第27話 視線の温度
朝の空気が、妙に軽い。
グラウンドにはすでに白線が引かれ、テントの骨組みが斜めの影を落としている。
まだ涼しいはずなのに、立っているだけで背中にじんわり汗が滲んだ。
「白石く〜ん、荷物こっち置いてー!」
桜井さんの声が、拡声器越しみたいに響く。
僕はクラスの段ボールを抱え、指定された日陰へ運んだ。
体操服。
ゼッケン。
髪を結ぶゴムの音。
日焼け止めと土の匂い。
――体育大会、か。
「白石、お前リレー出るんだよな」
後ろから男子に声をかけられ、曖昧に頷く。
「まあ、一応」
「マジ? 意外と速いんだっけ」
「……普通だよ」
そう答えながら、僕の視線は無意識に流れていた。
橘さんは――。
「美咲、髪まとめた方がいいって」
「うん、わかってる」
声のした方を見る。
グラウンドの反対側。
女子が固まっているあたりで、橘さんがポニーテールを結び直していた。
うなじが、一瞬だけ見える。
――いや、何見てんだ、僕は。
慌てて視線を戻すと、桜井さんが腕を組んでニヤニヤしていた。
「……何」
「べ・つ・にー?」
絶対、何か思ってる顔だ。
頼むから今はやめてくれ。
「はい、じゃあ集合ー!」
担任の声に、生徒たちが一斉に動く。
別のクラスからも笛の音と歓声が被って、グラウンドが一気に騒がしくなった。
僕はなるべく目立たないよう、後ろの方に立つ。
そしたら――
「あ、ごめん」
隣に、橘さんが来た。
距離が、近い。
肩が触れそうなくらい。
「……悪い、詰める」
「ううん、大丈夫」
橘さんは少し笑って、そのまま立った。
担任が何か説明している。
でも、全然頭に入ってこない。
隣から、ほんのり甘い匂いがした。
シャンプーの香り。
いつもより少し違う気がする。
体育大会用に変えたのかもしれない。
――集中しろ。
「最初の種目は大縄跳びだから、今のうちに練習しとけよー!」
「はーい!」
クラスがばらけ始める。
僕も動こうとして――
「あ」
橘さんの靴紐が、ほどけていた。
しゃがんで結ぼうとした、その瞬間。
人の流れに押されて、バランスを崩す。
「危ない」
考えるより先に、手が出ていた。
橘さんの腕を、軽く掴んで支える。
「……ありがとう」
距離が、一気に近づく。
目が合う。
一瞬、周りの音が消えた。
そして――
「……おー」
どこかで、小さな声。
ハッとして、手を離す。
「ご、ごめん」
「う、うん」
橘さんも慌てて立ち上がる。
視線を感じて周りを見ると、何人かがこちらを見ていた。
桜井さんと中村さんもいたけど、二人は何も言わず、さっと目を逸らした。
――まずい。
これ、あとで絶対、何か言われるやつだ。
「白石って、優しいんだな」
後ろから男子の声。
「別に、普通だろ」
「いや、でもさ」
言い返そうとして、やめた。
もう無理だ。
クラスの空気が、ほんの一段、変わった気がした。
「準備体操ー!」
体育教師の号令で、全校生徒が整列する。
ラジオ体操第一。
僕は後ろから二列目。
そして――また、橘さんが近くにいた。
真横じゃない。斜め前。
でも、視界に入る。
腕の伸ばし方。
姿勢。
動きが、やけに綺麗だ。
――また見てる。
ダメだ、前を見ろ。
「次、屈伸ー!」
膝を曲げる。
同じタイミングで、橘さんも屈伸する。
ポニーテールが、ふわっと揺れた。
その瞬間。
橘さんが、こっちを見た。
目が合う。
小さく、微笑む。
すぐに前を向く。
でも、その笑顔が、頭から離れなかった。
「……白石」
隣の男子が、肘で小突いてくる。
「橘さんのこと、見てただろ」
「見てない」
「いや、見てた」
「……」
「やめとけって。住む世界が違うんだよ、俺らとは」
何も言えなかった。
完全に、見てたから。
男子は満足そうにニヤニヤして、前を向いた。
開会式が終わり、最初の競技までの少しの空き時間。
僕はクラスのテントで、麦茶を飲んでいた。
冷たいはずなのに、喉を通るとすぐ温くなる。
「白石君」
隣に、桜井さんが座る。
「……何」
「別に。ただ、今日は楽しんだ方がいいと思って」
「楽しむって」
「体育大会だよ?」
真琴はそう言って、グラウンドを見た。
そこでは、橘さんと中村さんが笑いながら話している。
「……楽しそうですね」
「でしょ」
桜井さんが、ちらっと僕を見る。
「白石君もさ、今日はもうちょっと顔上げなよ」
「え?」
「目立たないように気配消しすぎ」
くすっと笑って、立ち上がる。
「じゃ、私は菜月のとこ行くから」
一人になる。
空のコップを片付けようとした、その時。
「白石くん」
声がした。
振り向くと、橘さんが立っていた。
「次、大縄跳びだから……一緒に、行かない?」
「……うん」
即答していた。
二人で、グラウンドへ向かう。
並んで歩く。
視線を、感じる。
でも――不思議と、嫌じゃなかった。
「……ねえ、白石くん」
「ん?」
「今日、楽しもうね」
そう言って、橘さんが笑う。
僕も、少しだけ笑った。
「……そうだね」
その時、グラウンドの隅で誰かが呟いた。
「……あれ、あの二人って、なんで一緒に歩いてるの?」
その声は、僕たちには届かない。
でも確実に――
体育大会の朝は、もうただの行事じゃなくなっていた。
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