第9話 緊張
会ってはいけない場所で、会ってしまった。
夕方のカフェは、まだ静かだった。
客は一人もいない。カウンターの上に並ぶカップと、豆の匂いだけが空間を満たしている。
「……ありがとうございました」
いつも通りの声。
いつも通りの笑顔。
俺モードの俺。
ドアベルが鳴った、その瞬間までは。
カラン、と乾いた音がして、反射的に顔を上げた。
入口に立っていたのは――
橘美咲だった。
学校で見る制服のまま。
迷いのない足取りで、店内を見回し、そして俺を見つける。
一瞬、時間が止まった。
彼女の視線が、まっすぐに俺を射抜く。
驚き。
戸惑い。
そして、確かめるような沈黙。
「……こんにちは」
その一言だけで、喉が詰まった。
「い、いらっしゃいませ」
声は、震えなかった。
震えなかったことが、逆に怖い。
橘さんは何も言わず、カウンターの席に座った。
視線は、ずっと俺に向いたまま。
逃げ場はない。
でも、彼女も何も言わない。
「ご注文は……」
「コーヒーで」
短いやり取り。
けれど、その間ずっと、彼女は俺の顔を見ていた。
眼鏡はない。
前髪は上げている。
声も、姿勢も、学校とは違う。
それでも――
何かを確かめるような目だった。
コーヒーを出すと、橘さんは小さく礼を言った。
「……ありがとう」
それだけ言って、彼女は店を出ていった。
ドアが閉まる音が、やけに大きく響く。
「……まずいな」
小さく呟いて、俺はカウンターに手をついた。
確信はしていない。
でも、違和感は残した。
それが、昨日の出来事だ。
そして今日。
昼休みの教室は、ひどく息苦しかった。
俺は机に突っ伏したまま、教室の空気を探っていた。
賑やかな声。
笑い声。
誰も俺なんて見ていない――はずなのに。
前の方、窓際のあたりから、橘さんの視線を感じる気がして。
顔を上げられない。
昨日、バイト先に来た橘さん。
俺モードの俺を、彼女は見た。
でも――大丈夫だ。
眼鏡をかけて、前髪を下ろした今の俺と、
昨日の俺は、別人に見える。
そう、信じている。
信じなければ、やっていけない。
「白石くん」
その声に、全身が硬直した。
顔を上げると、クラスメイトの女子が立っていた。
橘さんじゃない。
それだけで、息が戻る。
「これ、数学委員の書類。先生から預かってきた」
「あ、ありがとう」
書類を受け取る。
その瞬間――
視線の先に、橘さんがいた。
窓際の席。
こちらを、じっと見ている。
目が合う。
心臓が跳ねる。
けれど、橘さんはすぐに視線を逸らし、友達と話し始めた。
気のせいだ。
そう思い込もうとする。
でも、胸の奥のざわつきは消えなかった。
【橘美咲視点】
私は、確認している。
白石くんが書類を受け取った、その仕草。
背筋。
手の動き。
丁寧さ。
昨日、カフェで見た白石くんと、重なる。
声は聞こえない。
距離がある。
それでも
立ち姿が、似ている。
似ているだけじゃない。
背の高さも。
肩幅も。
手の大きさも。
全部、同じに見える。
友達の話に相槌を打ちながら、頭の中では昨日の光景が離れなかった。
眼鏡のない白石くん。
落ち着いた声。
人を制する空気。
偶然?
そんなわけ、ない。
でも、まだ確信はできない。
証拠が、足りない。
私はスマホを取り出した。
画面には、駅前で出会った白石くんとのやり取り。
『また会えるかな』
既読は、ついていない。
もし、学校の白石くんと、駅前の白石くんが同じ人なら――
どうして、隠しているんだろう。
どうして、逃げるんだろう。
その理由を、知りたい。
【白石悠真視点】
放課後。
俺は足早に教室を出た。
バイトはない。
それでも、ここにいたら橘さんと鉢合わせる気がした。
廊下を歩きながら、昨日のことを思い出す。
カフェでの、あの視線。
確かめるような沈黙。
もしかして、もう――
いや、考えるな。
俺は校門へ向かった。
逃げ切れる。
まだ。
そう思い込もうとした、その時。
「白石くん」
足が、止まる。
振り返ると、橘さんが立っていた。
距離は、十メートルほど。
けれど、その視線は、一直線に俺を捉えている。
「……橘さん」
声が、わずかに揺れた。
橘さんが一歩、近づく。
まずい。
本当に、まずい。
「ちょっと、いい?」
その言葉に、俺は――
「ごめん、用事があって」
逃げた。
彼女の表情を見ないまま、背を向けて歩き出す。
心臓が、うるさい。
後ろで、何か言いかけた気配がした。
でも、振り返らなかった。
振り返ったら――
もう、終わりだと思った。
【橘美咲視点】
白石くんが、逃げた。
その背中を見送りながら、私は確信に近づいていた。
また、逃げた。
駅前でも。
カフェでも。
そして、学校でも。
これは、偶然じゃない。
私はスマホを取り出す。
駅前の白石くんに、メッセージを送った。
『明日、昼に会えない?』
送信。
既読は、すぐにつかなかった。
でも、待つことにした。
次は、人が多い場所で。
昼間の、明るい場所で。
そうすれば――
もう、逃げられない。
【白石悠真視点】
家に帰って、スマホを確認する。
美咲からのメッセージ。
『明日、昼に会えない?』
その文字を見て、俺は動けなくなった。
昼。
バイトは夕方からだ。
会える。
でも――
会ったら、何を話せばいい。
橘さんと、美咲は、同じ人なのに。
俺は、どちらの顔で会えばいい。
スマホを握りしめたまま、部屋の中で立ち尽くす。
もう、時間がない。
その予感だけが、胸の奥で確かに膨らんでいた。
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