第5話 ホームルーム
教室の中心で、私は笑っていた。
いつもの笑顔で、いつもの声で、いつもの橘さんを演じている。
けれど心のどこかで——私は、今日会う約束をした白石くんのことを考えていた。
「おはよう、橘さん」
「昨日のドラマ見た?」
「ねえねえ、このカフェ知ってる?」
次々に投げかけられる声に、私は自然に相槌を打つ。笑って、頷いて、話題を回す。
これが、橘美咲の役割だ。
でも、本当の私は——
今朝、まだ返事の来ていないメッセージのことを、ずっと気にしていた。
白石くん、今日も会えるかな。
ちゃんと、話せるかな。
教室のドアが開く音がした。
誰かが入ってくる。でも私は気にも留めず、会話を続ける。
ただ、一瞬だけ。
視線の端に、静かな背中が映った。
――――
教室に入った瞬間、俺は息を呑んだ。
窓際の席で、橘さんが友達に囲まれて笑っている。
その光景は眩しくて、俺のような人間が関わっていい世界じゃないと、改めて思い知らされる。
視線を逸らし、自分の席へ向かう。後ろから二番目、廊下側。
完璧な「目立たない位置」だ。
鞄を置き、眼鏡の位置を直す。前髪がきちんと目にかかっているか確認する。
これでいい。誰も俺を見ない。俺も、誰も見ない。
……はずなのに。
胸の奥が、妙にざわついていた。
駅前で出会った彼女と、この教室にいる橘さんは別人だ。
そう思い込もうとする。でも、どこかで引っかかっている。
もし、気づかれたら。
その先のことを考える前に、俺は机に突っ伏した。
――――
「今日は委員決めね。まずは文化祭実行委員から」
担任の声が教室に響く。
私は迷わず手を挙げた。
「はい、橘やります」
拍手が起こる。誰も反対しない。これも、いつものこと。
私は小さく頭を下げて、席に戻った。
「じゃあ次、数学委員」
一瞬の沈黙。
その中で——教室の後ろ、廊下側の席から、小さく手が上がった。
眼鏡をかけた男子が、静かに立候補している。
「……白石です」
低くて、落ち着いた声。
白石……?
その名前に、心臓が跳ねた。
――――
視線が、一斉に俺へ向く。
まずい。目立ってしまった。
けれど、数学委員なら仕事も少ない。誰とも深く関わらずに済む。
そう自分に言い聞かせる。
「ありがとう、白石くん」
担任の声と同時に、視線は逸れていった。
ほっと息をついた、その瞬間——視線を感じた。
顔を上げると、窓際の席にいる橘さんが、こちらを見ていた。
一瞬、目が合う。
心臓が跳ねる。
でも橘さんは、すぐに視線を逸らした。
気のせいだ。そう思い込もうとした。
――――
白石……くん。
心の中で、その名前を繰り返す。
まさか、そんなはずない。
駅前で出会った白石くんと、今の白石くん。
雰囲気はまるで違う。
でも——
声だけは、少し似ていた。
私はスマホを取り出す。
画面には、白石くんとのメッセージ。
『今日も会える?』
既読は、ついていない。
忙しいのかな。
それとも——。
振り返りそうになって、やめた。
違う。きっと違う。
そう思い込もうとする。
でも、心のどこかがざわついていた。
――――
授業が始まり、俺はノートを開く。
けれど視線の端に、橘さんの背中が映る。
窓際の席で、真面目にペンを走らせている横顔。
一瞬だけ、駅前で見た彼女と重なった。
俺は首を振る。
違う。別人だ。
そう言い聞かせた、その時——
ポケットの中で、スマホが震えた。
『ごめん、今日は会えないかも。用事ができちゃって』
画面を見つめて、俺はしばらく動けなかった。
ほっとしたのか。
それとも、少しだけ残念だったのか。
答えは、まだ分からなかった。
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