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I kill  作者: じゃがいも畑
16/20

第16話:報告書

その日の昼、佐伯から返信は来なかった。


来ないのは、忙しいからだけじゃない。人事は動く前に“確認”をする。誰に根回しするか、誰の責任にするか、どの言葉を使うか。動く前に時間を使う。時間を使うことで、責任の角度を減らす。


だが、俺には時間が減っている。


廊下でふっと重力が抜けた感覚が、まだ指先に残っている。足元が薄い。輪郭が軽い。これは恐怖じゃない。事実だ。


だから、待たない。


俺は午後一で、社内のコンプライアンス窓口のページを開いた。外部委託の通報窓口。匿名でも可能。だが匿名は信用を落とす。俺は信用を失ってもいいが、篠崎の出口には信用が必要だ。


名前を出す。部署を出す。時系列を出す。


“報告書”を、正式に流す。


HRフォルダに作っていたPDFに、最後のページを追加した。


目的:業務継続/健康確保/労務リスク低減


要請:夜間連絡禁止の徹底/指示経路の固定化/篠崎への就業配慮/倉田の言動の是正(必要なら職務分掌変更)


添付:チャットログ/時系列/顧客要望(議事録共有)/三者面談決定事項


そして、タイトルに倉田の名前を入れた。


「業務継続と健康確保に関するリスク報告(倉田課長関連)」


ファイルを閉じる指先が、少しだけ震えた。怖いからじゃない。輪郭が薄いからだ。身体が軽いと、細かい動きが安定しない。


送信ボタンを押す前に、もう一つだけやるべきことがあった。


篠崎の同意。


本人の同意なしに“本人に関するログ”を出すのは、彼を守るつもりで傷つける危険がある。出口を作るはずが、本人を“会社の管理下”に固定してしまう。


俺は篠崎にチャットを送った。


【相良】コンプラ窓口に正式報告する。

【相良】篠崎のログ(夜間連絡・人格否定)も添付する。

【相良】同意できる? できないなら、篠崎部分は匿名化する。


既読がつくまで、少し時間がかかった。


その数分が、妙に長かった。


廊下の足音。電話の声。コピー機の音。いつも通りの会社の音の中で、俺だけが違う速度で進んでいる気がした。


やがて、返信が来た。


【篠崎】……同意します

【篠崎】怖いけど、もう、同じのは嫌です

【篠崎】先輩、お願いします


“お願いします”。


その言葉は、重い。依存じゃない。委託だ。信頼だ。


俺は短く返した。


【相良】任せて


そして、送信した。


コンプラ窓口のフォームに、淡々と入力する。

感情ではなく、事実。


いつ


誰が


どこで


何を


どの頻度で


どんな影響が出たか


会社としての決定事項が守られているか


再発リスク


最後に、“急ぎ”の理由を書いた。


「篠崎の体調悪化が進行していること、および倉田課長が『出口(異動/転職)を潰す』旨を発言し、圧力が強まる懸念があるため」


送信完了。


画面に「受付しました」という表示が出た。受付番号が発行される。


それだけのはずなのに、俺の中で何かが“決まった”音がした。


これで、倉田は自由に動けなくなる。


会社はもう、倉田を“現場のノリ”では守れない。


だが同時に――俺も、もう戻れない。


夕方、倉田が席に来た。


いつもの近づき方じゃない。今日は速い。乱暴に近づく。怒りが抑えられていない足音。空気を踏みつけるような歩き方。


「相良」


声は低い。周囲に聞こえないギリギリの音量で、それでも圧がある。


「お前、何した」


来た。どこかから漏れたのだろう。コンプラ窓口は本来秘匿だが、倉田は社内政治で嗅ぎつける。あるいは人事から匂いが漏れた。


俺は答えた。


「正式に報告しました」


倉田の目が大きくなった。怒りと焦りが混ざった顔。


「……誰に」


「会社に」


倉田は笑った。笑い声が乾いている。


「会社ねぇ。お前、ほんと終わってるわ」


終わってる。

倉田は“終わり”を何度も言う。だが今回は、倉田自身の終わりが近い。


倉田は机に手をつき、顔を近づけて言った。


「お前さ、これ、分かってんの? 会社に楯突いたってことだぞ。

お前、もう居場所ねぇからな」


居場所。

生前の俺なら、その言葉で死ねた。


今は、居場所に興味がない。だが篠崎の居場所は守りたい。


俺は言った。


「篠崎の居場所を守るためです」


倉田が歯を食いしばった。言い返せない。正論だからじゃない。

“守る”という言葉が、倉田の世界の外だからだ。


倉田は声を絞って言った。


「……お前が守るのは、自分だろ。正義マンやって気持ちよくなってんだろ」


気持ちいい。

俺にはそれがない。気持ちいいという欲がない。


「気持ちよくないです。手順です」


倉田の目が、細くなる。


「手順手順って、お前ほんと……何なんだよ」


倉田は吐き捨てるように言って、去っていった。


去り際に、誰かと目が合った。安藤だ。彼は黙っていたが、顔が少し青い。

巻き込まれる恐怖と、巻き込まれたくない罪悪感。その両方が見えた。


俺は安藤にだけ、短く言った。


「大丈夫です。燃えません」


安藤は小さく頷いた。だが、その頷きは“安心”じゃなく、“諦め”に近かった。


その夜、コンプラ窓口から自動返信が届いた。


【コンプラ窓口】受付完了。担当者より3営業日以内に連絡します。


3営業日。

長い。だが、もう出した。会社は動く。


問題は、その3日以内に倉田が何をするかだ。


倉田は、最後に殴るなら“今”だ。


篠崎に圧力をかける。

顧客にストーリーを流す。

俺を“メンタル不安定”として休職に追い込む。

あるいは――篠崎の出口の資料を奪う。


俺は帰宅後、篠崎に一つだけ指示を送った。


【相良】今日から、倉田から直接来た連絡は全てスクショ。

【相良】緊急でも返信はテンプレで。

【相良】家に帰ったら、スマホは機内モードでいい。


既読がついて、すぐ返事が来た。


【篠崎】はい

【篠崎】……先輩、ありがとうございます


そして、その直後。


俺のスマホが震えた。知らない番号。会社の固定番号ではない。


出ると、女性の声だった。


「相良さんでしょうか。コンプライアンス窓口の委託先、八木と申します。報告を拝見しました。緊急性が高いと判断し、先にお電話しました」


3営業日ではなかった。


緊急性が高い。


俺は静かに答えた。


「はい。対応ありがとうございます」


八木は続ける。


「明日、ヒアリングの時間をいただけますか。可能なら、篠崎さんとも。……また、倉田課長の行動がエスカレートする可能性があります。安全面の確保を優先してください」


安全面。

俺は笑いそうになった。安全面を最優先できるなら、こんな話にはならない。


だが、今は違う。


制度が動いた。


俺は言った。


「明日、可能です。篠崎にも共有します」


電話を切った後、鏡を見た。


白い。


白いまま、俺は立っている。


そして今日、初めて思った。


――ここまで来たら、たぶん俺は最後まで役目を果たせる。


役目を果たしたら、俺は消える。


それでいい。

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