第29話 触れなかった距離
体育大会から、三日が経った。
膝の痛みは、ほとんど消えている。
でも、階段を降りるとき——少しだけ違和感が残る。
昇降口に着いて、上履きに履き替える。
廊下は、いつも通りの騒がしさ。
教室に向かって歩く。
そしたら。
「あっ!?」
角を曲がったところで、橘さんと鉢合わせた。
一瞬、二人とも止まる。
「……おはよう」
「おはよう、ございます」
挨拶を交わす。
目が合う。
——保健室。
あの日。
あの距離。
思い出してしまう。
橘さんも、少しだけ視線を逸らした。
「じゃ、また」
「うん」
すれ違う。
肩が触れそうなくらい、近い。
でも、触れない。
廊下を歩きながら、僕は思った。
——変わった。
何が変わったのか、上手く言えない。
でも、確実に——何かが違う。
教室に入ると、既に何人かが席についていた。
僕も自分の席に座る。
鞄を置いて、筆箱を出す。
「白石くん」
声がした。
顔を上げると、橘さんが立っていた。
手に、プリントを持っている。
「これ、昨日休んでた人の分も配ってるんだけど……白石くんの分も、あるか確認したくて」
「ああ、ありがとう」
プリントを受け取る。
指が、一瞬だけ触れそうになる。
僕は——少しだけ手を引いた。
橘さんも、気づいたような顔をする。
「……ごめん」
「ううん、大丈夫」
橘さんは微笑んで、次の席に向かう。
僕は、プリントを見つめる。
——何で避けたんだろう。
触れたって、別に何も変わらないのに。
でも、怖かった。
触れたら——何かが決定的になる気がした。
「……はぁ」
小さく息を吐く。
視線を感じて、横を見ると——。
桜井さんが、こっちをじっと見ていた。
「……どうしたの?」
「別にー?」
絶対、何か気づいてる顔。
やめてくれ。
「ねえ、菜月。見た?」
真琴が焼きそばパンを半分に割りながら、声を潜めた。
屋上のフェンス越し。
眼下のグラウンドでは、美咲が別のグループと談笑しているのが見える。
「……何が」
菜月はパックのイチゴオレを吸いながら、視線だけを動かした。
「美咲だよ。さっきから喋ってる相手の目、全然見てないもん。視線がずっと白石くんの方に流れてる」
「……確かに。白石くんが動くたびに、髪触ってる」
「でしょ!? あー、わかりやすすぎて可愛いわぁ」
真琴はニヤニヤを抑えられないといった様子でパンを口に放り込んだ。
「昨日からだよね。なんか、二人でいる時の空気がさ……『友達です』って顔しようとして、大失敗してる感じ」
「……隠しきれてない」
菜月がボソッと呟く。
「白石くんもさ、美咲と目が合うたびに、動揺しているし。もう、あれ絶対に意識しすぎでしょ」
「……でも、美咲、幸せそう」
その言葉に、真琴は少しだけ表情を緩めた。
「まあね。あんなに浮ついてる美咲、初めて見たかも。……でも、まだ本人たちの中では『ただのクラスメイト』って言い聞かせてるんだろうね」
「……無理がある」
「だよねー」
二人は顔を見合わせ、同時に小さく吹き出した。
「ま、私らが茶化して台無しにするのも悪いし。……今は、生温かくニヤニヤしながら見守ってあげますか」
「……賛成。おかわり、買ってくる」
菜月が立ち上がり、真琴もそれに続く。 冷たくなり始めた風も、今の彼女たちには、どこか心地よい刺激でしかなかった。
放課後。
掃除が終わっても、教室にはまだ、体育大会の余韻のような騒がしさが残っていた。
僕はカバンを肩にかけ、教室を出る。 廊下の角を曲がろうとした、その時だった。
「……白石くん」
背後から、控えめだけど、はっきりと僕を呼ぶ声。
振り向くと、そこには少しだけ緊張した面持ちの橘さんが立っていた。
「あ、橘さん」
「……もし、急いでないなら。一緒に、帰らない?」
「……うん、いいよ」
二人で昇降口へ向かう。 肩が触れそうなほど近いのに、会話が続かない。 でも、それは「気まずい」からじゃない。 午前中の、あの保健室の熱が、まだお互いの中に残っているせいだ。
昇降口で靴を履き替える。 隣でローファーを履いていた橘さんが、ふと動きを止めて僕を見上げた。
「膝……本当はまだ、痛むんじゃない?」
「……え」
「歩き方、少しだけ庇ってるでしょ」
見抜かれていた。 隠せていたつもりだったのに、彼女は僕の歩き方ひとつ、見逃してくれていなかった。
「……あはは。バレたか。でも、もう大丈夫だよ」
「……嘘つき」
橘さんが、小さく、僕にしか聞こえない声で呟く。
そして、彼女は僕の顔をじっと見つめ、一歩踏み込んできた。
「……あんまり無理されると、私、またあんな顔しちゃうよ?」
「あんな顔」
――保健室で見せた、泣きそうな笑顔。 それを思い出して、心臓が跳ね上がる。
「……ごめん。もう無理しない」
「約束だよ?」
校門へ向かって歩き出す。 夕日が、僕たちの影を長く引き伸ばしていた。 グラウンドから聞こえる部活の掛け声が、妙に遠く感じる。
「……ねえ、白石くん」
「ん?」
橘さんが、歩くペースを落とした。 僕も、それに合わせる。
「……さっき、保健室でのこと。……私、変なこと言っちゃったかなって、ずっと気にしてて」
あの日。 『今は……戻らない』と言った、彼女の震える指。
「……変じゃなかったよ。……すごく、嬉しかった」
本音を口にすると、橘さんはパッと顔を赤くして、俯いた。 でも、そのまま僕の制服の袖を、指先でちょんと掴む。
「……じゃあ、もうちょっとだけ、一緒にいて」
袖を掴んだまま、彼女は僕の隣を離れようとしない。 繋いではいない。でも、このわずかな接触が、どんな言葉よりも「特別」を物語っていた。
校門の前。二人は立ち止まる。 橘さんは名残惜しそうに指を離すと、僕の目をまっすぐ見つめた。
「……じゃあ、また明日ね。白石くん」
「うん、また明日」
橘さんが小さく手を振り、歩き出す。 その背中を見送りながら、僕は自分の右手をそっと握りしめた。
保健室で、彼女の肩に触れそうになったあの手。 止めてしまった距離。 でも、今の「袖を掴まれた感触」が、その距離を少しずつ塗り替えていく。
次に触れるときは、きっと、何かの言い訳はいらない。
そう確信しながら、僕は赤く染まった帰り道を歩き出した。
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