第4話:淡々と
翌朝、倉田課長はいつも通りだった。
いつも通りの大きな声で笑い、いつも通り雑に人を指名し、いつも通り誰かを軽く殴る。殴ると言っても拳じゃない。言葉で殴る。空気で殴る。人が反射で怯えるように調教して、怯えた反応を見て満足する。
それが倉田の朝のルーティンだ。
俺は朝会の輪に入らず、少し離れた席でPCを開いた。今日の予定は明確だった。A社への一次回答。倉田が命じた“夕方まで”。そして篠崎のタスクを切った以上、その分も俺が背負う。
背負う、という感覚はない。タスクが移動するだけだ。
チャットが点滅する。
【倉田】相良、昨日の件な。余計なことすんなよ
【倉田】篠崎は俺が鍛える。お前は口出すな
余計なこと。鍛える。
その二語の間に、倉田の世界観が詰まっている。人は道具で、壊れても自己責任で、壊れかけたら“鍛える”という名目でさらに殴る。
俺は返信しなかった。
返信しない、という選択ができるのは、怖さがないからだ。既読がつかないと電話が来る。そういう圧があっても、怖くない。怖くないので、対処は手順になる。
倉田の脅しは、相手の恐怖に寄生している。恐怖がないなら、寄生できない。
俺はA社のチャットを開いた。顧客からの追加要望は、見積り前提を崩す系の厄介なやつだった。ITあるあるだ。「これもついでに」「これくらい簡単でしょ」「今週中に」といった言葉で、仕様と責任と納期の境界線を曖昧にする。
篠崎が担当していたのは、要望の整理と一次回答のたたき台作りだった。彼の癖で、顧客に嫌われないように言葉を柔らかくしすぎて、結果的に約束が増える。倉田はそこを利用して、さらに詰める。
俺は一次回答案を箇条書きで作り、リスクを明記し、判断が必要な点を質問に変えた。短い。明確。逃げ道を残す。感情がないと文章はこうなる。
送信。
A社担当者からすぐ返信が返ってきた。
【A社】承知いたしました。判断事項、こちらで整理します。助かりました。
助かりました。たった一言が、昔の俺なら嬉しかっただろう。承認欲求の餌だ。俺はそれを食べて、また次の餌を求めて走っていた。
今日は、何も起きない。
ただ、仕事が進んだという事実だけが残る。
昼前、倉田が俺の席に来た。
「相良。ちょっと」
倉田は、わざわざ人前で呼ぶ。周囲に「俺が上だ」を見せたいからだ。俺は立ち上がって、倉田の後ろを歩いた。
倉田が向かったのは小会議室だった。昨日の会議室Bより壁が厚い。ここは“叱る部屋”だ。叱るために、空気が整えられている。閉じた空間、逃げ道のない椅子、少し暗い照明。心理的に勝ちやすい。
倉田はドアを閉めると、いきなり言った。
「お前さ、最近なに? 反抗期?」
反抗期。大人に向かって使う言葉じゃない。相手を子どもに見せて、自分を親にするための言葉だ。
俺は椅子に座らず、立ったまま答えた。
「反抗してません。昨日は体調不良者を帰しただけです」
「体調不良? んなもん甘えだろ。こっちは客抱えてんだよ。現場は遊びじゃねぇの。分かってる?」
倉田は“現場”という言葉を武器にする。現場だから耐えろ。現場だから怒鳴っていい。現場だから人が壊れても仕方ない。
俺は頷いた。
「現場は遊びじゃないので、壊れたら困ります。篠崎は壊れかけてます」
倉田の顔が歪んだ。
「お前、誰目線だよ。医者か? 人事か? 篠崎が使えねぇのは事実だろ」
使えない。事実。倉田は“事実”という言葉も武器にする。自分が決めた評価を、事実だと言い切る。事実にされると、反論が難しくなる。
俺は言った。
「使える使えないの評価は、成果物で判断できます。篠崎の成果物は、会議で使われています」
倉田が眉を動かした。ほんの一瞬だけ、目が泳いだ。図星だ。横取りは、指摘されると弱い。なぜなら、横取りは事実に弱いからだ。
「は? 何が言いたいの」
俺は淡々と言った。
「会議の議事録を整備します。誰の成果物がどこで使われたか、記録を残します」
倉田の顔色が変わった。
「議事録? 何それ。今更? そんな暇あんの? 余計なことすんなって言ってんだろ」
余計なこと。倉田にとって、記録は余計だ。記録は自分を縛るから。空気で殴れなくなるから。
俺は続けた。
「余計じゃないです。顧客にも説明責任が必要ですし、チーム内の認識合わせにも必要です。障害対応も見積りも、ログがないと破綻します」
倉田は机を叩いた。乾いた音がした。
「お前さぁ! 理屈ばっかだな! 現場はな、理屈で回ってねぇんだよ!」
その言葉に、俺は少しだけ納得した。
確かに倉田の現場は理屈で回っていない。恐怖と空気で回っている。だから記録が嫌いなのだ。
俺は言った。
「理屈で回らない現場ほど、記録が必要です」
倉田が口を開けたまま止まった。言い返す言葉が見つからない。見つからないと、倉田は怒る。怒りは最後の武器だ。
「……お前、ほんとムカつくな。何? 俺のやり方が悪いって言いたいの?」
「悪いかどうかではなく、危ないです」
「危ない?」
「人が壊れます。壊れたら、案件が止まります。止まったら、顧客に迷惑がかかります」
倉田は鼻で笑った。
「お前、客のためとか言いながら、結局人事ごっこしてんじゃん。お前さ、自分の仕事ちゃんとやれよ。A社の件、今日中だからな。ミスったら終わりだぞ」
終わり。倉田はすぐ「終わり」を使う。終わりという言葉で、相手に恐怖を植え付ける。恐怖で支配する。
俺は頷いた。
「A社はもう返しました。既に先方から了解も取れてます」
倉田の目が見開かれた。
「は? もう? お前、勝手に?」
「一次回答です。判断事項は残してます。倉田さん確認しますか」
倉田は一瞬でスマホを見た。チャットを開き、俺の返信を読む。表情が変わる。怒りたいが、成果が出ているので怒れない。倉田は成果に弱い。成果が出ると、怒りの名目が崩れるからだ。
倉田はスマホをしまい、咳払いをした。
「……まぁ、いい。そういうのは、ちゃんと俺に相談しろよ」
手柄を自分のものにするための一言だ。相談しろ、は、俺が許可した、という形にしたいだけ。
俺は「はい」とだけ言った。
会議室を出ると、廊下の空気が少し薄く感じた。倉田の圧が背中に残っている。残っているが、怖くない。
席に戻る途中、給湯室の前で篠崎が立っていた。コップを持ったまま、動けずにいる。誰かが近くにいるわけでもないのに、固まっている。
俺は声をかけた。
「篠崎。今日、どう」
篠崎はびくりとした。反射だ。
「……大丈夫です」
またそれだ。
俺は言った。
「大丈夫じゃないなら、大丈夫じゃないと言っていい」
篠崎は唇を噛んだ。
「……昨日、帰ってから……スマホ見れなくて……」
「うん」
「課長のチャットが怖くて……」
それはもう、十分なサインだった。恐怖で、生活が侵食されている。
俺は言った。
「今日から、既読を急がなくていい。返信のテンプレを作る。『確認します』『何時までに返します』だけでいい。相手の感情に反応しない」
篠崎は小さく頷いた。
「……先輩、昨日……課長に……なんか言われませんでしたか」
「言われた」
「すみません……」
「謝らないで。これは篠崎のせいじゃない」
篠崎は目を伏せた。俺の言葉を信じたいが、信じると怖い。信じると、戦いが始まる。
俺は言った。
「今日、ひとつだけやる。会議の議事録を残す」
「議事録……」
「誰が何を言ったか。誰の資料が使われたか。決定事項。保留事項。あと、作成者」
篠崎の喉が動いた。
「……作成者って……」
「横取りが成立しないようにする」
篠崎は息を呑んだ。
そして、恐る恐る言った。
「……先輩、それ、課長……怒りますよ」
「怒る」
「……じゃあ……」
「怒るなら、効いてる」
俺はそう言って、篠崎を見た。篠崎は、少しだけ笑った。笑ったというより、表情がほどけた。恐怖の中に、ほんの少しだけ光が差した。
その光を見て、俺は思った。
感情がない俺でも、人の表情の変化は分かる。分かるから、手順を続けられる。
午後、倉田がまたフロアを歩き回る。機嫌を撒き散らす。誰かが笑う。誰かが萎縮する。いつも通りの光景。
俺はPCのフォルダを開き、新しいファイルを作った。
「議事録_YYYYMMDD_朝会」
そこに、今日の朝会で倉田が言ったことを書き始める。篠崎が報告したことを書き始める。安藤が言ったことを書き始める。決まったこと、決まってないこと。
作成者欄に、自分の名前を入れる。
そして、共有先に「チーム全員」を入れる。
送信ボタンにカーソルを合わせた。
一瞬だけ、昔の感覚が蘇りそうになる。
――送ったら、怒られる。
――目をつけられる。
――面倒になる。
――逃げたい。
だが、その感覚は、すぐに消えた。
逃げたい、という欲がない。
俺はクリックした。
送信。
数秒後、既読が増えていく。誰かが見ている。誰かが息を呑んでいる。誰かが「やばい」と思っている。倉田がそれに気づくまでの時間が、短いのは分かっていた。
倉田の席から、椅子が引かれる音がした。
そして、倉田の足音が近づいてきた。




