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I kill  作者: じゃがいも畑
20/20

第20話:実家のベッド

実家の駅で降りたのは、平日の夜だった。


改札を出ると、冷たい空気が頬に当たる。

吐いた息が白くなるはずなのに、俺の息は白くならない。

息はしている。胸は動いている。

でも“生きている証拠”だけが、どこか欠けている。


歩きながら、スマホを見た。


篠崎からのメッセージが昼に届いていた。


【篠崎】相良さん

【篠崎】今日、異動先のチームの人と顔合わせしました

【篠崎】怒鳴られませんでした

【篠崎】普通に、説明されました

【篠崎】……俺、ちゃんと聞けました


怒鳴られない。普通に説明される。

それが“普通”なのに、彼にとっては奇跡みたいに響く。


【篠崎】あと

【篠崎】今まで、俺のせいで迷惑かけてすみませんって言いそうになったけど

【篠崎】言いませんでした

【篠崎】相良さんが「悪くない」って言ってくれたの、効いてます


俺は画面を見たまま、少しだけ立ち止まった。


効いている。

それなら、もう大丈夫だ。


返事は短くした。


【相良】それでいい

【相良】頑張れ


送信して、スマホをポケットに入れた。


家の前に着く。


玄関灯がついている。

昔から変わらない明るさ。

インターホンのボタンが、やけに白い。


押すと、少し間があって、母の声がした。


「はーい」


扉が開いて、母が出てきた。

一瞬、俺を見て固まる。


「あら……渉? どうしたの、こんな時間に」


母の目が俺の顔の白さを拾った。

拾って、心配の形に変わる。


「仕事、忙しいの? 大丈夫?」


大丈夫か、と聞かれて、俺は少し考えた。

生きていた頃、何度もその言葉で逃げた。


今は逃げる必要がない。


「大丈夫。……ちょっと、帰りたくなった」


母は何か言いかけて、言葉を飲み込んだ。

代わりに、玄関を大きく開けた。


「寒いでしょ。入って。ご飯、まだ残ってるよ」


食欲はない。

でも、温かい匂いがする。味はしないのに、匂いだけがある。

匂いは、記憶に繋がっている。


「うん」


靴を脱いで上がると、廊下の床が少し軋んだ。

その音だけで、胸の奥が微かに動く気がした。


リビングから父が顔を出した。


「お、渉か。珍しいな」


父はいつも通りの声だった。

“いつも通り”が、ここでは当たり前にある。


ソファから妹が立ち上がった。


「え、ほんとに帰ってきた。マジで?」


朱音は笑った。

笑いながら近づいて、俺の顔を覗き込む。


「……お兄ちゃん、白くない? なんか……大丈夫?」


家族は、同じ質問をする。

大丈夫か。


俺は頷いた。


「大丈夫」


嘘じゃない。

ここに帰ってこれた時点で、俺はもう“終わり”に向かっている。


食卓に座る。


母が味噌汁を出してくれた。

湯気が上がる。匂いがする。


俺は口に運んだ。


味はしない。


でも、味噌汁の“あったかさ”だけは分かった。

喉を通る温度。胃に落ちる重さ。

それだけで十分だった。


父が言った。


「仕事、大変か」


俺は箸を置き、少しだけ間を取った。


生きていた頃なら、ここで笑って誤魔化した。

「まあね」で終わらせた。

でも今は、誤魔化す欲がない。


「大変だった。……でも、終わった」


父が眉を上げる。


「終わった?」


俺は頷いた。


「職場の人間関係。ずっと、それで息ができなかった。

でも最近、やっと……理不尽が、理不尽として扱われた」


家族は黙って聞いていた。

黙って聞くのが、この家の優しさだった。


朱音が小さく言った。


「……そっか。ちゃんと、言えるようになったんだね」


母が俺の手元を見て言った。


「痩せたね」


父が言った。


「……しばらく、休め。ここにいろ」


俺は頷いた。


「うん」


夜。自分の部屋。


机も本棚も、ほとんど昔のままだった。

仕事の資料も、PCの画面もない。

“成果”がない部屋。


布団に入る。


眠くはない。

睡眠欲はない。

でも、横になる必要はある気がした。


枕の匂いがした。

洗剤の匂い。少し古い布の匂い。

それが妙に落ち着く。


スマホを手に取る。


篠崎から、またメッセージが来ていた。


【篠崎】相良さん

【篠崎】俺、今日、帰りにコンビニ寄りました

【篠崎】何も買わなかったけど

【篠崎】寄れるようになりました

【篠崎】相良さんがいなくても、歩けそうです


いなくても。


それでいい。


俺は返した。


【相良】安心した

【相良】あんまり無理するなよ


送信して、スマホを置いた。


天井を見る。


暗い天井。

そこに、ふっと昔の自分が重なる。


誕生日の夜。

首にかかるロープの感触。

椅子が倒れる音。

その後の静けさ。


俺は、あの夜に戻りたいわけじゃない。


ただ――

“言えなかった”ことを言いに来た。


廊下から足音がして、母がノックした。


「渉、起きてる?」


「起きてる」


母が部屋に入ってきて、枕元に座った。


「……何かあったの?」


母は優しい声だった。

優しすぎて、胸の奥が少しだけ痛む気がした。

痛みも欲の一つだ。

でも、痛みはまだ残っているらしい。


俺は言った。


「ありがとう」


母が目を丸くした。


「え?」


「今まで、ありがとう。育ててくれて。

ご飯作ってくれて。学校行かせてくれて。

俺、ちゃんと感謝、言ってなかった」


母の目が潤んだ。


「急にどうしたの……」


父がドアのところに立っていた。

朱音も、廊下から覗いている。


俺は、順番に見た。


父。母。朱音。


言葉は、用意していたわけじゃない。

欲がないから、飾れない。

だから、短い。


「父さん。ありがとう。

母さん。ありがとう。

朱音。ありがとう」


朱音が笑って泣いた。


「なにそれ、ズルい……お兄ちゃん」


父は咳払いをした。

照れ隠しの咳払い。


母は俺の手を握った。

温かい。味はなくても、温度はある。


「……こちらこそ。帰ってきてくれて、ありがとう」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がすうっと軽くなった。


軽くなるというより、ほどける。

縛っていた糸が切れる。


俺は、もう役目を果たした。


母と父と朱音が部屋を出ていく。

扉が静かに閉まる。


一人になる。


天井が、やけに遠い。


俺は、自分の胸に手を当てた。


鼓動はない。

でも、怖くない。


生きているときは、ずっと怖かった。

嫌われるのが怖い。失敗が怖い。置いていかれるのが怖い。

欲が、俺を縛っていた。


今は欲がない。

だから、自由だ。


自由になったから、最後にできた。


誰かを救う。

感謝を言う。


それだけで、十分だった。


目を閉じる。


眠くはない。

ただ、目を閉じることが自然だった。


白い膜が降りてくる。

音が遠くなる。身体の輪郭が溶けていく。


最後に、篠崎の顔が浮かんだ。

泣きながら歩いていた顔。

「俺の人生です」と言った顔。


そして家族の顔が浮かんだ。

いつも通りの声。いつも通りの匂い。

いつも通りの温度。


俺は、心の中でだけ言った。


――ありがとう。


胸に当てた手の感覚が、少しずつ薄くなる。

指先が空気になるみたいに。


そして、静かに。

本当に静かに。


相良渉は、二度目の死を迎えた。

最終話です。ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

感想いただけると嬉しいです。

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