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I kill  作者: じゃがいも畑
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第1話:誕生日の翌日

目覚ましが鳴った。


それはいつも通りの電子音で、いつも通りの時間だった。身体が先に起き上がる。布団の重さ、床の冷たさ、洗面所の蛍光灯の白さ。全部、昨日までと変わらない。


なのに――胸の奥が、空っぽだった。


歯ブラシを口に入れて、泡立つ音を聞きながら、ふと気づく。眠い、がない。腹が減った、もない。今日だるいな、すらない。以前なら、起きた瞬間から胃のあたりに居座っていた、薄い不安も見当たらない。


「……変だな」


声は出た。感情は出なかった。


鏡を見る。顔が少し白い。疲れている、というより、血の気が引いたような白さ。目の下の影が濃いのに、くすみとは違う。目の奥が、光を反射していない気がした。


息を吐く。白くならない。


冬の朝だ。吐く息が白くなるはずなのに、鏡は無言のまま俺の顔だけを返す。体調が悪いのかと思う。だが、悪いという感覚もない。頭は冴えている。視界はクリアだ。身体の芯が冷える感じも、ない。


ネクタイを結ぶ。結び目がきちんと整う。ワイシャツの襟を指でならす。靴下を履く。カバンを持つ。玄関で鍵を確かめる。


昨日までの俺なら、ここで一度、立ち止まっていた。会社に行きたくない理由を、脳内でいくつも並べて、でも結局「行かなきゃ」と自分を叱って、重い足で外に出る。


今日は違った。


行きたくない、がない。行きたい、もない。ただ、行く。歯車の回転みたいに、行動だけが流れていく。


玄関を出ると、空気が冷たい。頬に当たる風の感触はあるのに、寒さが刺さらない。指先もかじかまない。ジャケットの前を閉じる手が、妙に軽い。


駅までの道に、コンビニがある。毎朝の習慣で、足がそちらに向かう。いつもはコーヒーを買っていた。苦いものを飲むと、「頑張ってる」気がしたからだ。


自動ドアが開く。店内の暖かさと、揚げ物の匂いと、弁当棚の光。目が勝手に商品を追いかけるのに、欲しいものがない。


菓子パン。おにぎり。サンドイッチ。どれも「食べたい」にはならない。胃袋がそこにないみたいだった。喉が渇く感じも薄い。たぶん、水だけでもいい。でも水も「飲みたい」ではない。


結局、何も買わずに出た。


昔なら、そんな自分に罪悪感があった。空腹を我慢するのが偉い、とか、無駄遣いしないのが正しい、とか、逆に食べなきゃ倒れる、とか。どれかの声が俺を押した。


今日は、押す声がない。


駅のホームは混んでいる。人の肩がぶつかり、スマホの画面が光り、咳払いが響く。誰かが舌打ちし、誰かが小さく笑う。よくある朝の風景だ。


以前の俺は、そこでじわじわ削られていた。隣の人の機嫌、後ろの人の圧、前の人の遅さ。全部が針みたいに刺さって、刺された分だけ「ちゃんとしなきゃ」が積み上がっていった。


今日は、音だ。


咳払いは咳払いで、舌打ちは舌打ちで、俺の中を通り抜ける。刺さらない。誰かの視線がこちらをかすめても、体温が上がらない。心拍が早くならない。


心拍?


ふと、自分の胸に意識を向ける。いつもなら、緊張すると心臓が分かりやすく鳴っていた。どくん、どくん、と。あれがない。


手を胸に当てる。ワイシャツ越しに、動きが感じられない。耳を澄ませる。身体の内側の音が、ない。


それでも俺は立っている。倒れもしないし、息苦しくもない。電車が来る。ドアが開く。人の流れに混じる。


車内アナウンスがいつもよりクリアに聞こえた。単語が一つも引っかからない。脳が余計な感情に邪魔されていない感じがする。


――なんだ、これ。


怖いはずだった。普通じゃない。明らかにおかしい。なのに、怖さが生まれない。怖がる回路が断線したみたいに、どこにも電流が流れない。


会社の最寄り駅に着く。改札を出て、ビル街を歩く。ガラスの高層ビルに自分が映る。スーツ姿の群れ。全員同じ方向に歩き、同じ時間に同じ場所へ吸い込まれていく。


俺もその一人だった。


ただ、今日は違う。吸い込まれているのに、吸い込まれている感覚がない。抵抗も、同意も、ない。空気の摩擦がないぶん、世界がやけに静かだった。


出社カードをかざし、ゲートが開く。エレベーターに乗る。閉じ込められる狭さが嫌だったはずなのに、嫌じゃない。誰かが無言で押した「開」ボタンに、ありがたいとも思わない。


フロアに着く。オフィスの匂い。コーヒー、プリンター、消毒液、湿ったカーペット。キーボードの音、チャット通知音、誰かの笑い声、ため息。


「おはようございます」


言う。返される。いつも通りの挨拶。いつも通りの空気。


SIerのオフィスは、いつもどこかで戦争をしている。納期、障害、顧客の気分、上司の機嫌、誰が何をやったか。表向きは「チーム」でも、実際は小さな評価の取り合いだ。誰が目立ったか、誰が怒られたか、誰が守られたか。


その中心にいるのが、倉田課長だった。


声がでかい。笑い声もでかい。褒めるときは大げさで、叱るときは人格まで踏み込む。本人は「指導」と言う。周囲は「扱いが難しい」と言う。結局、みんな倉田課長の顔色を見ている。


俺も見ていた。昨日までは。


デスクに座る。PCを起動する。パスワードを打つ。ログイン音が鳴る。チャットが流れ込む。未読が積もっている。顧客からの問い合わせ、開発チームからの依頼、営業からの催促。


以前なら、ここで胃が縮んだ。未読が増えるほど「自分が遅れている」感覚が膨らんだ。返信が遅いと嫌われる。判断を誤ると怒られる。優先順位を間違えると詰められる。


今日は、整理できる。


未読を一つずつ開いて、やるべきことを分類する。返信のテンプレを選び、必要な情報だけを返す。余計な言い訳を入れない。媚びも、保険も、つけない。


驚くほど速く進む。


思考が静かなぶん、作業がクリアだった。誰かに良く見られたい気持ちがないと、文章は短くなる。誤解されないための余計な一言を付けなくて済む。怖がらないだけで、効率が上がる。


それが自分でも可笑しかった。


朝会の時間が近づく。倉田課長がフロアを見回しながら歩いてくる気配がする。いつもなら、身体が先に硬くなる。「何か言われるかもしれない」が先に来る。


今日は硬くならない。


倉田課長がこちらに来る。肩を叩かれる。


「お、今日早いじゃん。珍しいな。昨日遊んでたのか?」


冗談の形をした探り。返し方を間違えると、面白くない空気になって面倒になる。昨日までの俺なら、笑って誤魔化した。


「いつも通りです」


口が勝手にそう言った。声色も、いつも通りだったと思う。だが、倉田課長の眉が一瞬だけ動いた。違和感に気づいた顔だ。


「……お前、顔色白くね?」


「そうですか」


「体調悪いなら言えよ。倒れられると困るからな」


困るから。心配じゃなく、困るから。そういう言葉に、昨日までの俺は小さく傷ついていた。「俺は部品か」と思って、でも言えなくて、飲み込んで、笑っていた。


今日は傷つかない。


倉田課長は俺の反応を測るみたいに数秒見てから、興味を失ったように視線を外し、別の席へ歩いていった。


背中が遠ざかるのを見ながら、俺は妙なことを思った。


倉田課長は変わっていない。職場も変わっていない。なのに、世界の圧だけが消えている。


消えたのは、世界じゃない。俺のほうだ。


その瞬間、記憶が、遅れてやってきた。


昨夜の帰り道。コンビニの光。部屋の暗さ。誕生日の通知。誰にも返信しなかったメッセージ。自分の中で積み上がっていた「もう無理だ」という結論。そこから先のことを、俺ははっきり覚えているわけじゃない。


ただ――「終わらせた」という事実だけが、やけに冷たく残っていた。


そして今、俺は終わっていない。


目覚ましが鳴って、歯を磨いて、ネクタイを結んで、会社に来ている。死んだはずの俺が、今日も朝会の資料を開いている。


怖いはずなのに、怖くない。


むしろ、息がしやすい。


モニターに映る自分の名前を見て、俺は初めて、昨日が誕生日だったことを思い出した。


――そうだ。


昨日、俺は死んだ。

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