第3話:横取り
18時を少し回った頃、フロアの空気が緩み始める。
帰る人間が増えるほど、残る人間の呼吸が浅くなる。SIerの夜は、勝ち残り戦みたいな顔をしている。定時で帰る者は“余裕がある”か“諦めている”かのどちらかで、残る者は“頑張っている”か“追い詰められている”かのどちらかだ。
倉田課長は、こういう時間帯に機嫌がいい。日中に人を詰めて、夕方に冗談を言って、帳尻を合わせた気になる。
「お疲れ〜。まだ残ってんの? 偉いねぇ」
と、通りすがりに声をかけてくる。言葉は優しい。でも意味は違う。残っているやつは“使える”。帰るやつは“使えない”。その仕分けを、笑いながらしている。
俺は会議室Bに入った。
この会議室は、壁が薄い。中で話した内容が、廊下に漏れる。だから誰も、深刻な話をしたがらない。――そういう部屋を、俺はあえて選んだ。深刻な話を“深刻にさせない”ためだ。重くすると、篠崎は逃げる。逃げる癖がある人間は、重さに耐えられない。
机にPCを置いて、椅子に座る。時計を見る。18時半。
篠崎は、18時31分に来た。
ドアを開ける動作が、妙に静かだった。音を立てないようにしている。叱られるのが怖い人間の動きだ。
「……失礼します」
「座って」
「はい。すみません」
篠崎は椅子に腰掛けた。目は落ち着かない。俺の目を見ない。手が膝の上で、少しだけ震えている。
俺は、余計な前置きをしなかった。
「事実だけ教えて。何が起きてる?」
篠崎は口を開きかけて、閉じた。言葉を探す時間が長い。何から話せば正解か分からない顔だ。相手の反応を見ながら、失点しないように話すタイプ。
俺は待った。沈黙は怖くない。
「……今日の会議の件、ですよね」
「うん」
「俺が作った資料を……課長が……」
そこで篠崎は止まった。言い切った瞬間に何かが起きる気がして、言葉を濁す。濁したほうが安全だからだ。
俺はうなずいた。
「横取りされてる?」
篠崎の肩が小さく跳ねた。露骨な言葉を使われると、事実が事実として形を持ってしまうからだ。
「……横取りって……」
「違うなら違うでいい」
篠崎は唇を噛んだ。そして、諦めたように息を吐いた。
「横取り、です」
その一言が出た瞬間、篠崎の顔が少し崩れた。泣く寸前の顔。だが涙は出ない。泣く余裕がない人間の顔だ。
「いつから?」
「……最初は、指導の一環だと思ってました。課長が“添削する”って言って、資料を直して……そのまま会議に出して……」
「篠崎の名前は?」
「消されます。あるいは、最初から入れないように言われます。『顧客に見せる資料に担当者名は要らない』って」
なるほど、と思った。
それは倉田がよく使う論理だ。“顧客のため”という名目で、個人の手柄を消す。顧客のため、チームのため、会社のため。そう言えば何でも正しい気がしてくる。
だが、会議で倉田は言うのだ。「俺が前から言ってた」と。
「会議で自分の手柄にしてる?」
篠崎は小さくうなずいた。
「……課長が言うんです。『俺が鍛えた』って。『俺の指示でやった』って。みんな笑って……俺も笑って……」
笑ってしまう。笑わされる。笑うことで、攻撃が止むかもしれないと思う。俺も、昔そうだった。
「他には?」
篠崎は視線を落とした。
「……怒鳴られます。チャットで。夜中でも。既読がつかないと、電話が来ます」
「記録は残ってる?」
篠崎の目が一瞬、俺を見た。そこに恐怖がある。「記録」という言葉は危険だ。戦うことになる。戦うのは怖い。
「……残ってます」
「見せて」
篠崎は社用スマホを取り出した。指が迷う。躊躇している。だが、ついにチャット画面を俺に見せた。
画面には、見慣れた言葉が並んでいた。
【倉田】これ誰がやったの?
【倉田】お前だろ?
【倉田】頭使え
【倉田】返信遅い。なめてんの?
【倉田】“できない”じゃなくて“やれ”
【倉田】お前のせいで客に迷惑かかってるんだけど
【倉田】お前、使えねぇな
最後に、軽い絵文字が付いているものもあった。冗談の皮をかぶせることで、暴力を暴力じゃなくするやり方だ。
篠崎は言った。
「俺、これ見てると……何が悪いのか分からなくなるんです。俺が全部悪いような気がして……」
「気がする、だけ?」
篠崎は黙った。自分の感覚が信じられない。信じた瞬間に、世界と戦わないといけない。
俺はスマホを返した。
「篠崎。今からやることは三つだけ」
篠崎が顔を上げる。三つ。具体的な数字は、彼の脳を安心させる。無限じゃない。
「一つ。成果物は全部、版管理する。ファイル名に日付と作成者を入れる。SharePointでもいい。履歴が残るところに上げる」
篠崎はうなずいた。できる。これはできる。
「二つ。口頭指示は、文面にする。“確認です”ってチャットで返す。『先ほどのお話はこういう理解で合ってますか』って。指示が残る」
篠崎はうなずく。少しだけ顔が強張る。倉田が嫌がるからだ。だが、嫌がるということは効く。
「三つ。今までのチャット、消さない。スクショを取る。日時とセットで」
篠崎の喉が動いた。
「……それ、やったら……課長にバレますよね」
「バレる」
俺は即答した。嘘は言わない。
「バレたら、終わりじゃないですか」
「終わりじゃない。経路を作る。相談先を確保する。産業医でも、人事でも、コンプラ窓口でも、外でもいい。逃げ道がある状態にする」
篠崎の目が揺れた。逃げ道。彼には、逃げることが“悪”だと思い込む癖がある。逃げると負ける。逃げると恥。逃げると嫌われる。そういう空気の中で生きてきたのだろう。
俺は言った。
「逃げるのは負けじゃない。死ぬのが負けだ」
その言葉は、俺の口から出た瞬間、少しだけ引っかかった。
死ぬ。
昨日の自分が、透明な膜の向こうで笑った気がした。笑ったというより、ただそこにいた。感情のない影。
篠崎は視線を落としたまま、ぽつりと言った。
「……俺、最近、朝起きた時……会社に行くのが怖くて……」
「うん」
「……吐き気がして……手が震えて……」
「うん」
「……でも、みんな頑張ってるし……俺だけが弱いみたいで……」
篠崎の声が、少しだけ掠れた。彼は泣かない。泣いたら負けると思っている。
俺は、彼を慰めなかった。
慰めは、倉田に奪われた彼の“事実”を曖昧にする。曖昧にした瞬間、また元に戻る。
「弱いとか強いとかじゃない。倉田がやってるのは、構造的に人を壊すやり方だ。壊れて当たり前」
篠崎は小さく頷いた。
その頷きは、救われたというより、やっと“自分のせいじゃない可能性”に触れた頷きだった。
俺は続けた。
「俺のほうで、もう一つやる」
「え……」
「会議の議事録。成果物の提出履歴。誰が作ったかが分かるところを押さえる。倉田が“俺がやった”って言った場面のログも取る」
篠崎が不安そうに俺を見る。
「先輩……それ、危なくないですか」
危ない。だが、危ないという感覚が薄い。
俺は自分の胸に手を当てた。やはり、鼓動はない。ないのに、動いている。
「危ないからやる」
篠崎は、意味が分からない顔をした。
「……先輩、なんで……そこまで……」
なんで。
理由を問われると困る。感情がないからだ。正義感で動いているわけじゃない。怒りで動いているわけでもない。優しさでもない。
それでも、答えはあった。
「昔の俺に似てるから」
篠崎の目が少し見開かれた。俺がそんなことを言うのは意外だったのだろう。
「……先輩も、課長に……」
「似たような空気で、削られた」
俺はそう言って、言葉を止めた。詳細は言わない。言わないほうがいい。俺の過去は、今の目的に必要ない。
篠崎はしばらく黙っていた。そして、ようやく言った。
「……分かりました。やります」
その言葉は、勇気というより、諦めに近かった。だが諦めでもいい。動けば変わる。動けないまま死ぬのが一番まずい。
会議室を出ると、廊下の向こうから倉田の声が聞こえた。
「おーい、篠崎。まだ残ってんの? 偉いねぇ」
篠崎の肩が硬くなる。反射だ。犬が飼い主の足音に怯えるみたいな反射。
俺は、篠崎より先に倉田のほうを見た。
倉田は笑っている。いつも通りの笑顔。いつも通りの圧。周囲に二人ほど若手がいて、気まずそうに笑っている。倉田は自分の場を作っている。
俺は思った。
この人間を変える必要はない。
変わらないものに期待するのは、無駄だ。変わらないものに感情を使うのは、損だ。
殺すべきは、人じゃない。
仕組みだ。
倉田は俺に気づいて、手を振った。
「相良! お前もまだ残ってんの? 今日偉いじゃん」
偉い。そうやって言葉で縛る。偉いから残れ。偉いから従え。偉いから耐えろ。
俺は頷いて、淡々と言った。
「篠崎、今日は上がらせます。体調悪いので」
倉田の笑顔が一瞬、止まった。
「は? 体調? いやいや、若いのに甘えんなよ。明日の顧客回答どうすんの」
甘え。若い。そういうラベルで、相手の事情を消す。消してから殴る。
俺は、倉田の目を見た。怖さがないから、視線を逸らす必要がなかった。
「明日の顧客回答は俺が持ちます。篠崎のタスクは切ります」
倉田の眉が動く。周囲の若手が息を止める気配。ここで逆らうのは“空気を壊す”。昨日までの俺なら絶対にしなかった。篠崎もそれを知っているから、目を見開いている。
倉田は笑った。笑って、釘を刺す。
「へぇ。お前、なんか今日おかしくね? 守るマン? ヒーロー?」
ヒーローという言葉に、皮肉を詰める。守る、という行為を馬鹿にする。周囲に「笑え」という圧をかける。
誰かが薄く笑った。笑わないと自分が危ないから。
俺は笑わなかった。
「必要な判断です」
倉田の笑顔が、ゆっくり消える。
「……相良。お前、後でちょっと来い」
「はい」
俺は即答した。逃げない。怖くない。
篠崎が小さく首を振って、何か言いたそうにした。俺は目だけで「行け」と伝えた。篠崎は、ぎこちなく頭を下げて、その場を離れた。
倉田が俺に近づいた。声を落とす。
「お前さ、最近調子乗ってない?」
調子。乗っているのはいつも倉田だ。だが言い返しても意味がない。倉田は言葉で勝ちたいだけだ。
俺は言った。
「仕事の話なら、チャットにしてください。記録に残るので」
倉田の顔が固まった。
一瞬、殴られるかと思った。殴られても痛みはあるだろうが、怖くはない。――そんな考えが浮かぶあたり、俺はやはりおかしい。
倉田は、短く笑った。笑ったというより、歯を見せただけだった。
「……はは。お前、面倒くせぇな」
「はい」
「まぁいい。とりあえず明日の件、ちゃんとやれよ。ミスったら分かってるよな?」
脅し。だが、脅しは相手が恐れて初めて成立する。
俺は頷いた。
「やります」
倉田は舌打ちしそうな顔をして、踵を返した。背中を見送って、俺は自分の手を見た。淡い白い指先。血の気がないのに、確かに動く。
そして、確信した。
これから起きるのは、善悪の戦いじゃない。
手順の戦いだ。
俺は誰かを殺したいわけじゃない。
ただ――この職場で、人を殺している仕組みを殺す。
そのために、俺は明日から動く。
「今からでも遅くない」
心の中で、短く呟いた。




