第19話:決着
会議室Cを出たあと、篠崎は泣いていた。
泣きながらも、歩けていた。
俺は「今日は帰れ」とだけ言って、席に戻った。
戻った途端に社用スマホが震えた。人事の佐伯からだ。
【人事・佐伯】相良さん
【人事・佐伯】至急。17:30 会議室D。
【人事・佐伯】コンプラ(委託先)同席。倉田課長も参加。
【人事・佐伯】篠崎さんは来なくて大丈夫です。
篠崎は来なくていい。
それは守りでもあり、決着の合図でもあった。
その後、A社の山岸に送るメールを整えた。
大げさな資料は要らない。顧客が欲しいのは“安心できる体制”だ。
だから言葉は短く、決めるところだけ決める。
決定事項の置き場は一本。
ToDoは一覧に落として担当と期限。
緊急の連絡経路は一本にして、個人の深夜対応に寄せない。
定例後は差分だけ――増えたToDo、閉じたToDo、保留の期限。
社内で昔からあった、当たり前のやつ。
倉田が“空気”で潰して、属人化させていたやつ。
件名は簡素にした。
「A社様 今後の進め方について」
送信ボタンを押した瞬間、背中に視線が刺さった気がした。
振り向かなくても分かる。倉田だ。
数分後、山岸から返事が来た。
「助かります。これなら社内説明ができます」
「次回定例後の差分共有もお願いします」
「倉田課長にも同報しておいてください」
同報。
顧客側から“見える化”を要求された。倉田はもう、部屋の空気で握れない。
俺は倉田と田辺をCCに入れ、返信した。
17:30。会議室D。
人事側の部屋だ。壁が薄い。外の目がある。
倉田が暴れにくい場所。
佐伯が先に座っていた。隣に八木。コンプラ窓口の委託先担当。
机の上には紙が数枚。印刷されたログ。時系列。決定事項。
“会議体”の匂いがした。
倉田は少し遅れて入ってきた。いつもの余裕の遅刻。
だが今日は、余裕が薄い。目が落ち着かない。笑いが硬い。
佐伯が淡々と始める。
「本日は、コンプライアンスのヒアリング結果と証跡を踏まえ、是正措置を決定します。
目的は、関係者の安全確保と、業務継続です」
倉田が笑った。
「また大げさな。安全確保って。俺、誰も殴ってないし」
八木が言う。
「暴力の有無だけが論点ではありません。
夜間連絡の常態化、既読強要、人格否定と受け取れる表現、公開の場での侮辱。
さらに通報後の“報復を示唆する発言”が確認されています。複合して労務リスクです」
倉田は肩をすくめた。
「指導だろ。現場は甘くないんだよ」
佐伯が言った。
「“現場は甘くない”は免罪符になりません。会社として許容できる範囲を超えています」
倉田の笑顔が少しだけ消えた。
八木は机の上の紙を一枚、指で押した。
「A社への電話について確認します。昨夜、倉田課長は顧客に『相良さんは体調不良』『篠崎さんはメンタルが弱い』という趣旨を伝えていますね」
倉田が即答する。
「事実だろ? 体調悪そうだったし、篠崎は弱い。顧客には正直に言っただけ」
八木が変えずに返す。
「顧客への内部事情の流布です。
相手の不安を煽り、体制を自分に寄せる目的が疑われます。会社として重大です」
倉田が鼻で笑う。
「疑われるって言うなら証拠出せよ」
佐伯が言った。
「田辺さんの通話メモ、A社担当者の証言、直後の顧客クレーム、そして今朝のメール同報要求。十分です」
倉田の目が一瞬だけ泳いだ。
佐伯は続ける。
「次に、篠崎さんへの個別チャット。『どこにチクった』という文言が複数回。報復の疑いが強い」
倉田が言う。
「確認しただけだろ」
八木が淡々と言う。
「“確認”の言葉ではありません。圧力です。通報を妨げる意図が疑われます」
倉田の口角が引きつった。
佐伯が紙を一枚めくった。
「そして、三者面談で決定した“夜間連絡禁止”のルール違反。ログが残っています」
倉田は机に指を打ち付けた。
「ルールルールって、お前ら現場知らないだろ。夜に対応しなきゃいけないことだって――」
八木が遮らず、淡々と返す。
「夜に必要なら当番制にする。個人への圧力で回さない。前回の面談で決めた通りです」
倉田は言い返せず、鼻で笑った。
笑ったが、声は出ない。出せば負けるからだ。
佐伯の声が変わった。決める声。
「会社としての是正措置を決定します」
倉田が背筋を伸ばす。“ここからが本番”だと分かっている。
佐伯は読み上げた。
「1) 倉田課長は、A社案件から即日外れます。
2) 当面、部下への指揮命令を停止します(職務権限の一部停止)。
3) ハラスメントに関する正式調査を開始します。調査期間中、倉田課長は在宅勤務扱いとし、関係者への接触を禁止します。
4) 顧客への説明は営業(田辺)が窓口となり、内部事情の流布を禁止します。
5) 篠崎さんには就業配慮を適用し、指揮系統から倉田課長を外します。
6) 相良さんへの不利益取扱いを禁止します。評価と配置は人事同席で再確認します」
倉田の顔から、血の気が引いた。
「……は?」
佐伯は淡々と繰り返す。
「接触禁止です。今日からです」
倉田が声を荒げた。
「ふざけんなよ! 俺が何したってんだよ!」
八木が即座に言った。
「今の発言も含め、記録します」
“記録”。
倉田の怒りが、そこで一瞬だけ固まる。
記録は、空気を殺す。
倉田は俺を見た。
目の奥が燃えている。
「相良、お前……」
佐伯が言った。
「相良さんに接触することも禁止です。以降、必要事項は人事を通してください」
倉田は口を開けたまま、閉じた。
ここで怒鳴れば、懲戒が濃くなる。
ここで暴れれば、言い訳ができなくなる。
倉田は言葉で抵抗するしかない。
「俺は……現場を守ってただけだ。
こいつらが弱いから……俺が支え――」
八木が言う。
「“弱い”という言葉で相手を縛るのがハラスメントです。支えるのではなく、支配している」
倉田が唇を噛んだ。
佐伯が最後に言った。
「倉田課長。これは“あなたを悪者にする会”ではありません。
ただ、会社が守るべきものは、社員の安全と顧客への責任です。
これ以上の発言は不要です。退室してください」
倉田は椅子を引く音を大きく立てて立ち上がった。
だが会議室Dは薄い。外に耳がある。
倉田は怒鳴れない。いつもの“部屋”ではない。
倉田は最後に、低く言った。
「……終わったな」
終わったのは、俺じゃない。
佐伯が短く返した。
「はい。今日で終わりです」
倉田は言葉を失って、出ていった。
倉田が出たあと、部屋の空気が少しだけ戻った。
戻ったというより、張りつめていたものが、ほどけた。
佐伯と八木が淡々と後処理の言葉を交わす。その声が遠い。
俺は机の上の紙を見ていた。ログ。時系列。決定事項。
ただの事実が、今日は刃になっていた。
不思議と、勝ったという感覚はない。
ただ――納得だけが残った。
倉田課長は、ずっとこういう人だったのか。
いや、違う。
俺の記憶の中に、もう一人の倉田がいる。
入社して最初の現場。右も左も分からなくて、炎上案件の数字だけが赤く点滅していた夜。
帰れなくなって、机に突っ伏していた俺を見つけて、倉田は缶コーヒーを放って寄こした。
「泣く暇あったら、今できることだけやれ。俺が前を受ける」
缶を開けたときの音だけ、妙にはっきり覚えている。
飲み口に当たった金属の冷たさ。
……そして、あの苦さ。
今の俺は、味がしない。
甘いも辛いも、喉を通るだけだ。
なのに、あの夜の缶コーヒーの苦さだけは、舌じゃなく記憶の奥から引っぱり出せる。
“苦かった”と知っている。
苦さが、まだそこにあるみたいに。
そのときの俺は、救われたと思った。
“強い人”がいると、世界は回るんだと信じた。
だから、感謝していた。しばらくの間は。
でも、あれは――誰かが前を受けてくれているように見えるだけで、実際は、後ろにいる人間を“燃料”にして進んでいるだけだった。
倉田課長は“数字だけは”作ってきた。だからここまで来た。
燃えている現場でも、納期だけは間に合わせる。
怒鳴ってでも締め上げて、最後に“結果”を持っていく。
上の人間は数字で判断する。数字が出るなら、正しいと勘違いできる。
ただ、その数字の裏で人が壊れてるなら、会社としてはコストだ。
辞める。倒れる。病む。入れ替わる。
そのたびに引き継ぎが消えて、知識が消えて、顧客の信用も減っていく。
数字だけ残って、土台が腐る。
今回の件は“能力不足”じゃなく、“やり方が会社のリスクになった”から止める。
そういう決着だった。
正義でも復讐でもない。
ただの、損益計算。
――それでいい。
それでいいと、初めて思えた。
机の上の紙は冷たいままだった。
でも、その冷たさが、少しだけ優しく感じた。
味のない世界で、苦さだけが残るみたいに。
佐伯が俺を見て言った。
「相良さん、今日は早退してください。指示です。
内科受診の結果もあるでしょうし……顔色、かなり白い」
俺は頷いた。
「はい」
会社を出ると、夕方の空気が冷たかった。
息は白くならない。
それでも、空はちゃんと冷たい。
スマホが震えた。篠崎からだった。
【篠崎】先輩
【篠崎】人事から連絡来ました
【篠崎】配置転換、決まりました
【篠崎】……ありがとうございます
俺は短く返した。
【相良】よかった
そして、しばらく画面を見つめた。
勝ったとか、嬉しいとか、そういう感情はない。
でも、胸の奥の“重さ”が一つ消えたのは分かった。
理不尽が、理不尽として扱われること。
「現場は甘くない、だから仕方がない」で流されないこと。
今日は、流されなかった。
スマホがもう一度震えた。妹からだった。
『久しぶり。元気? たまには帰ってきなよ』
短い文。絵文字ひとつ。
俺は画面を見つめた。
帰る。
帰れるうちに、帰る。
指が勝手に動いた。
『近いうちに帰る』
送信。
その瞬間、胸の奥が静かになった。
静かすぎて、もう、心臓がないことを思い出す。
でも、もういい。




