表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
I kill  作者: じゃがいも畑
3/20

第3話:横取り

18時を少し回った頃、フロアの空気が緩み始める。


帰る人間が増えるほど、残る人間の呼吸が浅くなる。SIerの夜は、勝ち残り戦みたいな顔をしている。定時で帰る者は“余裕がある”か“諦めている”かのどちらかで、残る者は“頑張っている”か“追い詰められている”かのどちらかだ。


倉田課長は、こういう時間帯に機嫌がいい。日中に人を詰めて、夕方に冗談を言って、帳尻を合わせた気になる。


「お疲れ〜。まだ残ってんの? 偉いねぇ」


と、通りすがりに声をかけてくる。言葉は優しい。でも意味は違う。残っているやつは“使える”。帰るやつは“使えない”。その仕分けを、笑いながらしている。


俺は会議室Bに入った。


この会議室は、壁が薄い。中で話した内容が、廊下に漏れる。だから誰も、深刻な話をしたがらない。――そういう部屋を、俺はあえて選んだ。深刻な話を“深刻にさせない”ためだ。重くすると、篠崎は逃げる。逃げる癖がある人間は、重さに耐えられない。


机にPCを置いて、椅子に座る。時計を見る。18時半。


篠崎は、18時31分に来た。


ドアを開ける動作が、妙に静かだった。音を立てないようにしている。叱られるのが怖い人間の動きだ。


「……失礼します」


「座って」


「はい。すみません」


篠崎は椅子に腰掛けた。目は落ち着かない。俺の目を見ない。手が膝の上で、少しだけ震えている。


俺は、余計な前置きをしなかった。


「事実だけ教えて。何が起きてる?」


篠崎は口を開きかけて、閉じた。言葉を探す時間が長い。何から話せば正解か分からない顔だ。相手の反応を見ながら、失点しないように話すタイプ。


俺は待った。沈黙は怖くない。


「……今日の会議の件、ですよね」


「うん」


「俺が作った資料を……課長が……」


そこで篠崎は止まった。言い切った瞬間に何かが起きる気がして、言葉を濁す。濁したほうが安全だからだ。


俺はうなずいた。


「横取りされてる?」


篠崎の肩が小さく跳ねた。露骨な言葉を使われると、事実が事実として形を持ってしまうからだ。


「……横取りって……」


「違うなら違うでいい」


篠崎は唇を噛んだ。そして、諦めたように息を吐いた。


「横取り、です」


その一言が出た瞬間、篠崎の顔が少し崩れた。泣く寸前の顔。だが涙は出ない。泣く余裕がない人間の顔だ。


「いつから?」


「……最初は、指導の一環だと思ってました。課長が“添削する”って言って、資料を直して……そのまま会議に出して……」


「篠崎の名前は?」


「消されます。あるいは、最初から入れないように言われます。『顧客に見せる資料に担当者名は要らない』って」


なるほど、と思った。


それは倉田がよく使う論理だ。“顧客のため”という名目で、個人の手柄を消す。顧客のため、チームのため、会社のため。そう言えば何でも正しい気がしてくる。


だが、会議で倉田は言うのだ。「俺が前から言ってた」と。


「会議で自分の手柄にしてる?」


篠崎は小さくうなずいた。


「……課長が言うんです。『俺が鍛えた』って。『俺の指示でやった』って。みんな笑って……俺も笑って……」


笑ってしまう。笑わされる。笑うことで、攻撃が止むかもしれないと思う。俺も、昔そうだった。


「他には?」


篠崎は視線を落とした。


「……怒鳴られます。チャットで。夜中でも。既読がつかないと、電話が来ます」


「記録は残ってる?」


篠崎の目が一瞬、俺を見た。そこに恐怖がある。「記録」という言葉は危険だ。戦うことになる。戦うのは怖い。


「……残ってます」


「見せて」


篠崎は社用スマホを取り出した。指が迷う。躊躇している。だが、ついにチャット画面を俺に見せた。


画面には、見慣れた言葉が並んでいた。


【倉田】これ誰がやったの?

【倉田】お前だろ?

【倉田】頭使え

【倉田】返信遅い。なめてんの?

【倉田】“できない”じゃなくて“やれ”

【倉田】お前のせいで客に迷惑かかってるんだけど

【倉田】お前、使えねぇな


最後に、軽い絵文字が付いているものもあった。冗談の皮をかぶせることで、暴力を暴力じゃなくするやり方だ。


篠崎は言った。


「俺、これ見てると……何が悪いのか分からなくなるんです。俺が全部悪いような気がして……」


「気がする、だけ?」


篠崎は黙った。自分の感覚が信じられない。信じた瞬間に、世界と戦わないといけない。


俺はスマホを返した。


「篠崎。今からやることは三つだけ」


篠崎が顔を上げる。三つ。具体的な数字は、彼の脳を安心させる。無限じゃない。


「一つ。成果物は全部、版管理する。ファイル名に日付と作成者を入れる。SharePointでもいい。履歴が残るところに上げる」


篠崎はうなずいた。できる。これはできる。


「二つ。口頭指示は、文面にする。“確認です”ってチャットで返す。『先ほどのお話はこういう理解で合ってますか』って。指示が残る」


篠崎はうなずく。少しだけ顔が強張る。倉田が嫌がるからだ。だが、嫌がるということは効く。


「三つ。今までのチャット、消さない。スクショを取る。日時とセットで」


篠崎の喉が動いた。


「……それ、やったら……課長にバレますよね」


「バレる」


俺は即答した。嘘は言わない。


「バレたら、終わりじゃないですか」


「終わりじゃない。経路を作る。相談先を確保する。産業医でも、人事でも、コンプラ窓口でも、外でもいい。逃げ道がある状態にする」


篠崎の目が揺れた。逃げ道。彼には、逃げることが“悪”だと思い込む癖がある。逃げると負ける。逃げると恥。逃げると嫌われる。そういう空気の中で生きてきたのだろう。


俺は言った。


「逃げるのは負けじゃない。死ぬのが負けだ」


その言葉は、俺の口から出た瞬間、少しだけ引っかかった。


死ぬ。


昨日の自分が、透明な膜の向こうで笑った気がした。笑ったというより、ただそこにいた。感情のない影。


篠崎は視線を落としたまま、ぽつりと言った。


「……俺、最近、朝起きた時……会社に行くのが怖くて……」


「うん」


「……吐き気がして……手が震えて……」


「うん」


「……でも、みんな頑張ってるし……俺だけが弱いみたいで……」


篠崎の声が、少しだけ掠れた。彼は泣かない。泣いたら負けると思っている。


俺は、彼を慰めなかった。


慰めは、倉田に奪われた彼の“事実”を曖昧にする。曖昧にした瞬間、また元に戻る。


「弱いとか強いとかじゃない。倉田がやってるのは、構造的に人を壊すやり方だ。壊れて当たり前」


篠崎は小さく頷いた。


その頷きは、救われたというより、やっと“自分のせいじゃない可能性”に触れた頷きだった。


俺は続けた。


「俺のほうで、もう一つやる」


「え……」


「会議の議事録。成果物の提出履歴。誰が作ったかが分かるところを押さえる。倉田が“俺がやった”って言った場面のログも取る」


篠崎が不安そうに俺を見る。


「先輩……それ、危なくないですか」


危ない。だが、危ないという感覚が薄い。


俺は自分の胸に手を当てた。やはり、鼓動はない。ないのに、動いている。


「危ないからやる」


篠崎は、意味が分からない顔をした。


「……先輩、なんで……そこまで……」


なんで。


理由を問われると困る。感情がないからだ。正義感で動いているわけじゃない。怒りで動いているわけでもない。優しさでもない。


それでも、答えはあった。


「昔の俺に似てるから」


篠崎の目が少し見開かれた。俺がそんなことを言うのは意外だったのだろう。


「……先輩も、課長に……」


「似たような空気で、削られた」


俺はそう言って、言葉を止めた。詳細は言わない。言わないほうがいい。俺の過去は、今の目的に必要ない。


篠崎はしばらく黙っていた。そして、ようやく言った。


「……分かりました。やります」


その言葉は、勇気というより、諦めに近かった。だが諦めでもいい。動けば変わる。動けないまま死ぬのが一番まずい。


会議室を出ると、廊下の向こうから倉田の声が聞こえた。


「おーい、篠崎。まだ残ってんの? 偉いねぇ」


篠崎の肩が硬くなる。反射だ。犬が飼い主の足音に怯えるみたいな反射。


俺は、篠崎より先に倉田のほうを見た。


倉田は笑っている。いつも通りの笑顔。いつも通りの圧。周囲に二人ほど若手がいて、気まずそうに笑っている。倉田は自分の場を作っている。


俺は思った。


この人間を変える必要はない。


変わらないものに期待するのは、無駄だ。変わらないものに感情を使うのは、損だ。


殺すべきは、人じゃない。


仕組みだ。


倉田は俺に気づいて、手を振った。


「相良! お前もまだ残ってんの? 今日偉いじゃん」


偉い。そうやって言葉で縛る。偉いから残れ。偉いから従え。偉いから耐えろ。


俺は頷いて、淡々と言った。


「篠崎、今日は上がらせます。体調悪いので」


倉田の笑顔が一瞬、止まった。


「は? 体調? いやいや、若いのに甘えんなよ。明日の顧客回答どうすんの」


甘え。若い。そういうラベルで、相手の事情を消す。消してから殴る。


俺は、倉田の目を見た。怖さがないから、視線を逸らす必要がなかった。


「明日の顧客回答は俺が持ちます。篠崎のタスクは切ります」


倉田の眉が動く。周囲の若手が息を止める気配。ここで逆らうのは“空気を壊す”。昨日までの俺なら絶対にしなかった。篠崎もそれを知っているから、目を見開いている。


倉田は笑った。笑って、釘を刺す。


「へぇ。お前、なんか今日おかしくね? 守るマン? ヒーロー?」


ヒーローという言葉に、皮肉を詰める。守る、という行為を馬鹿にする。周囲に「笑え」という圧をかける。


誰かが薄く笑った。笑わないと自分が危ないから。


俺は笑わなかった。


「必要な判断です」


倉田の笑顔が、ゆっくり消える。


「……相良。お前、後でちょっと来い」


「はい」


俺は即答した。逃げない。怖くない。


篠崎が小さく首を振って、何か言いたそうにした。俺は目だけで「行け」と伝えた。篠崎は、ぎこちなく頭を下げて、その場を離れた。


倉田が俺に近づいた。声を落とす。


「お前さ、最近調子乗ってない?」


調子。乗っているのはいつも倉田だ。だが言い返しても意味がない。倉田は言葉で勝ちたいだけだ。


俺は言った。


「仕事の話なら、チャットにしてください。記録に残るので」


倉田の顔が固まった。


一瞬、殴られるかと思った。殴られても痛みはあるだろうが、怖くはない。――そんな考えが浮かぶあたり、俺はやはりおかしい。


倉田は、短く笑った。笑ったというより、歯を見せただけだった。


「……はは。お前、面倒くせぇな」


「はい」


「まぁいい。とりあえず明日の件、ちゃんとやれよ。ミスったら分かってるよな?」


脅し。だが、脅しは相手が恐れて初めて成立する。


俺は頷いた。


「やります」


倉田は舌打ちしそうな顔をして、踵を返した。背中を見送って、俺は自分の手を見た。淡い白い指先。血の気がないのに、確かに動く。


そして、確信した。


これから起きるのは、善悪の戦いじゃない。


手順の戦いだ。


俺は誰かを殺したいわけじゃない。


ただ――この職場で、人を殺している仕組みを殺す。


そのために、俺は明日から動く。


「今からでも遅くない」


心の中で、短く呟いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ