第2話:朝会の空気
朝会は、毎朝九時ちょうどに始まる。
会議室の予約は取らない。誰かが「始めましょう」と言い出すわけでもない。フロアの中央にある簡易テーブルに人が集まり、自然発生的に輪ができる。自然発生、という言い方は嘘だ。本当は、倉田課長が立った瞬間に、そこが中心になるだけだ。
「よし。昨日の進捗いくぞ」
倉田課長の声は、朝からよく通る。声が大きい人間は、それだけで場を支配できる。SIerの朝会は、進捗報告という名の“機嫌確認”だ。数字や課題の整理より先に、誰が許されていて、誰が詰められるかが決まる。
俺は輪の端に立った。端が楽、という理由ではない。端に立つ癖が残っているだけだった。昨日までの俺は、目立たない位置を選ぶことで、攻撃される確率を下げていた。かわりに、何も得られなかった。存在感を消して、ただ生き延びていた。
今日は、端でも中央でも、同じだった。圧がない。
倉田は資料を持っていない。スマホでチャットを見ながら、適当に人を指名していく。
「篠崎。A社、昨日どうなった?」
「はい。先方からの追加要望が出ておりまして……今日中に一次回答を返す予定です」
篠崎の声は小さくない。むしろ丁寧で、聞き取りやすい。新人にありがちな早口でもない。それでも彼は、毎回「すみません」を挟む癖がある。報告の途中で、自分から謝ってしまう。
「すみません、こちらの見積りの前提整理がまだ甘くて――」
倉田が笑った。
「お前さぁ。謝る前に頭使えよ。なんでそれが甘いと思うの? 甘いなら直せよ。な?」
笑いながら言う。笑っているのに、空気が冷える。周りの人間は、笑っていいのか黙っていいのか分からない顔で、口角だけを上げる。
俺は、その冷え方を知っていた。昨日までなら胃が縮み、背中が汗ばんだ。篠崎が詰められるのを見るだけで、「次は俺かもしれない」が浮かび、心臓が速くなった。
今日は、心臓が鳴らない。
篠崎は「申し訳ありません」と言って、顔を下げた。倉田は満足したのか、すぐ次の人に視線を移した。
「安藤。例の障害、どう?」
「原因切り分け中です。今日午前中にログを――」
「切り分け中? またそれ? いつも“中”だよな。中って何? いつ終わるの?」
言葉が鋭くなる。倉田は“詰める”ときに、相手が逃げられない問い方をする。答えが出ない問いで追い込む。理由は簡単だ。支配したいから。
安藤は言葉に詰まって、目を泳がせた。周囲の人間が息を殺す。誰かが助け舟を出すと、今度は助け舟を出したやつが目立つ。つまり、誰も出さない。
その場のルールだ。
俺はそのルールを、守って生きてきた。守ったから生き延びた。守ったから誰も助けられなかった。守ったから、最後には自分も助からなかった。
倉田が安藤に近づく。身長差の圧で、言葉以上に詰める。
「な? 仕事ってさ、早い遅いじゃないんだよ。ちゃんとやるかどうかなんだよ」
ちゃんと。倉田の言う“ちゃんと”は、倉田の気分に合うかどうかだ。
安藤が「すみません」と言った瞬間、倉田の目がこちらを向いた。
「相良。お前、昨日の件どうした?」
唐突だった。昨日の件、という言い方が雑だ。倉田にとって「昨日」は単なる引き出しで、「件」は便利なフックでしかない。相手が困る顔を見るのが目的だ。
昨日までの俺なら、すぐに頭が真っ白になった。曖昧な問いに対して、何を答えれば正解か分からなくなる。場の空気を壊したくなくて、笑って誤魔化して、余計な言い訳を足して、さらに自分で自分の首を絞める。
今日は違った。
「どの件ですか」
口が先に動いた。声は落ち着いている。丁寧語で、質問を返す。それだけで十分だ。曖昧な問いを曖昧なまま受け取らない。仕事として当たり前の返しだ。
倉田が一瞬、止まった。
「え?」
「昨日の件、というのが複数あります。顧客対応の話ですか。障害の話ですか。それとも、見積りの前提整理の話ですか」
周りの空気が微妙に揺れた。誰かが「あっ」と小さく息を飲んだ気配がした。倉田に対して“問い返す”のは、禁じ手に近い。倉田は、自分が中心である場で、自分の曖昧さを指摘されるのが嫌いだ。
倉田は笑った。笑い方だけはうまい。
「お前さ、なんか固くね? 今日は」
「そうですか」
俺はそれ以上、何も足さなかった。言い訳もしない。媚びもしない。冗談に合わせて笑いもしない。ただ、事実だけを返す。
倉田の笑顔が、ほんの少しだけ引きつった。
「まぁいいや。後でチャット飛ばすわ。ちゃんと見とけよ」
「はい」
俺は頷いた。
倉田はそれ以上こちらを追わなかった。追えば追うほど、自分が怒っている理由を説明しなければならなくなる。倉田は説明が嫌いだ。感情で殴るのが好きな人間は、理由を言語化すると弱くなる。
朝会はそのまま終わった。誰も「お疲れ様でした」と言わないまま、各自の席に散っていく。散り方だけが、妙に速い。みんな、早く倉田の視界から消えたいのだ。
俺は席に戻って、PCを開いた。チャット通知が点滅している。倉田からだった。
【倉田】相良、昨日のA社の追加要望、一次回答の方向性どうすんの?
【倉田】てかお前今日冷たくね? 体調?w
冷たくね? w。
“w”がついているのが腹立たしいはずだった。昨日までなら腹が立った。その腹立ちを表に出せないから、余計に疲れた。
今日は、腹が立たない。
俺は一次回答の方向性を、箇条書きで返した。前提、対応案、リスク、期限。余計な一言をつけない。絵文字もつけない。
送信。
数秒後に既読がついたが、返信はなかった。
仕事に戻る。タスクを進める。淡々と。周囲の会話が耳に入る。
「相良さん、今日なんか……」
「白くない? 顔」
「寝不足?」
小声で、俺を見て、すぐ目を逸らす。噂の芽だ。職場では、違和感はすぐ共有される。理由は単純で、人は“同じ”でいることで安心したいからだ。同じじゃないやつは、怖い。
怖がられること自体は、怖くなかった。
むしろ、面倒だな、と思った。面倒、という感情だけが、まだ動く。怒りではない。不安でもない。ただ、処理コストとしての面倒くささ。
昼が近づく。腹は減らない。喉も乾かない。それでも時間は流れる。体内時計だけが正確に動いているような不気味さがある。
昼休みに入ったフロアで、篠崎が席を立った。ペットボトルの水だけを持って、給湯室の方へ向かう。歩き方が、少しだけ遅い。背中が丸い。
倉田がそれを見て、笑いながら言った。
「篠崎、今日も水だけ? 痩せたいの? 若いのに病むぞ〜」
笑い声が起きる。誰かが合わせて笑う。篠崎も笑う。笑ってしまう。笑わされているのに、笑う。
俺の中で、何かが起きるはずだった。
怒り。嫌悪。共感。哀れみ。いろいろ。どれも、起きない。
ただ、観察が起きた。
倉田は、篠崎を“弄って”場を作っている。篠崎は、弄られることで場を守っている。周囲は、笑うことで自分が次の標的にならないようにしている。
構造だ。
そしてその構造は、人を殺す。
殺す、という言葉が浮かんだとき、自分の中にわずかな違和感が生まれた。俺は今、殺すとか殺さないとか、そういう強い言葉を使う人間ではなかった。少なくとも生前は。
――生前。
頭の中で、その言葉が反射した。
生前。
俺は、生きているのか?
机の引き出しの鍵を開ける。社用スマホの画面を見る。カレンダーの昨日の日付に、小さく「誕生日」と表示されている。通知は既に消えている。誰からも祝われていないわけじゃない。母から短いメッセージが来ていた。妹からスタンプが来ていた。返さなかった。
そのまま、終わらせた。
終わらせたはずだった。
俺は生きている。いや、生きているように動いている。
ふと、指先の感覚に意識を向ける。キーボードの凹凸は分かる。冷たさも分かる。痛みも分かる。だが、生命の熱がない。熱がないのに、動く。
ゾンビ。
その言葉が、妙にしっくりきた。腐っていないだけの、死んだ身体。欲望と感情が抜け落ちた、空の器。
だとしたら。
今の俺には、倉田を怖がる理由がない。
自分を守りたい理由も、薄い。
篠崎を見た。彼は給湯室から戻ってきて、水を一口飲んで、席に座った。背中が小さく揺れた。呼吸が浅い。画面を見つめているのに、焦点が合っていない。
このまま放っておけば、篠崎は折れる。折れたら、倉田は「最近の若いのは」と言って終わる。周囲は笑って終わる。会社は回り続ける。誰も責任を取らない。
そして篠崎が折れるのは、彼の弱さのせいにされる。
俺は、知っている。
その物語を、俺自身が歩いたからだ。
倉田のチャットがまた点滅した。
【倉田】相良、A社の回答、夕方までに草案作っとけよ。
【倉田】あと篠崎のフォローも頼むわ。最近使えねーからw
フォローも頼むわ。
使えねーから。
w。
俺は画面を見て、指を止めた。何も感じないはずなのに、わずかに“面倒”が動いた。倉田の雑さに対する、処理コストとしての苛立ち。
だがそれも、すぐに消えた。
代わりに、手順が浮かんだ。
記録。証拠。経路。誰が、いつ、何を言ったか。成果物の作成者。議事録。版管理。コンプラ窓口。人事。
仕事の手順みたいに、救う手順が見えた。
俺は、篠崎にチャットを送った。
【相良】今日、18:30。会議室B。10分でいい。
【相良】事実だけ教えて。何が起きてる?
送信。
既読がつくまでの数秒が、妙に長かった。
そして既読がついた。
返信は、短かった。
【篠崎】大丈夫です。
【篠崎】すみません。迷惑かけます。
大丈夫、じゃない。
大丈夫じゃないと言えないのが、いちばん大丈夫じゃない。
俺はその文章を読みながら、自分が変わったことを確信した。
昨日までの俺は、ここで「無理しないで」と言って終わっていた。優しいふりをして、結局何もしなかった。巻き込まれるのが怖かったからだ。
今日は怖くない。
怖くないから、巻き込まれる。
俺はキーボードを叩いた。
【相良】迷惑はかからない。
【相良】10分で終わる。来て。
送信。
それだけの文章が、倉田の支配する空気を少しだけ裂く気がした。
俺は画面の端に映る自分の手を見た。血の気のない指が、淡々と動いている。
そして思った。
――殺したい。
人じゃない。
この職場の、こういう仕組みを。




