第7話 俺モードの居場所
重たい眼鏡を外し、指先で前髪を掻き上げる。
鏡の中に映る自分は、学校という名の窮屈な檻から抜け出したばかりの、少しだけ呼吸の楽な男だった。
「……今日も、俺で行くか」
洗面所の鏡に向かって小さく呟く。
ワックスで髪を整え、視線を上げる。この短い儀式が、僕――白石悠真を、誰にも縛られない「俺」に切り替える合図だった。
バイト先のカフェ『アンダンテ』の扉を開けると、焙煎された豆の香りと、静かなジャズが迎えてくれる。
ここにいる間だけ、俺は無理をしなくていい。
「あ、悠真先輩。お疲れさまです。今日も安定のイケメンですね」
カウンターの向こうで、藤崎麻衣が手を振る。
高校一年生。明るくて、少し騒がしくて――俺の学校での姿を何ひとつ知らない存在。
「お前な。褒めても時給は上がらないぞ」
「えー、じゃあ気持ちだけでも上げときます」
軽口を叩き合いながら、準備に入る。
麻衣は笑っているけれど、ふとした瞬間、その瞳が一人分の距離を保っていることに気づく。
「学校、楽しいですか?」
不意に投げられた問いに、手が一瞬止まった。
「まあ……それなりだな」
「みんな必死ですよね。どこに属するか、誰といるか。居場所を失ったら終わり、みたいな顔して」
麻衣は布巾を動かしながら、ぽつりと続ける。
「ここにいる方が、ずっと楽です。誰の役でもなくていられるから」
その言葉が、胸の奥に引っかかった。
「……そうだな」
少しの沈黙のあと、麻衣がこちらを見る。
「悠真先輩って、好きな人いるんですか?」
その言葉を聞いて脳裏に浮かんだのは、駅前でまっすぐこちらを見つめてきた少女だった。
橘美咲。
名前を思い出しただけで、胸のどこかが熱くなる。
「いないよ」
反射的にそう答える。
嘘だと自覚した瞬間、胸の奥が小さくズキズキした。
「ふーん……」
麻衣はそれ以上追及せず、けれど少しだけ安心したように笑った。
「それならよかったです。悠真先輩まで、誰かのものになったら……ここ、つまらなくなっちゃうし」
彼女にとっても、この店は逃げ場所なのだと知る。
カウンターの隅で、黙々とドリップしていたマスターが、静かに口を開いた。
「悠真くん」
「はい」
「居場所というのはね、自分一人で囲って守るものじゃない」
低く、穏やかな声。
「誰かに見つけられて、受け入れられて……そうして初めて、本当の居場所になる。隠し事で塗り固めた場所は、砂の城みたいなものだ」
それ以上は語らず、マスターはまたカップに視線を落とした。
言葉だけが、胸の中に残る。
閉店後、俺は再び切り替えをする。
ワックスを落とし、前髪を下ろし、眼鏡をかける。
世界が、少しだけ遠くなる。
「悠真先輩」
帰り際、麻衣が呼び止めた。
「昨日、駅前で見かけたんです。なんか、お嬢様っぽい雰囲気の子で、うちの高校の制服着てて。誰か探してるみたいでした」
心臓が、嫌な音を立てた。
「……そうか」
「その子、ずっとスマホ見ながら人の顔を確認してて。なんか、『駅前の彼』って言葉が聞こえてきて」
息を、止める。
「ネットでも、最近その言葉、たまに見ますよ」
「……気のせいだろ」
自分でも分かるほど、声が硬かった。
店を出ると、夜の冷気が頬を刺す。
今の俺には、この場所が必要だった。
ここしかないと、思いたかった。
けれど。
マスターの言葉と、麻衣の一言が、胸の奥で重なる。
砂の城。
駅前の彼。
境界線は、もう削られ始めている。
この居場所も、この俺も――
静かに、崩れる音がしていた。
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