第8話 重なる影、近づく足音
「白石くん、ちょっといいかな」
背後からかけられたその声に、心臓が跳ね上がった。
聞き間違えるはずがない。鈴を転がしたような、澄んだ声。
振り返る前から、体の奥が警告を鳴らしている。
椅子の脚が床を擦る音が、放課後の教室にやけに大きく響いた。
「あ、う、うん。橘さん、どうしたの?」
できるだけ「地味な白石悠真」を意識して振り返る。
猫背。視線は少し下。指先で、分厚い眼鏡のブリッジを押し上げる。
目の前に立つ橘美咲は、夕日に照らされていた。
同じ高校の制服のはずなのに、どこか品が違う。
校内でお嬢様と呼ばれる理由が、一瞬でわかる佇まい。
「これ、今日のプリント。白石くん、係なのに忘れてたでしょ?」
「……あ、ああ。ごめん。助かるよ」
受け取る指先が、わずかに震えた。
それを悟られないように、慌てて鞄にしまう。
いつもなら、ここで終わる。
礼を言って、距離を取って、関わらない。それが正解だった。
でも、今日は違った。
橘さんは一歩、距離を詰めてくる。
「ねえ、白石くん」
「……なに?」
「背、高いんだね。こうして近くに立つと、ちょっとびっくりする」
視界の下に、彼女の頭がある。
バイト先で、俺として向き合った時と、同じ距離感。
同じ空気の密度。
「そ、そうかな。普通だと思うけど……」
「そうかなあ」
橘さんは首を傾げ、続けた。
「声もね。落ち着いてて……最近、どこかで聞いた気がする」
視線が、眼鏡の奥を探るように動く。
前髪で隠した目元に、違和感を探すように。
俺は反射的に一歩下がった。
背中が黒板に当たる。逃げ場がない。
「気のせいだよ。僕、ずっとここにいるし。学校と家の往復だけだから」
嘘だった。
口にした瞬間、喉の奥がひりつく。
「……そっか。ごめんね。変なこと言って」
橘さんは、少しだけ寂しそうに、でも何かを確かめたような表情で微笑んだ。
そのまま踵を返し、教室を出ていく。
上履きの音が廊下に消えるまで、俺は動けなかった。
そして、音が消えた瞬間、椅子に崩れ落ちる。
——まずい。
カバンの中で、スマホが震えた。
『明日の放課後、駅前のカフェに行ってもいい?』
差出人は、橘美咲。
指定されたわけじゃない。
でも、わかってしまう。
彼女は確かめに来る。
逃げ続ければ、いつか壊れる。
それを、本能が理解していた。
一方、教室を出た橘美咲は、階段の踊り場で足を止めていた。
手すりを強く握りしめ、自分の鼓動を感じる。
声の高さ。
伏せたまつ毛。
近づいた時に、かすかに漂った焙煎された豆の香り。
スマホを取り出し、昨日撮った一枚の写真を見る。
駅前で歩く彼の後ろ姿。
「……やっぱり、似てる」
呟きは、確信に近かった。
観察じゃない。
もう、決めている。
翌日。
俺はバイトのシフトに入っていた。
眼鏡を外し、前髪を上げる。
いつもの切り替え。
けれど今日は、鏡の中の自分が、やけに頼りなく見えた。
『いらっしゃいませ』
いつもの声。
いつもの笑顔。
——カラン。
ドアベルが鳴る。
入ってきたのは、同じ高校の制服に身を包んだ少女。
その佇まいだけで、誰かわかる。
橘美咲は、迷いなくカウンターへ歩いてきた。
他に客はいない。
逃げ場はない。
彼女は俺を見つめ、静かに言った。
「……こんにちは。白石くん」
呼ばれたのは、学校の名前。
その瞬間、世界の音が消えた。
俺はトレイを強く握りしめる。
否定するか。
受け入れるか。
もう、先延ばしにはできなかった。
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