第11話:産業医
14時ちょうど。社用スマホのカレンダーが震えた。
産業医面談は、オンラインだった。会議室ではなく、個室ブース。ガラスの箱みたいな狭いスペースに座ると、外の音が少しだけ遠くなる。外が遠いぶん、自分の内側が近くなる――そういう設計だ。
画面の向こうに、産業医の森下が現れた。40代くらい。白衣ではない。淡いシャツ。柔らかい声。こちらを“患者”として扱う前に、“働く人”として扱おうとするタイプの顔だった。
「相良さん、こんにちは。今日はお時間ありがとうございます。人事から“体調面の懸念”ということで伺っていますが、まずは相良さんの言葉で、今の状況を教えてください」
俺は頷いた。
「状況は二つです。業務の運用改善と、チーム内の摩擦です」
森下が目を細めた。「体調」の話を期待していたのだろう。だが産業医は、話の入口を奪わない。本人が何を問題としているかを聞く。
「運用改善というのは?」
「議事録と履歴の整備です。決定事項を口頭だけにしない。成果物の作成者を曖昧にしない。顧客対応の齟齬を減らす」
「なるほど。摩擦は?」
「上司がそれを嫌がっています。記録が残ると困る行動があるので」
森下は一拍置いた。言い方は冷静だが、内容は強い。普通なら、ここで感情が混ざる。だが俺の声は平坦だった。
森下は反応を抑えて言った。
「相良さん、体調面について確認したいです。睡眠は取れていますか」
「取れています」
「食欲は?」
「あります」
「気分の落ち込み、不安、焦燥感、動悸、息苦しさ……」
「ありません」
森下は少しだけ眉を上げた。
「今のお話だと、職場の摩擦や負担はあるのに、症状がない。珍しい組み合わせですね」
珍しい。つまり、違和感。
俺は頷いた。
「自分でもそう思います」
森下は画面越しに、俺の表情を観察しているのが分かった。目の動き、口角、反応の遅さ。言葉の選び方。産業医は人間の“ズレ”に敏感だ。
「相良さん、ご自身で“いつ頃から変化があった”と感じますか」
いつ頃から。俺は一瞬だけ迷った。答えは決まっているが、言えない。
俺は嘘をつく必要がある。
「ここ数週間です」
森下は頷いた。
「周りから“顔色が白い”と言われているそうですね」
言われている。噂が人事に届いている。
「言われています」
「実際、画面越しでも少し白く見えます。貧血や内科的な要因の可能性もあります。最近、健康診断や採血は?」
「まだです」
「一度、内科で検査を受けることをおすすめします。あと、精神面の話として――」
森下は少し言葉を選んだ。
「相良さん、感情が“平坦”という自覚はありますか?」
平坦。核心だ。俺は平坦だ。だが、それを“症状”として扱われると面倒になる。休職の正当化にされる。
俺は答えを半分だけ出した。
「平坦に感じます。以前より、他人の言葉が刺さらない」
「刺さらないのは楽ですか」
楽。楽だ。死んでからの方が、生きやすい。その事実が、この物語の骨だ。
「楽です」
森下はゆっくり頷いた。
「一方で、“刺さらない”は大事なセンサーが働いていない可能性もあります。無理をしている自覚がなく、ある日突然、糸が切れるように倒れる方もいます」
糸が切れる。俺が感じている“薄くなる”感覚に近い。
俺は言った。
「倒れる感覚はありません」
「倒れる前の方ほど、そう言います」
森下の言葉は、優しいが鋭い。
森下は続けた。
「今の職場状況は、相良さん一人が背負うべきものではありません。適切な調整が必要です。人事と連携して、就業配慮――例えば、担当の一時変更、面談、業務量の調整、夜間連絡の制限など」
夜間連絡。森下はそこを踏んだ。つまり、人事から篠崎の件も聞いている。
森下は言葉を続ける。
「もう一つ。相良さんが“後輩を守るために自分を犠牲にしている”ように見えます。自覚はありますか」
犠牲。犠牲という言葉は、俺にはしっくり来ない。自分を守りたい欲が薄いだけだ。犠牲ではない。
だが外から見ると犠牲に見える。
「自覚は薄いです」
森下は目を細めた。
「薄い、というのが重要です。自覚がないまま負担が積み上がっている。相良さん、もし可能なら“守る役”を他の仕組みに渡すことを考えてください。人事や相談窓口、チーム、制度。あなた一人が盾になる必要はありません」
盾。俺は盾になっている。盾になることで、篠崎が少し息をできるようになった。
俺は言った。
「制度に渡す準備はしています。記録を整理して、経路を作りました」
森下は頷いた。
「良いと思います。それを“あなたが倒れる前に”やり切ることが大切です」
やり切る。倒れる前に。
俺の中で、冷たい現実がさらに形を持った。
森下は最後に言った。
「結論として、現時点で“直ちに休職”が必要とまでは言いません。ただし、内科受診を推奨。加えて、職場調整は必須です。人事に、就業配慮を強く勧めます」
「分かりました」
面談は終わった。
画面が切れると、ブースの外の音が戻ってきた。キーボード、足音、電話。いつものオフィスの音。だが今は、その音に別の意味が混じっている気がした。
“判定”。
俺はすでに、何かの対象になっている。倉田にとっての対象。人事にとっての対象。制度にとっての対象。
ブースを出ると、社用スマホが震えた。
【人事・佐伯】相良さん
【人事・佐伯】産業医の所見を踏まえ、倉田課長と三者で体制調整の面談を設定します。
【人事・佐伯】本日17:30、可能でしょうか。
三者面談。
倉田の前で、制度が動く。これはチャンスでもあり、罠でもある。倉田はここで“相良は危ない”を押し切ろうとする。俺はここで“篠崎を守る線”を太くしなければならない。
俺は返信した。
【相良】可能です。
【相良】資料を持参します。
17時半。小会議室ではなく、人事の会議室になるだろう。倉田の“叱る部屋”ではない。倉田が空気で殴りにくい場所だ。
ただし。
倉田は空気で殴れないなら、言葉でねじ曲げる。責任を押し付ける。評価で殺す。配置で殺す。そういう手がある。
俺は席に戻り、HRフォルダを開いた。
産業医面談の要点を、箇条書きでまとめる。
直ちに休職は不要
内科受診推奨
職場調整は必須
就業配慮(業務量・夜間連絡・担当調整)を推奨
“守る役”を制度に渡すこと
そして、その下に太字で書いた。
「目的:篠崎の安全確保と業務継続」
俺の目的は、ずっと一つだ。自分がどう見られるかではない。倉田に勝つことでもない。
篠崎が壊れずに、生きて職場を出られること。
そのためなら、俺が“排除”されても構わない。
……はずだった。
だが、最近の自分の白さを思うと、排除された後に何が起きるかが読めなかった。俺が止まったら、篠崎はどうなる。仕組みはどうなる。まだ終わっていないのに、俺が止まるのはまずい。
だから、急ぐ。
17時半の面談で、線を太くする。
俺が止まっても、制度が動くように。
そうすれば、俺は役目を終えられる。




