第13話:出口
翌日、篠崎は産業医面談の案内を受けた。
案内が来た、というチャットは短かった。だが、その短さに彼の緊張が詰まっていた。
【篠崎】人事から、産業医面談の案内来ました
【篠崎】来週の火曜です
【篠崎】……怖いです
怖い。正常だ。怖いという感情があるのは、生きている証拠だ。
俺は返信した。
【相良】怖くていい。
【相良】面談は“裁判”じゃない。事実だけ言えばいい。
【相良】今日は18:30、会議室B。出口の話をする。
出口。
その言葉を送った瞬間、俺の中に薄い膜が沈んだ。出口という言葉は、どこか“終わり”を連れてくる。終わりが近いことを、俺はどこかで知っている。
18時半。会議室B。
壁が薄い部屋だ。だが今日は、あえて薄い部屋にした。出口の話は重くなりやすい。重くなると人は逃げる。逃げないように、あえて“軽い場所”で言う。
篠崎は時間ぴったりに来た。いつもより姿勢が固い。椅子に座っても落ち着かない。目が泳ぐ。いつもの彼だ。
「先輩……出口って、なんですか」
俺は答えた。
「会社の外に、逃げ道を作る」
篠崎の顔が固まった。
逃げる。負け。恥。嫌われる。そういう連想が彼の中を駆け巡るのが見えた。
「……でも、俺……」
「今すぐ辞めろと言ってない。出口がある状態にする。出口があると、今の場所で息ができる」
篠崎は唇を噛んだ。理解したいが、怖い。
俺は机の上に紙を置いた。
“出口メニュー”と書いた一枚。
社内異動(倉田の指揮系統から外れる)
休職(医師の所見を使う)
転職(同職種/別職種どちらも)
外部相談(労基・弁護士・労組)
最悪の最悪:退職代行(連絡遮断)
篠崎は紙を見て、少しだけ息を呑んだ。
「……ここまで……考えてたんですか」
「手順だから」
篠崎が目を上げる。
「手順……」
俺は続けた。
「倉田は変わらない。制度は動いた。でも現場は抜け道を探す。抜け道を潰すには時間がいる。篠崎の体調は時間がない」
篠崎の目が揺れた。
「先輩、俺、そんな……弱いですか」
弱い。彼はそこに引っかかる。弱いから逃げる、という構図にされるのが怖い。
俺は首を振った。
「弱いじゃない。普通だ」
普通。普通なら、壊れる。普通なら、怖い。普通なら、逃げたい。
「普通の人間が耐えられるように作られてない構造なんだ。だから壊れる。壊れない方がおかしい」
篠崎の肩が少しだけ落ちた。責められていない、という安堵の形だ。
俺は言った。
「今週、やることは三つ」
篠崎は反射で頷いた。三つ。数字は彼を安心させる。
「一つ。面談で話す“事実メモ”を作る。起きたこと、頻度、影響。感情は添えなくていい」
「……はい」
「二つ。社内異動の可能性を探る。人事に“倉田の指揮系統から外れたい”と相談する。言い方は、健康配慮とキャリアの両方」
篠崎が眉を寄せる。
「そんなこと言ったら……倉田課長に……」
「倉田には言わない。人事の担当にだけ。記録が残る形で。必要なら俺も同席する」
篠崎は小さく頷いた。
「三つ。転職用に、職務経歴を棚卸しする。今日じゃなくていい。週末に一時間だけ」
篠崎の目が少し大きくなる。
「……転職……現実味が……」
現実味。それが怖い。現実味が出ると、いまの場所が崩れる気がする。
俺は淡々と言った。
「現実にする。現実にしないと、出口は“気休め”のままになる」
篠崎は紙を握りしめた。手に力が入っている。怖いのに、握っている。捨てない。これは前進だ。
沈黙が流れた。
会議室Bの壁の薄さのせいで、廊下の足音が聞こえた。誰かが笑っている声も聞こえる。外はいつも通りだ。中だけが、静かに変わっている。
篠崎がぽつりと言った。
「先輩、なんで……俺にここまで……」
まただ。理由を求める。感情がない俺にとって、理由は言葉にしづらい。
俺は答えを選んだ。
「自分の失敗を、繰り返したくないから」
篠崎は黙った。失敗という言葉が刺さったのかもしれない。だが刺さったからこそ、彼は聞いた。
「……先輩、何があったんですか」
ここで言うべきか迷う。全部は言えない。言うと、彼が背負う。背負わせたくない。
俺は半分だけ言った。
「俺は昔、誰にも言えなくて、逃げ道を作れなくて……最後に自分を終わらせた」
篠崎の顔が固まった。
言葉の意味を理解するのに、時間がかかった顔。
「……終わらせたって……」
俺は頷いた。
「だから、篠崎には出口を作る」
篠崎の目が揺れて、視線が落ちた。呼吸が浅くなる。だが彼は逃げなかった。席を立たなかった。ここで席を立たないのは、彼にとってかなりの勇気だ。
「先輩……今、ここにいるじゃないですか」
その問いは、俺の最も触れられたくないところに触れた。
“いる”。確かにいる。だが、“生きている”とは限らない。
俺は答えを曖昧にした。
「……いるうちに、やる」
篠崎は何か言いかけて、やめた。言葉にすると壊れる気がしたのだろう。
俺は話を戻した。
「出口の話は、篠崎の選択だ。決めるのは篠崎。俺は手順を出すだけ」
篠崎は小さく頷いた。
「……俺、まずは……面談のメモ作ります」
「それでいい」
会議室を出るとき、篠崎は少しだけ背筋が伸びていた。目も前を向いていた。たったそれだけの変化が、俺には確かな成果に見えた。
自席に戻る途中、倉田がフロアの端で誰かと話しているのが見えた。田辺だ。倉田の笑顔。田辺の苦笑い。いつもの構図。
倉田がこちらに気づいて、笑った。
「相良〜。最近さ、篠崎と仲良いけど、面倒見過ぎんなよ? 依存させたらあいつ潰れるぞ?」
依存。潰れる。責任転嫁の種を撒いている。
俺は言った。
「依存させません。出口を作らせます」
倉田の笑顔が止まった。
「……出口?」
「会社の外も含めてです」
倉田の目が細くなった。
「お前、ほんと余計なことしかしねぇな」
余計なこと。倉田の世界では、出口は余計だ。人を逃がすのは悪だ。逃がしたら支配が減る。
俺は頷いた。
「余計でいいです」
倉田は舌打ちをして、田辺の方へ戻った。田辺は気まずそうに俺に会釈した。
夜、帰宅して鏡を見た。
白い。
今日も白い。だが今日は、白さに“疲れ”が混じっている気がした。疲れという感覚は薄いのに、肌の色にそれが出る。不思議だ。
机に座って、胸に手を当てる。
鼓動はない。
それでも、どこかで小さく“終わり”が近づく音がした。
俺はその音を聞きながら、HRフォルダに新しいファイルを作った。
「ExitPlan_Shinozaki」
名前をつける。それだけで、出口は現実になる。
そして俺は思った。
この出口が完成したら、次にやることは一つだ。
倉田の“評価”で俺が消されても、篠崎が逃げられる状態を作る。
それができたら――
俺はもう、ここにいる必要がない。




