第18話 揺れる場所
「こんにちは」
軽い声。
けれど、射抜くような鋭い瞳。
「さっきの、すっごく可愛い女の子。……美咲には言えないような関係なのかな?」
夜の駅前。
帰宅を急ぐ人々の流れの中で、その一言だけが、ひどく冷たく浮いて聞こえた。
桜井真琴が、俺の眼前に立っていた。
一瞬、言葉が詰まる。
喉の奥が引き攣るような感覚。
「……バイト先の後輩です」
嘘は言っていない。
なのに、心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
「後輩?」
桜井さんが、一音ずつ確かめるように繰り返す。
「はい。テスト前で、ちょっと勉強を教えてただけで……」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
やましいことなんて何一つない。
ただの事実だ。
桜井さんは、じっと俺の顔を凝視した。
責めるでもなく、疑うでもなく、ただその奥にある「誠実さ」の真偽を測るような、深い観察の目。
やがて、彼女はふっと視線を逸らした。
「……へえ。そうなんだ」
短くそう言って、彼女は踵を返した。
「じゃあね、白石くん。テスト勉強、頑張って」
それだけ言い残し、彼女は雑踏の中へと消えていった。
嵐が去った後のような沈黙。
改札の電子音だけが、やけに大きく耳に障る。
俺はしばらく、彼女が消えた方向を見つめていた。
靴の中に小さな石が入ったような、取ろうとしても取れない、妙な不快感が胸の奥に居座っていた。
家に帰り、玄関で靴を脱ぎながら、大きな溜息が漏れた。
「はあ……」
自分でも理由が分からない。
部屋に入って鞄を放り投げ、制服のままベッドに倒れ込む。
スマホを取り出すが、橘さんからの通知はない。
……いや、俺から送るべきなのか?
何を?
藤崎さんと勉強していたことを?
いや、報告するような関係でもない。
「……意味わかんねえな、俺」
天井を見つめたまま、独り言がこぼれた。
ただ後輩に勉強を教えただけ。
それなのに、橘さんの顔が浮かぶたび、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
この感覚を、俺はまだ「罪悪感」と呼ぶ勇気を持てずにいた。
【橘美咲視点】
その頃。
自室の真ん中で立ち尽くしていた。
制服のまま、鞄を握りしめたまま。
ベッドには開きっぱなしの教科書。
床には脱ぎ捨てられたカーディガン。
「……」
手元のスマホには、真琴からのメッセージが表示されていた。
『白石くん、やっぱり女の子といたよ。バイトの後輩だってさ。勉強教えてたみたい』
それだけ。 ただそれだけなのに。
「……っ」
私は、逃げるようにベッドへ倒れ込んだ。
枕に顔を押しつけ、声を押し殺す。
「なんなの、もう……」
胸の奥が、ざわざわして落ち着かない。
白石くんを責める理由なんて、どこにもない。
付き合っているわけでもない。
それなのに、視界の端で笑う知らない女の子の幻影が、彼女の心をかき乱す。
ゴン、と肘がベッドフレームに当たった。
「痛っ……」
その拍子に、積んでいた教科書が床に崩れ落ちた。
「美咲? 何やってるの、うるさいわよ」
廊下から母親の声がする。
「……ごめん。なんでもない」
慌てて起き上がるが、教科書を拾う指先が微かに震えていた。
夕食の席でも、思考は霧の中だった。
「美咲、聞いてる? 最近、ぼーっとしてるわよ」
「え? ああ、うん……大丈夫。テストのこと考えてただけ」
即答したが、自分でも嘘だとわかっていた。
部屋に戻り、ベッドに腰掛けてスマホを開く。
白石くんとのトーク画面。 何かを打っては、消す。
『今日、何してたの?』……重い。
『勉強教えてたんだってね』……怖すぎる。
『忙しかった?』……これも、なんだか。
「……もう、私、最低」
小さく呟いて、スマホを伏せた。
聞きたい。
でも、聞けない。
彼にとって自分は、まだ「クラスメイトの一人」に過ぎないのだから。
【白石悠真視点】
一方、俺は机に向かっていた。
教科書は開いている。
シャーペンも握っている。
けれど、一時間前から同じページを眺めたままだ。
桜井さんの探るような目。
橘さんの笑顔。
藤崎さんのシトラスの香り。
それらが頭の中で混ざり合い、整理がつかない。
その時、ポケットのスマホが短く震えた。
反射的に掴む。画面には、待ち望んでいた名前。
『勉強、大変?』
美咲からだった。
たった四文字。それだけで、凍りついていた胸の奥が、ふっと熱を帯びて溶け出す。
『大変。……橘さんも?』
すぐに既読がついた。
少しの間があって、返信が来る。
『一緒だね。私も、ちょっと苦戦中』
たったそれだけのやり取り。
なのに、憑き物が落ちたように肩の力が抜けた。
『一緒に頑張ろう』
『うん。おやすみ、白石くん』
会話はそこで途切れた。
けれど、それで十分だった。
布団に入り、天井を仰ぐ。
橘さんも今、同じようにテストのことを考えているんだろうか。
スマホを胸の上に置くと、彼女の温もりが伝わってくるような気がした。
「……会いたいな」
小さく呟いて、すぐに目を閉じる。
今はまだ、このもどかしい距離が、俺たちには必要なんだ。
その頃。
美咲もまた、布団の中で『一緒に頑張ろう』という文字を何度も読み返していた。
理由はわからない。
けれど、さっきまでの黒いモヤモヤが、嘘のように消えていた。
「……なんで、こんなに安心しちゃうんだろ」
答えはまだ、暗闇の中。
でも、この愛おしい揺らぎを、彼女は嫌だとは思わなかった。
まだ、何も始まっていない。
けれど、二人の心だけは、夜の静寂の中で確かに響き合っていた。
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