第23話 雨の下、同じ傘
朝は、晴れていた。
だから——
傘を、置いてきた。
それを今、私は心の底から後悔している。
放課後の教室。
窓の外は、すっかり灰色だった。
アスファルトを叩く雨音。
水たまりに跳ねる、細かい雫。
六月の雨は、容赦がない。
「……最悪」
小さく呟いて、鞄を持つ。
昇降口へ向かうと、傘を広げる生徒たちが次々と外へ出ていく。
私は軒下で、立ち尽くした。
雨音が、近い。
「橘さん」
呼ばれて、振り返る。
そこにいたのは、白石くんだった。
眼鏡をかけて、前髪を下ろした——学校の白石くん。
「傘、ないの?」
「うん……朝、晴れてたから」
言い訳みたいになって、少し恥ずかしい。
白石くんは、一瞬だけ考える顔をしてから言った。
「図書館、行かない?」
「え?」
「雨、弱くなるまで」
その言葉に、私は——
迷う前に、頷いていた。
図書館は、静かだった。
窓の外では、雨が降り続いている。
でもここは、時間がゆっくり流れているみたいだった。
白石くんと、窓際の席。
少し離れているのに、いつもより近い。
ページをめくる音。
時計の秒針。
遠くで、誰かの咳払い。
私はノートに視線を落としながら、
隣が気になって仕方なかった。
ふと、視線を感じて顔を上げる。
白石くんと、目が合った。
「……なに?どうかした?」
「いや、なんでもない」
視線を逸らす、その仕草。
少しだけ、慌てているように見えた。
胸が、きゅっと鳴る。
「……雨、弱くなったかも」
窓の外を見ながら言うと、
「そうだね」
白石くんも立ち上がった。
昇降口で、白石くんが傘を開く。
黒くて、大きい傘。
「入って」
一瞬、ためらった。
でも——
他に、選択肢はない。
「……ごめんね」
「いいよ」
その声が、優しい。
傘の中に入った瞬間、距離が一気に縮まる。
触れてはいない。
でも、白石くんの腕がすぐそこにある。
歩き出すと、傘の内側に雨音が響く。
湿った空気。
近すぎる呼吸。
白石くんが、無言で傘を私の方へ寄せた。
気づいたのは、少し歩いてから。
「……白石くん、濡れてる」
肩が、濡れている。
私の方へ、傘を寄せているから。
「大丈夫」
「でも——」
「橘さんが濡れる方が、嫌だから」
その一言で、言葉が消えた。
胸が、熱い。
歩幅が、合わなくなる。
気づけば、私の歩く速さに合わせてくれている。
肩と肩が、時々ぶつかる。
そのたびに、心臓がうるさい。
……なのに。
不思議と、嫌じゃなかった。
コンビニの前。
真琴と菜月は、袋を提げて立ち止まった。
「……え?」
真琴が、無意識に足を止める。
一つの傘の下。
近い距離。
「……あれって美咲だよね?」
「多分そう」
菜月が、目を細める。
「……隣の男子って数学委員の白石くん、だよね」
二人は、黙って見ていた。
美咲の顔。
恥ずかしそうで——
でも、隠しきれてない笑顔。
白石くんの肩が、濡れている。
「……ちょ、ちょっと待って」
真琴が、菜月の腕を掴む。
「……待って」
真琴が、足を止める。
「美咲ってさ」
「うん」
「男の人に、あんな顔する?」
菜月は、すぐには答えなかった。
もう一度、雨の向こうを見る。
「……しない」
小さく、でもはっきり。
「線、引くもんね」
「引く」
「近づかせないし、距離もちゃんと取る」
真琴の声が、少しだけ掠れる。
「なのにさ……」
不明なピースが組み合わさっていく感覚。
「……これは」
真琴が、低く言う。
「あとで、絶対聞くやつ」
菜月が、先に頷いた。
それを見て、
真琴も、ゆっくり息を吐いてから頷く。
駅の改札前。
「ありがとう、白石くん」
「いや」
少しだけ笑う、その顔。
「また明日」
「うん、また明日」
改札の向こうへ消える背中を、私は見送った。
肩が、まだ温かい。
傘の影。
歩幅。
雨の音。
スマホが震えた。
『見ちゃった』
真琴から。
……最悪。
『何を?』
すぐ返事が来る。
『相合傘』
顔が、熱い。
でも——
胸まで、温かい。
電車が動き出す。
窓に、雨粒が流れていく。
さっきまで隣にあった傘の影を、
まだ肩が覚えていた。
……こんなの。
忘れられるわけ、ない。
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