第16話 近すぎる後輩
ここは安全な場所のはずだった。
店の扉を開けた瞬間、焙煎した豆の匂いが肺の奥まで入ってくる。ジャズが小さく流れて、カップの音が軽く鳴る。俺は息を整えるみたいに前髪を上げ、眼鏡のない視界に慣れる。
いつも通り。ここでは、いつも通りでいられる。
そう思った、その瞬間。
「先輩」
藤崎麻衣の声だった。カウンターの奥から、いつもの明るさで手を振ってくる。ショートカットが跳ねて、エプロンの紐が揺れた。
「……昨日」
麻衣が、ほんの少しだけ声のトーンを落とす。
「昨日、駅前にいましたよね? 女の人と一緒だったような……」
心臓が、喉まで跳ねた。
耳の奥が熱くなる。店の音が一瞬だけ遠のく。俺は笑う顔を作るより先に、指先でエプロンを掴んでいた。
「えっ?」
声が掠れた。
「気のせいじゃない?」
自分で言っておいて、薄すぎると思った。気のせいで済むなら、人生は楽だ。
麻衣は首を傾げる。疑っているというより、思い出している顔だった。そこが余計に怖い。
「やっぱ似てたんだよなあ。背の感じとか。先輩、目立つから」
目立つ。俺が。
その言葉だけで、胃の奥がきゅっと縮む。
「俺、昨日は家にいたよ」
嘘だ。嘘だけど、言い切るしかない。言い切った瞬間、喉の奥が苦くなる。
麻衣は、あっさり笑った。
「ですよね。たぶん麻衣の見間違いです」
それで終わる。麻衣はそういう子だ。無邪気で、明るくて、余計なところに踏み込まない。……踏み込まない、はずだった。
「じゃ、先輩。今日もよろしくお願いします」
その笑顔にほっとして、俺はカウンターに向かった。
なのに、落ち着かなかった。
俺の中で、昨日の駅前の景色がまだ熱を持っている。
美咲の横顔。手を伸ばしたときの体温。あの空気。
思い出すだけで、胸がふわっと軽くなる。軽くなって、すぐに怖くなる。
守れてるのか。隠せてるのか。
俺は手を洗いながら、鏡に映る自分の顔を見た。
ここにいる俺は、俺だ。
学校の俺とは、違う。
違うのに。
昨日のことを知っているのは、俺だけじゃなくなってる気がした。
忙しい時間が始まった。
注文が入り、グラスが鳴り、エスプレッソの蒸気が上がる。俺は笑って、手を動かす。客の目線が集まっても、ここでは平気だ。俺はこういう自分を演じる方が、むしろ楽だったりする。
「先輩、ミルク切れそうです」
麻衣が袖を引く。
近い。
距離が、近い。肘が触れそうだ。というか、触れた気がする。麻衣が悪いわけじゃない。麻衣はいつもこうだ。人に近づくのが、自然な子だ。
でも今日は、俺が耐えられない。
昨日から、身体が変になってる。触れたら、熱が残る。残った熱で、頭が勝手に騒ぐ。
「先輩?」
麻衣が覗き込んでくる。
「……あ、ごめん。今、持ってくる」
俺は逃げるみたいに裏へ回った。冷蔵庫を開けて、ミルクを掴む。手が冷たいのに、心臓は熱い。
こんなことで動揺してどうする。俺は大人ぶってきたはずだろ。
でも、大人じゃない。
十七だ。
そう気づいた瞬間、余計に恥ずかしくなった。
戻ると、麻衣が待っていた。
「先輩、今日ちょっとだけ顔赤いですよ」
「気のせい」
「気のせいじゃないです。熱あるとかじゃないですよね?心配です。」
心配の顔で言うから、余計に否定できない。
「大丈夫。寝不足なだけ」
麻衣は、ふっと笑った。
「先輩って、ほんと頼りがいありますよね。なのに、こういうときだけ人間味ある」
俺は言葉に詰まった。
頼りがい。
麻衣の中の俺は、そういう存在だ。崩したくない。崩れたら、全部が変になる気がする。
「……変なこと言うなよ」
「だって本当ですし」
麻衣はそう言って、指先で俺のエプロンの端をちょん、とつまんだ。
ほどけかけてるところを、直すみたいに。
それだけなのに。
指が触れたところから、熱が走った。
俺の体が、わかりやす過ぎる。
恥ずかしい。逃げたい。でも逃げたら、麻衣が不安になる。俺は笑って、平気な顔を作る。
「ありがとう」
「はい。麻衣は先輩のこと尊敬してますから」
さらっと言って、さらっと去っていく。
残ったのは、俺の胸の奥に刺さった言葉と、直されたエプロンの感触だけだった。
やめてくれ。
そういうの、弱い。
褒められると、嬉しいのに、怖い。
閉店作業が終わった。
椅子を上げ、床を拭いて、最後のカップを片付ける。マスターが静かに豆をしまいながら、俺に目を向ける。
「悠真くん。今日は少し、心が急いでいるね」
「……分かります?」
「長く店にいると、分かるようになる」
マスターは笑うでもなく、ただ穏やかだった。
「隠すことは悪いことじゃない。だが、隠すほど大事なものができたとき、人は焦るもんだよ」
俺は返せなかった。
焦っている。確かに。
美咲のことを思うたび、嬉しくなる。嬉しくなるほど、壊れそうで怖くなる。
マスターはそれ以上言わず、鍵を閉める準備に戻った。
店の外に出ると、夕方の空気が冷たい。
ポケットからスマホを取り出す。
橘さんからのメッセージが来ていた。
『お疲れさま』
短い文。
それだけで、胸がふわっと軽くなる。軽くなって、また怖くなる。
俺は返信を打った。
『お疲れ。今、終わった』
送信。
既読。
すぐ返事。
『頑張ったね』
その文字を見て、俺は笑ってしまった。
笑ってしまって、慌てて口元を押さえた。誰もいないのに。
今の俺、気持ち悪いくらい浮かれてる。
でも、浮かれる。浮かれてしまう。
「先輩」
背後から声がした。
振り返ると、麻衣が店の入口に立っていた。鍵を閉めるのを忘れたか、何か言い忘れたか。そんな顔だ。
「どうした?」
麻衣は少しだけ迷って、それからいつもの笑顔に戻った。
「さっきの、麻衣の見間違いかもって言ったじゃないですか」
「うん」
「でも、ひとつだけ」
麻衣が自分の指先を見つめる。寒さで赤くなっている。
「昨日、その人……すごく楽しそうだったんです」
俺の背中に、冷たい汗が滲んだ。
「楽しそうって?」
「女の人と一緒で」
麻衣は言い直して、慌てて手を振った。
「いや、先輩がって意味じゃなくて。二人の空気が。なんか……いい感じだったというか」
いい感じ。
麻衣の言葉が、胸の奥に落ちた。
あの時間は確かに、いい感じだった。
それを他人に言われるだけで、恥ずかしくて、嬉しくて、怖い。
俺は平気な顔を作った。
「それ、俺じゃないよ」
麻衣は、ふっと笑った。
「そうですよね。先輩は、嘘つかないですもんね」
その言い方が、優しすぎて。
胸が痛くなる。
麻衣は頭を下げた。
「変なこと言ってすみません。今日も助かりました」
「……おう」
麻衣は小さく手を振って、駅の方へ歩き出した。
俺はその背中を見送った。
麻衣の言葉が、ずっと耳に残る。
先輩は、嘘つかない。
嘘ついてる。
俺は今、嘘の上に立ってる。
スマホが震えた。
橘さんからだ。
「明日、少しだけ会える?」
胸が熱くなる。指先が震える。
会いたい。
会いたいのに、会うのが怖い。
俺は返信を打った。
「会える。少しだけ」
送信。
すぐ既読。
「約束」
たった二文字。
なのに、心臓が跳ねた。
俺はスマホを握りしめたまま、空を見上げる。
夕焼けが、ゆっくり夜に溶けていく。
背中に、また視線を感じた気がした。
振り返る。
誰もいない。
ただ、遠くに麻衣の後ろ姿が見えた。
彼女は一度だけ立ち止まって、何かを思い出すみたいに首を傾げて、それからまた歩き出した。
俺は前を向いた。
もう、時間がない。
そう思うのに。
心は、少しだけ温かかった。
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