第11話 変わらない日常
バレたはずなのに、何も変わらない朝だった。
教室の後ろ、廊下側の席。
俺は眼鏡をかけて、前髪を下ろし、いつもの白石悠真でいた。
周りの生徒たちは、笑い合っている。
誰も俺を気にしていない。
それでいい――そう思っていた。
けれど。
窓際の席に座る橘さんが、ちらりとこちらを見た。
目が合う。
ほんの一瞬。
橘さんが、小さく微笑んだ。
それだけで、胸の奥がふっと温かくなる。
たったそれだけなのに、今日一日を生きていける気がした。
昼休み。
俺は、いつもの場所にいた。
校舎裏のベンチ。
誰も来ない、逃げ場みたいな場所。
弁当を広げ、スマホを取り出す。
画面には、橘さんからのメッセージ。
『さっき、目合ったね』
朝のことだ。
廊下ですれ違った、ほんの一瞬。
俺は少し迷ってから、打ち込む。
『見てた?』
すぐに既読がつく。
『見てた』
短い一言。
それだけで、口元が緩んだ。
『教室では話せないね』
『うん、ごめん』
そう返すと、少し間が空いてから返事が来た。
『謝らなくていいよ』
『白石くんのペースでいいから』
胸が、きゅっと締め付けられる。
待ってくれている。
変われない俺を、急かさずに。
でも――俺は、まだ踏み出せない。
学校で眼鏡を外して、前髪を上げて、
あの俺になる勇気が出ない。
目立ったら、
また誰かを傷つけてしまう気がして。
過去が、まだ消えない。
『ありがとう』
そう送ると、返事は来なかった。
けれど、既読はついている。
それで、十分だった。
放課後。
俺は図書室にいた。
数学の参考書を開き、問題を解く。
静かで、誰とも目が合わない場所。
ここなら、大丈夫だ。
……そう思っていたのに。
扉の開く音。
顔を上げると、橘さんが友達と一緒に入ってきた。
笑っている。
いつもの橘美咲。
俺は、反射的に視線を落とした。
見てはいけない。
関わってはいけない。
でも。
「あれ、白石くんだ」
クラスメイトの声。
心臓が跳ねる。
「数学委員の人だよね」
「うん、同じクラス」
橘さんが、さらりと答えた。
その声は、完全にみんなの前の橘美咲だった。
二人は奥の席へ向かう。
俺は、小さく息を吐いた。
これでいい。
今は、これで。
そう思い込もうとする。
けれど、胸の奥が少しだけ痛んだ。
夜。
家に帰り、スマホを見ると、メッセージが届いていた。
『図書室、いたね』
『うん』
短く返す。
『声かけなくてごめん』
少し迷って、俺は正直に打った。
『俺、まだ学校では……』
言葉が続かない。
既読がついて、すぐに返事が来た。
『大丈夫。無理しなくていいよ』
その一文だけ。
でも、少し間を置いて、もう一通。
『ただ、逃げないでね』
スマホを握りしめる。
逃げない。
そう決めたはずだった。
それでも、今はまだ――足がすくんでいる。
俺は、ゆっくり打ち込んだ。
『もう少しだけ、時間が欲しい』
送信。
すぐに返事が来た。
『うん』
『待ってる』
『ちゃんと前に進もうね』
『二人で』
胸の奥が、熱くなる。
俺は責められていない。
置いていかれてもいない。
ただ、隣にいてくれる。
『ありがとう』
そう送ると、返事は来なかった。
代わりに、小さなハートのスタンプが表示された。
それだけで、十分だった。
ベッドに仰向けになり、天井を見る。
過去が、まだ俺を縛っている。
正しいと思って動いた結果、
誰かが学校に来なくなった。
それ以来、
目立つことも、踏み込むことも、怖くなった。
でも。
橘さんは、違う。
逃げている俺を、責めない。
それでも「逃げないで」と言ってくれる。
窓の外には、静かな月。
変わりたい。
学校でも、ちゃんと向き合いたい。
今はまだ、画面の向こうでしか並べないけれど。
――いつか。
同じ場所で、同じ顔で、隣に立てる日が来る。
そう信じて、
俺は静かに目を閉じた。
明日も、同じ教室にいる。
そして、少しだけ前に進む。
それが、今の俺にできる約束だった。
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