第10話:排除
翌朝、出社すると空気がひとつ増えていた。
いつもの「忙しい」とか「納期が」とか、そういう空気じゃない。もっと静かで、もっと粘つくやつ。誰かの名前が、どこかで決まっている空気だ。決まっているのに、誰も言わない。言うと自分が巻き込まれるから。
俺の席の近くで、安藤が立ち止まった。声をかけようとして、やめて、結局かけた。
「相良さん……ちょっと、いいですか」
「どうしました」
安藤は周囲を見て、さらに声を落とした。
「倉田さん、今朝……“体制変える”って言ってました。相良さんを別案件に回すって」
別案件。排除。予告が、現実になった。
俺は頷いた。
「想定通りです」
安藤は眉を寄せた。
「……なんで、そんな平気なんですか」
平気、というより、感情が薄い。薄いから判断が先に来る。だが説明しても伝わらない。
俺は答えなかった。
「安藤さん、今日の朝会、議事録は取ります」
安藤は一瞬、笑いそうになって、やめた。笑うと怖いからだ。
「……お願いします」
安藤はそう言って、自分の席へ戻った。
朝会が始まる直前、倉田がフロアの中央に立った。いつもなら大声で始めるのに、今日は妙に落ち着いた声だった。落ち着いているのは、勝ち筋が見えているときだ。
「よし。体制の話する」
いきなり本題。
倉田は俺を見ない。見ないことで、俺を“いないもの”にしようとしている。
「A社は今、火種が増えてる。こういうときは“安定してる人”を前に出すのが大事だ。だから体制を見直す」
安定してる人。言葉の中に棘がある。安定してない人がいる、と言いたいのだ。
倉田は続けた。
「相良は、別案件に移す。今、社内で困ってる案件があるから、そこに入れ。A社は俺が見る」
周囲が息を止めた気配がした。誰もが「言った」と思った。倉田が公の場で言った。つまり決定だ。決定のふりをした既成事実だ。
俺は議事録に打った。
体制見直し:相良を別案件へ移管(提案:倉田)
A社主担当:倉田
目的:安定稼働(倉田発言)
倉田はさらに言った。
「で、篠崎。お前は俺の下に戻す。相良のところに置いとくと、変なやり方覚えるからな」
笑いが起きるのを待つ。だが誰も笑わない。前ほど、笑えなくなっている。議事録があるからだ。笑ったら“共犯のログ”になる気がする。
篠崎は輪の外側で立っていた。顔色が悪い。だが前より目は合う。彼は今、逃げ道を持っている。その分だけ、耐えられている。
倉田が篠崎に視線を刺す。
「返事は?」
篠崎は小さく息を吸って、言った。
「……承知しました」
その言葉は、降伏に聞こえた。だが俺は、篠崎の指先が震えていないのを見た。以前なら震えていた。今は震えていない。彼は壊れかけのままでも、何かを持っている。
逃げ道。事実。記録。順番。
朝会が終わると、倉田はすぐに俺を呼んだ。
「相良、ちょっと」
例の小会議室。叱る部屋。
中に入ると、倉田はドアを閉めずに少し開けたままにした。外に人が通れば聞こえる。つまり「お前に変なこと言われたら困る」という防衛だ。倉田は怖がっている。
倉田は椅子に座らず、腕を組んで言った。
「お前、最近やりすぎだ。顧客に議事録だの担当者だの、余計な線引きしてさ」
余計な線引き。つまり、横取りができなくなった。
俺は言った。
「顧客が求めています。混乱が減ります」
「混乱が減る? 混乱が増えてんだよ。お前のせいでな」
倉田は平然と因果を逆にする。構造を守るためなら、何でも言う。
「だから、お前は外す。これは“命令”だ」
命令。最後に残るカードだ。権力で押す。
俺は頷いた。
「分かりました。引き継ぎは、記録で行います」
倉田が顔をしかめた。
「記録記録ってうるせぇな。普通に口頭でやれ。余計なもん残すな」
残すな。つまり残ると困ることがある。
俺は言った。
「口頭は齟齬が出ます。後で責任問題になります。引き継ぎは議事録とタスク表でやります」
倉田が一瞬、言葉を失った。怒鳴りそうになって、やめる。怒鳴ると記録されるからだ。
「……お前、ほんと、扱いづらい」
「そうですか」
「そうだよ。で、今日中に引き継ぎ資料作れ。篠崎のタスクも全部俺に戻せ」
「篠崎のタスクは、篠崎本人の状況を見て調整が必要です」
倉田の目が険しくなる。
「お前、まだ篠崎守んの?」
「守るというより、壊さないための調整です」
倉田は笑った。
「壊さない? 壊れるやつは勝手に壊れるんだよ。社会舐めんな」
社会。舐める。いつもの言葉。
俺は言った。
「社会が人を壊すなら、その社会の方が間違ってます」
倉田の顔が止まった。
一瞬だけ、倉田の目の奥に“別の感情”が見えた。怒りだけじゃない。焦りでもない。――怯えだ。
倉田は、俺が普通のやり取りをしていないことを理解している。俺は恐れていない。だから言葉が効かない。だから、次は別の手段に出る。
倉田は小さく言った。
「お前さ。産業医面談、受けたんだろ」
「受けます」
「その結果次第で、お前、休職とかもあるからな」
休職。つまり“排除の合法化”。
俺は頷いた。
「それでも構いません」
倉田が舌打ちした。
「……いいよ。勝手にしろ。でもA社には関わるな。顧客にも余計なこと言うな」
倉田は、俺を顧客から切り離したい。顧客の前では事実が通る。倉田の空気が効きにくい。だから切り離す。
俺は立ち上がった。
「引き継ぎ資料、作ります」
会議室を出ると、廊下で田辺が待っていた。顔が妙に引きつっている。
「相良さん……倉田さん、今朝の体制変更、本気です」
「知ってます」
田辺は声を落とした。
「……顧客が、相良さんの議事録を気に入ってるんですよ。だから倉田さん、焦ってる。で、焦ってると、変なことする」
変なこと。例えば、俺を“病人”にする。俺を“勝手な人”にする。俺を“顧客対応を乱す人”にする。
田辺は続けた。
「あと、さっき倉田さんが言ってました。『相良が勝手に仕切ってる』って顧客に軽く触れるって」
やはり。
俺は田辺を見た。
「田辺さん。顧客の前で内部の揉め事を出すのは、顧客の不安になります」
「ですよね……。だから止めたいんですけど……」
営業の限界。止められない。倉田は役職が上で、田辺は逆らえない。
俺は言った。
「じゃあ、こちらから先に“事実”を出します」
田辺が目を見開いた。
「え……今から?」
「今日、顧客に送るのは引き継ぎ方針です。『記録と手順で安定化する』『担当者名を明確にする』。それだけで、倉田さんが“勝手に”と言いにくくなります」
田辺は迷った顔をした。だが、顧客の安心が最優先の人間は、最後そこに寄る。
「……分かりました。宛先に僕も入れてください」
「入れます」
田辺は小さく息を吐いた。
「相良さん、ほんと怖いっすね……」
怖い。今日何度目だ。俺は怖いらしい。反応しないことは、他人からすると怖い。
俺は言った。
「怖くていいです。燃えるよりマシです」
午後、俺は引き継ぎ資料を作った。
タスク一覧。進捗。未決事項。判断待ち。顧客要望。リスク。決定事項。保留事項。対応履歴。担当者。
“誰が作ったか”が分かるように、履歴のリンクも貼った。篠崎の成果物にも、篠崎の名前が残るようにした。隠す理由がない。隠すと、また横取りが成立する。
途中、篠崎が席に来た。声は小さいが、以前より揺れていない。
「先輩……俺、戻されるんですよね」
「戻される」
篠崎は唇を噛んだ。
「……俺、怖いです。でも……」
「でも?」
篠崎は小さく言った。
「逃げ道、持ってます。先輩がくれたやつ」
俺は頷いた。
「それでいい」
篠崎はしばらく黙ってから、言った。
「先輩は……大丈夫ですか」
大丈夫か。俺に向けられるその言葉は、少しだけ意味が違う。篠崎は本気で心配している。
俺は答えに迷った。
大丈夫、という感覚がない。苦しくない。怖くない。眠くない。腹も減らない。疲れてもいない。だが――最近、鏡の中の白さが増えている気がする。息が白くならない。心臓の音がしない。
それでも動いている。動いていること自体が、不気味だった。
俺は言った。
「大丈夫。たぶん」
篠崎の眉が少しだけ寄った。「たぶん」が不安に聞こえたのだろう。
篠崎は小さく言った。
「先輩、無理しないでください」
無理。無理という概念が薄い。
俺は頷いた。
「篠崎も」
篠崎が席に戻るとき、背中が少しだけまっすぐだった。それだけで、俺は“変化”を確認できた。
夕方、顧客に引き継ぎ方針のメールを送った。田辺もCCに入れた。倉田も入れた。
件名:A社 体制運用の安定化に向けた方針共有
本文:記録と手順の整備/担当者の明確化/次回アクションの確認
送信して数分後、倉田からチャットが来た。
【倉田】お前、どこまでやんの?
【倉田】もう俺が主担当だぞ
【倉田】余計なことして顧客混乱させんな
俺は短く返した。
【相良】顧客の安心のためです。
【相良】引き継ぎ完了後は、こちらから出しません。
既読。返信はない。
代わりに、別の通知が来た。
【人事・佐伯】相良さん
【人事・佐伯】産業医面談、明日14:00で確定しました。
【人事・佐伯】必要であれば、就業配慮の相談も可能です。
就業配慮。つまり、休職や異動の手続きに繋がる。
俺は「承知しました」とだけ返した。
夜、帰宅して鏡を見た。
白い。
昨日より、確実に白い。顔色というより、色が抜けている。目の奥が暗い。まばたきが少ない。生きている目じゃない気がした。
息を吐く。白くならない。
胸に手を当てる。やはり、鼓動は分からない。
それでも俺は立っている。
立っていて、動けて、考えられて、言葉が出る。
ただ、ふとした瞬間に、身体の輪郭が薄くなる感じがした。重さが減る。存在が軽くなる。消えやすくなる。
俺は、静かに理解した。
倉田は、俺を排除する。
排除されたら、篠崎はまた殴られる。
だから、排除される前に終わらせないといけない。
仕組みを。
そして、篠崎を。
俺は机に向かい、HRフォルダを開いた。
明日の産業医面談に向けて、時系列の整理を追加する。
“相良の体調”というストーリーを、事実で殺すために。




