第20話 二人の視線
教室の掲示板の前に、人だかりができていた。
紙が何枚も重なって貼られている。
端が少しめくれて、セロテープが白く光っている。
順位表。
中間テストの結果。
「……まじか」
「うわ、下がった」
「セーフ……」
誰かのため息。
誰かの小さな笑い声。
シャーペンが、カツンと床に落ちる音。
僕は、人混みの少し後ろから、背伸びをして順位表を見た。
自分の名前を探す。
……あった。
思っていたより、ずっと上。
胸の奥で、ふっと力が抜ける。
よかった。
ちゃんと、やった分は返ってきた。
でも、周りが見ているから。
ガッツポーズはしない。
ただ、何事もなかったみたいに視線を外した。
そのとき。
掲示板の前に、橘さんが立っているのが見えた。
制服のスカートの裾が、少しだけ揺れている。
人混みの中でも、すぐ分かる。
橘さんも、自分の名前を探している。
指で、なぞるように。
一行ずつ、丁寧に。
見つけた瞬間、ほんの少しだけ眉が動いた。
悪くない順位。
むしろ、十分いい。
でも——
橘さんの視線が、少し横にずれた。
僕の名前のところ。
一瞬。
ほんの一瞬。
それから、ふうっと小さく息を吐いた。
悔しそう、ではなかった。
がっかりでもない。
……なんていうか。
「ちゃんとやってたんだ」
そんなふうに見えた。
僕は、何も言わずにその場を離れた。
放課後。
数学準備室は、ひんやりしていた。
今日は、僕の当番だった。
数学の教科委員としての仕事。
机の上には、返却用のプリントの束。
掲示用に分けて、順番を揃える。
紙を揃えるたびに、
シャッ、シャッ、と乾いた音が響く。
窓が少しだけ開いていて、
外から部活の声が流れ込んでくる。
遠くで、笛の音。
バスケ部のボールが床を叩く、ドン、という音。
……一人だ。
そう思った、その時。
「……あ」
入口の方で、小さな声がした。
顔を上げると、
橘さんが立っていた。
プリントを抱えたまま、少し戸惑った顔。
「数学の掲示、ここでいいんだよね?」
そう言って、準備室を覗き込んでくる。
「あ、はい」
僕は慌てて立ち上がった。
「今、ちょうど整理してて……」
橘さんは、机の上のプリントを見て、
一瞬だけ考えるように視線を落とした。
「……じゃあ」
小さく言って、隣に来る。
「手伝うよ。早く終わった方がいいでしょ?」
予定じゃなかった。
頼んだわけでもなかった。
でも——
その「自然さ」が、胸に残った。
隣に座る。
椅子が、キイ、と小さく鳴った。
距離は、近すぎない。
でも、遠くもない。
二人でプリントを揃える。
紙の角を合わせる指が、たまにぶつかりそうになる。
「橘さん。テストどうだった?」
「まあまあかな」
橘さんは、軽く肩をすくめた。
「白石くんは?」
「僕は……思ったより、よかった」
「そうなんだ」
橘さんが、こちらを見る。
「数学、私より上だったね」
冗談っぽく言うけど、声は柔らかい。
「たまたまです」
「たまたまじゃないよ」
橘さんが、くすっと笑う。
「ちゃんと勉強してたでしょ。しかも、菜月にわかりやすく教えてたし」
「……まあ」
僕は、つい視線を逸らした。
プリントを揃える手元。
紙の端が、少しずれている。
橘さんが、それを直してくれる。
「こうだよ」
距離が、ほんの少し近づく。
その瞬間、胸の奥が、きゅっと鳴った。
廊下の向こう。
真琴と菜月は、準備室の前を通りかかった。
「……あれ?」
真琴が、思わず足を止める。
半開きの扉の向こう。
中を覗くと、二人が並んで座っていた。
男子生徒と、美咲。
机にプリントを広げて、
肩が触れそうな距離。
「……静かじゃない?」
菜月が、小声で言う。
「うん……」
真琴は、目を細めた。
男の子は眼鏡をかけていて、前髪も下ろしている。
正直、ぱっと見は地味。
……誰だっけ。
同じクラス、だった気はする。
でも、名前までは出てこない。
ああいうタイプ、覚えてないんだよね。
真琴がそんなことを考えている間に——
美咲が、ふっと笑った。
声を出さずに、
相手の手元を覗き込むような笑い方。
柔らかくて、近くて、
どこか――女の顔。女?
「……ちょっと待って」
真琴が、無意識に菜月の袖を掴む。
「美咲ってさ、男子にあんな顔する?」
「……しないかな」
菜月が、即答する。
「クラスでは、もっと線を引いてる」
二人の視線が、再び中へ戻る。
美咲は、相手の言葉に頷いて、
小さく口元を押さえて笑っていた。
距離も、空気も、
明らかにいつもの美咲じゃない。
「……あの子、誰?」
真琴が、声を潜める。
「分かんない」
菜月も、首を振った。
「でも……」
一拍置いて、静かに続ける。
「美咲、楽しそう」
菜月が、ぽつりと言った。
その一言で、
真琴の胸が、ぎゅっと掴まれる。
「……は?」
思わず、小さく声が漏れた。
もう一度、準備室の中を見る。
美咲が、笑ってる。
声を出さずに、
相手の言葉に頷いて、
机に肘をついたまま、距離を詰めて。
——あんな顔、なかなか見れないよ。
「ちょ、待って」
真琴が、無意識に菜月の腕を掴む。
「ほんと誰、あの男」
「知らない」
菜月も、即答だった。
「同じクラス……だった気はするけど」
「でしょ?」
真琴の声が、少しだけ上ずる。
「名前も出てこないレベルの人だよ?」
二人は、顔を見合わせる。
もう一度、中を見る。
男の子は、眼鏡で前髪下ろしてて、
正直、目立たない。
——なのに。
美咲は、
その人にだけ、やけに近い。
「……距離、近くない?」
「近い」
「え、あんなに?」
「うん、あんなに」
一拍。
真琴が、思わず吐き捨てるように言った。
「なんで、あんな地味そうな人相手に、あんな顔すんのよ……」
怒ってる、というより混乱。
理解が追いついてない。
「意味わかんなくない?」
菜月は、少しだけ黙ってから言った。
「……美咲、男子にああいう顔できるんだね」
その言葉に、
真琴の喉が、きゅっと鳴った。
「……それ」
もう一度、中を見る。
美咲は、相手のノートを覗き込んで、
小さく笑っている。
完全に、素。
「……ねえ」
真琴が、低い声で言う。
「これ、あとで聞くよね」
「うん」
菜月も、はっきり頷く。
「絶対、聞く」
「今は?」
「今は——」
二人は顔を見合わせて、
同時に視線を外した。
「……泳がせる」
「だね」
二人は、何も言わずに歩き出す。
でも——
胸の奥は、
さっきよりずっと、ざわついていた。
僕たちは作業が終わって、準備室を出る。
廊下の窓から、夕焼けが差し込んでいる。
床に、オレンジ色の線が伸びていた。
「ありがとうございます、橘さん」
「ううん。気にしないで」
「助かりました」
「じゃあ、またね」
「うん、また」
僕は、その背中を見送った。
胸の奥が、温かい。
「美咲!!」
声をかけられて、びくっと肩を揺らして振り返った。
真琴と菜月が、数歩先に立っている。
二人とも、さっきまでとは違う顔だった。
「ねえ、今度さ」
真琴が、あくまで軽い調子で言う。
けれど、その視線は逃がさない。
「白石くんのバイト先、行ってみたいんだけど」
「……え?」
「ほら、テスト終わったし」
菜月も頷く。
橘さんは、一瞬だけ黙った。
バイト先まで行くと迷惑じゃないかな。でも三人なら良いかも。それに私も行ってみたい。
「……三人なら」
そう答えてしまう。
「よし、決まり」
真琴が、満足そうに笑った。
「それとさ」
にやり、と笑う。
「さっきの美咲」
橘さんの心臓が、どくんと鳴る。
「……さっきのってなに?」
「準備室の男の子との作業。いつもの顔じゃなかったよ。」
逃げ道は、なかった。
菜月が、静かに続ける。
「無理に言わなくていいけど」
一拍。
「でも、私たち、見ちゃったから」
私は何も言えなかった。
胸の奥が、ざわつく。
言ってしまった。
約束してしまった。
そして——
見られてしまった。
教室に戻って、真琴は窓の外を見ていた。
夕焼け。
校舎の影。
遠くで、部活の掛け声。
さっきの準備室。
距離。
空気。
美咲の顔。
「……」
真琴は、誰にも聞こえない声で呟いた。
……これ、もう始まってない?
答えは、分からない。
でも、もう「何も起きていない」とは言えなかった。
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