったまま、倉田を見上げた。


「頼まれてません。必要なので作りました」


倉田が一瞬、言葉を失った。周囲のキーボード音がほんの少しだけ止まる。みんな耳を立てている。だが視線は合わせない。火の粉が飛んだら嫌だから。


倉田は笑った。笑いながら怒る。最悪のやり方だ。


「必要って誰が決めた? お前が決めたの? お前、偉くなったなぁ」


偉い。偉くない。そういう上下のゲームに持ち込むのが倉田の得意技だ。仕事の話を、人格の話にする。人格の話になったら、正しさより空気が勝つ。


俺は言った。


「決定事項と保留事項が共有されてないと、顧客対応で齟齬が出ます。あと、成果物の管理も混乱します」


倉田の目が細くなる。成果物、という単語が刺さった。


「成果物? なにそれ。お前、誰かに言われた? 篠崎に何か吹き込まれた?」


篠崎の名前が出た瞬間、空気がさらに薄くなる。倉田はいつもこうだ。問題を仕組みの話にさせず、個人の陰謀に落とす。篠崎が悪い。相良が悪い。誰かが悪い。そうすれば自分は安全になる。


俺は首を振った。


「誰にも言われてません」


「じゃあ何? お前が勝手に“公平”とかやりたくなったわけ?」


公平。倉田の口から出ると、嘲笑になる。


俺は言った。


「公平というより、事実です。誰が何を言ったか、誰の資料が使われたか、記録するだけです」


倉田の笑顔が消えた。


「……お前、それ、俺のこと言ってんの?」


倉田の声が少し低くなる。怒りのスイッチが入る音がした。倉田は、自分が“悪い側”に置かれることを極端に嫌う。自分が正しい、が崩れると暴れる。


俺は言った。


「倉田さんのことを言ってるんじゃないです。運用の話です」


倉田は机に手をついた。顔が近い。昔の俺なら、ここで身体が固まった。心臓が鳴って、汗が出て、言葉が消えた。


今日は、固まらない。


固まらないから、倉田の顔の細かい動きが見える。目の奥の焦り。口角の引きつり。怒りの裏にある恐怖。倉田は恐れている。記録を。


「運用、ねぇ」


倉田は鼻で笑った。


「お前さ、運用とか言う前に、俺に一言通せよ。勝手にチーム全員に送るなよ。お前、俺の顔潰したって分かってる?」


顔。倉田にとって最重要の資産だ。仕事の正しさより、顔。評価より、顔。顧客より、顔。顔が潰れると、彼は生きていけない。


俺は言った。


「顔を潰す意図はありません。必要な共有をしただけです」


倉田の眉が跳ねた。


「意図がない? じゃあただのバカか?」


バカ。人格攻撃。いつものパターンだ。ここで黙れば、倉田は勝つ。黙らせるのが目的だから。


俺は黙らなかった。


「バカでもいいです。記録は残ります」


倉田が息を呑んだ。


その瞬間、倉田の後ろで、椅子が軋む音がした。誰かが立ち上がった気配。視界の端に、安藤が見えた。朝会で詰められていた中堅だ。彼は立つべきか、座るべきか迷っている顔をしていた。助けたい。でも怖い。そういう顔。


俺は安藤を見なかった。見たら、彼は引っ込む。巻き込まれるのが怖いから。巻き込まないのが優しさだ。


倉田は、周囲の視線が自分に集まっているのに気づいた。怒鳴るのを一瞬だけ我慢して、笑顔を作る。


「まぁまぁ。相良は真面目だからさ。こういうの作っちゃうんだよねぇ」


と、周囲に向けて言う。笑いを要求する声色。だが誰も笑わない。笑うと“共犯”になる気がするからだ。みんな、空気の変化を感じている。


倉田の笑顔がまた崩れる。


「相良。ちょっと来い」


まただ。叱る部屋へ。だが今回は、人前で引きずる。見せしめにしたい。俺が従うかどうかを、見せたい。


俺は立ち上がった。


「いいですよ」


俺の返事が軽かったからか、倉田は一瞬だけ戸惑った。相手が怯えていないと、脅しは武器にならない。


小会議室に入る。ドアが閉まる。照明が暗い。倉田はすぐに怒鳴ると思った。


だが倉田は怒鳴らなかった。


怒鳴らない代わりに、低い声で言った。


「お前、何がしたいの?」


倉田の“本音”に近い問いだった。怖いのだ。自分の支配が壊れるのが。だから目的を知りたい。先に潰したい。


俺は言った。


「篠崎を壊さないようにしたいだけです」


倉田が笑った。


「はぁ? なんでお前が篠崎守んの? あいつは俺の部下だろ。俺が鍛える。お前が口出すな」


俺は言った。


「鍛えてるんじゃなくて、削ってます」


倉田の顔が歪んだ。


「……おい。言い方気をつけろよ」


「事実です。夜中のチャット、人格否定、成果物の扱い。記録が残ってます」


倉田の目が大きくなった。


「記録……? お前、何? 篠崎のチャット見たの?」


「見ました」


倉田の顔から血の気が引いたように見えた。倉田は“怖い”。自分がやってきたことが、事実として残っているのが。空気で殴ってきた人間は、記録に弱い。


「……お前さ。それ、どこに出す気?」


どこに出す気。つまり、俺は脅していると倉田は思っている。ある意味、正しい。だが俺の中には、復讐心も正義感もない。あるのは手順だけだ。


俺は言った。


「出すかどうかは、次の行動次第です」


倉田が目を細めた。


「脅してんの?」


「脅しじゃないです。これは安全確保です」


倉田は笑った。笑い声は乾いていた。


「安全確保ねぇ。お前、どこでそんな言葉覚えたんだよ。人事か? コンサルか? 気持ち悪いんだよ」


気持ち悪い。そう言って相手を異物にする。異物なら排除していい。倉田の世界のルールだ。


俺は言った。


「気持ち悪くていいです。篠崎は今、危険です」


倉田が机を叩いた。今度は強く。音が壁に跳ねた。


「危険危険ってさぁ! お前、篠崎が辞めたら誰が穴埋めすんだよ! お前がやるの? お前がやれんの? お前が全部背負うの?」


倉田は“責任”という言葉で縛る。辞めたら誰が。穴埋めは誰が。だから黙れ。だから耐えろ。だから壊れろ。


俺は頷いた。


「やります」


倉田が止まった。


「……は?」


「必要なら、篠崎の分も俺がやります。穴埋めします。だから壊さないでください」


倉田は、理解できない顔をした。普通の人間は自分を守る。普通の人間は損得で動く。普通の人間は、面倒を避ける。倉田の世界では、そういう“普通”が前提だ。


俺は普通じゃない。


自分を守りたい欲が薄い。損得に興味がない。面倒から逃げたい衝動もない。


倉田は、相手が普通じゃないと分かった瞬間、怖くなる。


「……お前、何? 聖人ぶってんの? ヒーローごっこ?」


「違います」


「じゃあ何だよ。なんなんだよお前!」


倉田の声が少し大きくなる。感情が出てくる。倉田は焦っている。焦ると本音が漏れる。


俺は少し考えた。答えは、嘘にしたくなかった。だが全部も言えない。


「……自分に似てるからです」


倉田が鼻で笑った。


「は? お前が? 篠崎に? お前、そんな繊細だったっけ?」


繊細。弱い。そういうラベルで笑う。倉田にとって弱さは恥だ。だから誰かの弱さを笑う。


俺は言った。


「繊細とかじゃなくて、壊れるパターンが同じです」


倉田は口を開けて、何か言おうとして、止まった。言い返すと、自分が“壊している側”だと認めることになる。認めたくない。でも否定もしにくい。記録があるから。


倉田は、別の方向に舵を切った。


「……分かった。じゃあこうしよう。篠崎はしばらくお前に付ける。お前が面倒見ろ。俺は別案件見る」


一見、譲歩に見える。だが違う。これは責任の押し付けだ。篠崎が改善しなければ、それは俺の責任になる。篠崎が辞めたら、それも俺の責任になる。倉田は自分の手を汚さずに支配を維持する。


俺は言った。


「それでいいです。ただし、篠崎への連絡は業務時間内にしてください。急ぎなら俺にください」


倉田が目を見開いた。


「はぁ? お前、俺に指示してんの?」


「お願いです。守られないなら、手順を進めます」


倉田の顔が固まった。


手順。進める。つまり、記録をもとに相談経路へ出す。倉田はそれを理解した。


倉田は黙った。数秒。長い沈黙。小会議室の空気が重くなる。倉田は選択を迫られている。怒鳴って潰すか。飲み込むか。


倉田は飲み込んだ。


「……分かったよ。分かった。めんどくせぇな、お前」


「ありがとうございます」


倉田は舌打ちをして、ドアを開けた。


フロアに戻ると、周囲の空気が違った。さっきまで漂っていた“いつもの恐怖”が、少しだけ薄い。人は気づいている。倉田が相手を潰せなかったことに。倉田が完璧な支配者ではないことに。


それだけで、空気は割れる。


俺の席に戻る途中、安藤が小さく声をかけてきた。


「相良さん……」


安藤は周囲を見てから、さらに声を落とした。


「さっきの……あれ、見てました。……大丈夫ですか」


大丈夫か、という言葉は普通なら優しさだ。だが職場では違う意味を持つ。大丈夫か=巻き込まれるなよ、という警告にもなる。


俺は頷いた。


「大丈夫です」


安藤は迷った顔をして、言った。


「……あの。議事録、助かります。正直、何が決まったか分かんなくて……」


俺は言った。


「必要なら続けます」


安藤は小さく頷いた。そして、ほんの少しだけ笑った。安心した笑いではない。希望の笑いだ。薄いけど、確かに。


その瞬間、俺は気づいた。


議事録は刃だ。倉田にとっての刃であり、俺たちにとっての盾だ。盾が一枚増えるだけで、職場の空気は変わる。


篠崎が席にいた。今日はまだ「すみません」を連打していない。顔色は悪いが、目の焦点が昨日より合っている。


俺はチャットを送った。


【相良】倉田からの連絡は俺に寄せる。今日は定時で帰っていい。

【相良】帰ったら、版管理の準備だけ。できる範囲で。


既読がつく。すぐ返信が来た。


【篠崎】……ありがとうございます。

【篠崎】すみません、じゃなくて……ありがとうございます。


俺はその文を見て、わずかに胸の奥が静かに沈むのを感じた。


感情は平坦なはずだった。だが、完全にゼロではないらしい。どこかに薄い膜みたいなものが残っている。嬉しい、でもない。安心、でもない。


ただ、「変化が起きた」と理解する感覚。


それだけで十分だった。


倉田はまだいる。職場の構造もまだある。だが、割れ目はできた。割れ目ができたら、次はそこを広げる。


俺は新しいフォルダを作った。


「Logs」


中にサブフォルダを作る。


「Minutes」「Deliverables」「Chats」「Incidents」


手順が、形になる。


感情の起伏がなくなったのに、妙な感覚に陥る。


死んだのに、生きている心地。


口元が少し緩んだ気がした。

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